植え込みの陰からひょっこり覗いたふたつの頭。齢は十を過ぎた頃か、少年は二人とも背中に届く金色の髪をそれぞれ青と緑のリボンでひとつに結んでいる他には、傍目に違いが分からないほど顔も服装もほぼ同じ。 彼らが揃って視線を向けているのは、植え込みの向こう側の中庭で花壇に腰掛けた栗毛の少女。手にしたバスケットの編み目のほつれを落ち着きなく指先で弄り、そわそわと何かを待っている。 「ホラ、早く行けよ。待ってるだろ」 青いリボンをつけた少年が緑のリボンの少年の肩を肘で小突く。 「ええ、でも……、俺、話すことないし……」 「バカだな、レディを待たせるなんて男のすることじゃないぞ。見ろよ、いつもより可愛いカッコしてるじゃないか。お前のためだろ、マッシュ」 マッシュと呼ばれた少年は困ったように眉を下げ、植え込みから顔を引っ込めて小さくしゃがみ込んでしまった。 「そんなの分かんないよ……、あにき、代わりに行って来てよ」 「何言ってんだ。『お前に』話があるって言ったんだろ。しっかりしろよ」 「リボン替えっこしたら、きっと分かんないよ」 「だーめ。自分で行けよ。ちゃんと「そのカチューシャ可愛いね」って言うんだぞ、ほらっ」 無理やり腕を引っ張られ、兄によって植え込みから押し出されたマッシュが思わず中庭に顔を向けると、少女もまたマッシュに気づいて花壇から立ち上がった。その膝から落ちかけたバスケットを慌てて抱え直し、真っ赤な顔でマッシュが近づいて来るのを待っている。 マッシュは横目で兄を伺った。悪戯っぽくウィンクを見せた兄は、身を低くして植え込みからはみ出さないよう四つん這いになり、その場を離れて行ってしまう。 頼る存在をなくしたマッシュは、仕方なく少女の元へと歩き出す。徐々に近づく少女の姿がはっきり分かる位置まで来ても、普段の彼女の格好と何処がどう違うのかはピンと来なかった。 少女の目の前に立ったマッシュは、未だ戸惑いが抜けずに下がった眉のまま、兄に言われた通り「そのカチューシャ、可愛いね」と心にも無い言葉を口にした。 *** 「おうマッシュ、支度できてるか?」 ファルコンの甲板から降りて来るマッシュを見上げてロックが声をかけて来る。肩にかけたタオルで顔の汗を拭きながら、「ああ」と頷いたマッシュの前髪の先から汗の雫がぽたりと垂れた。 「着替えは?」 「めんどくさいからいいよ」 階段を降り切ったマッシュは肩のタオルを頭に被り、風呂上がりのように豪快に汗を拭き取る。二時間ほどの空き時間を修行に費やしたマッシュは、このまま予定通り街への買い出しに向かうつもりだった。 一緒に行くロックとセリスに買い物を任せ、自分は荷物持ちに徹するのだから、多少薄汚れて汗臭くても構わないだろう──無頓着に構えていたマッシュが飛空艇の出入り口を目指そうとした時、ロックが思い出したように口を開く。 「ああ、そういやお前の兄貴も付いて来るってさ。機械の部品を調達したいんだと」 その言葉にピクリと肩を揺らしたマッシュは、数秒動かずに立ち止まり、くるりと方向を転換した。 「……やっぱ、着替えて来る」 「ん? 何だよ急に」 「いや、……濡れて気持ち悪いから」 歯切れ悪く呟いたマッシュを不思議そうに見上げたロックは、それでもその言い分に納得したようで早く行けよと手を振った。 私室として割り当てられている部屋へ小走りで向かいながら、マッシュは少年時代の出来事を思い出す。まだ愛だの恋だの心に名前をつけることが理解出来なかった頃、時折遊び相手となっていた年の近い少女から辿々しい告白を受けたことがあった。 付き添いを頼んだ兄のエドガー曰く、彼女は普段よりめかし込んでいたらしい。しかし当時のマッシュは、彼女の変化も、何故お洒落をする必要があるのかもさっぱり分からないまま、少女の決死の告白にごめんねと頭を下げたのだった。 今ならあの時の少女の気持ちがほんの少し分かる──部屋に着いたマッシュは汗に濡れた服を脱ぎ捨て、洗濯したばかりの太陽の匂いがする新しい服を身につけた。 それから、飾り棚にさり気なく置いていた小さなアトマイザーを手に取り、蓋を開けて首元に吹き付ける。爽やかな石鹸の匂いがふわりと空気に弾けて肌に落ちた。 控え目な香りではあるが、漂う匂いに自分でも軽く噎せてしまう。やはり慣れないなと蓋を閉めた小瓶を棚に戻し、匂いを馴染ませるために扇子代わりの手で首を扇いだ。 このコロンは兄のエドガーからプレゼントされたものだ。修行の後に汗を掻きっ放しでうろついていたマッシュに、レディたちの前で男臭くしていては失礼だとエドガーが手渡したコロンは、風呂上がりの香りに似ていて使うのに抵抗は少なかった。 しかしマッシュは「エドガーから渡された」という事実にショックを受けた。これを寄越したということは、エドガーがマッシュの臭いを不快だと判断したのも同然ではないか。女性陣にどう思われようと気にはならないが、他でもないエドガーから指摘されたことに思いの外マッシュは傷いてしまった。 好きな人の前ではそれなりに格好つけたい。そんな気持ちがこの歳になるまで分からなかったとは。 あの時顔を真っ赤にしてマッシュに想いを伝えた少女は、精一杯自分を磨いて来たのだろう。その必死さなど全く意に介さず、彼女の努力に気づきもしなかった。 今はもう名前も顔も思い出せない少女に申し訳なく思いながら、マッシュは鏡の前で乱れた髪を整えた。 「セリス、新しい髪留めだね。瑠璃色がよく似合っているよ、君の美しさが際立つ」 「相変わらず目敏いのね、エドガーは」 商店街を歩きながら息をするようにセリスの髪留めを褒めるエドガーに対し、セリスは呆れた口調でありながらも満更でもなさそうな苦笑を見せた。 マッシュがちらりと隣のロックに視線を移すと、案の定面白くなさそうな顔をしている。ロックはセリスの髪留めが新しいものだと気づいていたのだろうか? マッシュは新しいかどうかを判断する以前に、セリスが普段から髪留めを使っていたかどうかも覚えてはいなかった。よく見ているものだと、昔と変わらない兄の着眼点に感服する。 子供の頃からエドガーは目敏かった。観察眼が鋭いとでも言うのだろうか、周囲の人々の変化に聡く、良いところを見つけて褒めるのが上手い男だった。 人の機微をじっくり見ているからこそ出来る芸当なのだろう。双子であるというのに、マッシュにはさっぱり備わっていない能力だった。特に女性のささやかなお洒落など、気づくどころかどういったものが可愛らしいのかもいまいち分かっておらず、よくエドガーに呆れられたものだ。 誰がどんな服を着ていようが、どんなアクセサリーを身につけていようが、その人と接するのに重要な事柄ではない。少なくともマッシュのその考えは小さい頃から今でも変わってはいない。 ただし例外ができた。「好きな人に対しては別」だ。 前列を歩くエドガーが隣のセリスに顔を向ける度、美しい鼻筋の横顔がマッシュの眼に映る。白目が薄っすら赤い。昨夜は遅くまで起きていたのだろうか。前髪の分け目が昨日と違う。週に何度か気分で変えているようだが、今の分け目の方がほんの少しだけ好きだったりする。勿論どんな髪でも好きなのだけれど。 他の誰に対しても興味すら湧かないささやかな変化に関するアンテナは、エドガーにのみ反応した。それこそ髪を結うアクセサリーがひとつ変わっただけでもすぐ分かる。兄が満遍なく周囲を見ているのと同じだけの強さで、マッシュはエドガーしか見ていなかった。 いつからここまでエドガーだけを見るようになったのかはよく覚えていない。城を出て十年ぶりに再会してから、いつしか常に兄の姿を目で追っていた。今日は少し疲れているな、何だかピリピリしている、そんな精神的な変化から、身につけている装飾品の前日との違いまで、小さなことでもすぐに気づいた。 他人の洒落っ気などどうだって良いが、エドガーがさり気なく自分を飾るアイテムは素直によく似合って素敵だと思える自分がいる。これが贔屓目というものなのだろうか? 他人に興味がなかったのではなく、特定の存在にしか働かないこの視点。 これが恋であると、三十路を目前にしてマッシュはようやく思い知らされたのだ。 そして好きな人には良く見られたいと思う気持ちも理解した。それは自分を飾り立てるというよりは、不快感を与えたくないというささやかなものではあるけれど、それだけエドガーに手渡されたコロンがショックだったのだとマッシュは小さく溜息をつく。 エドガーに嫌われたくはない。想いが通じることはないと諦めてはいるものの、日々の生活で兄に幻滅されるような行動は取らないようにしよう──マッシュはめかし込むことこそ出来ないが、清潔さくらいは保つべく気遣いを続けることを心に誓った。 この時は、まさかそれから半年も経たないうちにエドガーと心を通わせるようになるだなんて夢にも思っていなかった。 自らの両腕に兄の身体を抱くなどと、妄想にしても度が過ぎると呆れていた願いが叶った時、マッシュは初めての恋の成就にのぼせ上がると同時に怖くもなったのだ。 *** 夜も更けた寝室ではベッドサイドに置かれたランプの最低限の灯りのみが揺らめき、悩ましげに眉間に寄せられた皺をオレンジ色に照らしている。 ベッドに仰向けに寝転んだマッシュの腹の上に跨って、一糸纏わぬ姿で唇の隙間から熱のこもった吐息を漏らすエドガーを見上げたマッシュは、その白い頬に薔薇色が差す様を陶酔の眼差しでぼんやり眺めていた。 下から緩く腰を突き上げると、掠れた声を上げたエドガーが背中を反らして喘ぐ。そのまま猫科の動物のようにマッシュの胸に縋るように身体を倒し、脇の下付近に顔を埋めて肌を重ねたエドガーに対し、我に返ったマッシュが慌ててエドガーの頭を持ち上げるようにずらした。 その動作が不服だったのか、顔をマッシュに向けたエドガーの表情が不機嫌さを主張している。狼狽えたマッシュの無精髭が散った顎に軽く歯を立てたエドガーは、「頭を掴むな」と甘えの混じった声で文句を言った。 「……だって、汗掻いてるし」 マッシュがボソリと零した言葉に眉を寄せたエドガーは、ふとマッシュの首筋に鼻を寄せて鼻翼をヒクつかせる。 「お前、まだあのコロンつけてるのか」 「う、うん」 「夜はつけなくていいんだよ」 「……でも俺汗っかきだから」 「それがいいんだろ」 「?? だって、兄貴も気になったからくれたんだろ? あのコロン……」 「……、あれはだな、お前の男らしさにレディたちが引き寄せられないように……」 もごもごと口籠る言葉がよく聞き取れず、再度え? と尋ね返すがエドガーは答えずにマッシュの胸に頬を当てる。汗溜まりができている胸の真ん中にエドガーの顔があることにマッシュは戸惑うが、エドガーは気にする素振りもなく頬を擦り寄せて鼻から息を深く吸い込んだ。 「俺の前では……消さなくていいんだ、この匂い……」 夢を見ているようにうっとりと呟いたエドガーは、深く繋がったままの下半身をゆっくりと揺らした。思わず呻くマッシュの胸から脇腹を撫で、緩慢に頭を擡げたエドガーは半開きのマッシュの唇を優しく吸い上げる。 キスの後の至近距離で、蕩けたマッシュの瞳を見つめ、エドガーが妖しく口角を吊り上げて吐息混じりに囁いた。 「俺に独占させてくれ」 そしてきゅうっと秘部を締め付けたエドガーが再び腰を動かし始め、繋がった場所に与えられる刺激の強さにマッシュは切なげに眉を垂らして歯を食い縛った。 好きな人の前ではそれなりに格好をつけたい。そう思っているのに、心も身体ももうずっと翻弄されっぱなしだ。 こんなに誰より見つめているのに、些細な変化には気づいても、未だにエドガーの気持ちが分からない。それは時折恐怖にも似た焦りをマッシュに募らせた。この先兄の心の全てを理解できる日は来るのだろうか? 分からないなら、せめて格好くらいはつけさせて欲しい──腕に力を込めて上半身を起こしたマッシュは、捕えるように抱き締めたエドガーの身体を倒して胸の下に閉じ込めた。 明日からはまたコロンをつけるタイミングに悩むことになるのだろう。やはりこの歳になっても恋は難しい。 あの日マッシュに告白するためにめかし込んだ少女を再び思い出した。恐らくは彼女のようにそわそわと浮かれた表情の自分は、格好など少しもつけられていないのかもしれない。 頭の中に他人が入り込んだのはそのほんの刹那、すぐにマッシュはエドガーで心をいっぱいに満たし、長い夜に溺れるべく理性を投げ捨てた。 |