共鳴




 くたくたに疲れた体を引き摺って用意された部屋に戻ったマッシュは、客室にしては粗末なベッドに全体重を預けるようにどっかり腰を下ろした。
 ギシッと軋む音に一瞬ヒヤリとするが、ベッドは折れずに持ち堪えてくれたようだった。──ここはフィガロの上等なベッドではないのだから気をつけなければと何度も思うのにすぐ忘れてしまう。
 マッシュがフィガロ国王のエドガーの名代としてドマの復興作業の視察に訪れてから早一ヶ月。フィガロの代表という立場ではあるが自ら志願して一般兵と同じ作業に従事し、寝床も来賓用ではなく兵たちと同じものを利用していた。
 本来は明日フィガロに戻るための二ケア経由の船便を利用するはずが、カイエンのたっての頼みで一週間ばかり帰城を伸ばすことになってしまった。請け負った作業が中途半端になるよりはきっちり区切りよく終わらせたいとマッシュも了承したのだが、この日に帰ると決めていた日付がずれる罪悪感は少なからずあった。
 すでに三日前にフィガロ城に向けて伝書鳩を飛ばしたので、今日辺りエドガーも事態を把握しただろう。帰城が一週間遅れると分かって兄はどんな反応をしただろうか。ドマのためなら仕方ないと納得はしてくれただろうが、少しばかり淋しい気持ちになってくれたりもするのだろうか。
 マッシュとしては想像以上に過酷なドマの現場を見て、自分が力になるならと純粋に手を貸したい気持ちに偽りはないのだが、エドガーに会えない期間が延びるのはやはり辛い。予定では明日から移動して五日後には顔を見ることができたはずなのに、更に追加された七日間。
 一ヶ月会わなかった時間にたった一週間が増えただけと言われてしまえばそうなのだが、この日に会えると指折り数えて心待ちにしていた期日が、ほんの僅かでも延びてしまうと心に受けるダメージが存外に大きい。いい大人であるというのに情けない、とマッシュは大きくため息をついた。
 そうしてのろのろと立ち上がり、持参した荷物の袋を気怠げに漁る。中から丁寧に畳まれた青いリボンを取り出したマッシュは、はらりと美しく解けた一端にそっと唇に当てて目を閉じた。
 出発前にエドガーが持たせてくれた、彼の髪を束ねるふたつのリボンのうちのひとつ。無事を願うと手渡されたリボンには、エドガーが髪につけている香油の香りがまだ仄かに残っていた。
 瞼の奥の瞳が愛しい姿を映し出す。長い睫毛と白い肌、薄紅の唇。豊かな金髪を翻して振り向き、気高い表情がマッシュを認めて柔らかく微笑んで、嬉しそうに頬を緩めるその様がありありと思い出される。
(……兄貴)
 マッシュへと腕を伸ばし、首にしなやかな指を絡みつけて、鼻先が当たる距離でエドガーが意味ありげに瞬きをする。そして瞼が閉じられ、軽く結ばれた唇を求めてマッシュも思わず口を尖らせた。
 当然だがその口で塞げる柔らかな唇があるはずもなく、触れるのは残り香の香るリボンのさらりとした感触のみ。愛しい人のイメージはそこで途切れてしまうが、中途半端に昂った熱は冷めてくれそうにない。
(ああ……マズイなあ)
 この一ヶ月我慢に我慢を重ねてきたのに、ここに来て一気に会えない気持ちが悪い方向に爆発してしまった。
 そっと目を開けて見下ろせば、しっかりと盛り上がった下半身が存在を主張していた。リボンを持ち出したのが悪かった。今まで以上にはっきりと愛する人を具現化してしまい、体だけがその気になってしまっている。
 マッシュは少々躊躇いながら、それでも体の中枢の欲求に諍い切れずに帯に手を伸ばした。寛げた下半身の着衣から顔を出した自分の分身を、リボンを持ったままの右手で緩く包んだ。
 そして再び目を閉じて、ゆっくりと上下に扱き出す。自分の手の熱だけでなく、さらりとしたリボンの感触が兄の艶やかな髪を思い起こさせて、罪悪感に多少なりとも興奮してしまっていることにマッシュは気づいていた。
(ああ、兄貴)
 エドガーが普段してくれているように、最初は少し焦らしながら。
 根元から少しずつ上に上がって、先端をあの形の良い唇の隙間から覗く濡れた舌で、こちらを上目で眺めながらぺろりと。
(兄貴)
 そのまま決して大きくはない口の中に頬張って、息苦しそうに舌を動かしながら垂れてくる長い髪を背中に跳ね除け、口内に余るマッシュのものを唇で扱くエドガーの温もりを思い出しながら、少しずつ手の動きを速めていく。
 ちらちらと揺れるリボンの端がマッシュの茂みを擦り、まるでエドガーの吐息が触れているかのようだった。エドガーの手、唇、舌、息、全てがマッシュの昂りを駆り立てる。
(兄貴っ……)
 限界を感じたマッシュは思わずリボンごと亀頭を強く握り込んだ。それと同時に握ったものがびくびくと収縮し、マッシュの手の中にこの一ヶ月溜め込んでいた濁った液体を吐き出す。マッシュはいつの間にか荒く上がっていた息を整えながら、すっかり萎んだ分身からそろりと手を離してギョッとした。
「あ、やべ……」
 エドガーから借りていたリボンがべたべたに汚れてしまっている。青ざめて摘み上げれば、青く光沢のあったリボンに見るも無残な染みが広がり、仄かに残っていたはずのエドガーの髪の香りは異臭で上書きされてしまっていた。
「あ〜……、ごめん兄貴……」
 マッシュはここにいない愛する兄に深々と頭を下げ、同じくだらりと頭を垂れた分身を気まずくしまい込むのだった。




 ***




 寝室の灯りを落として息をつくと、その音が広い室内にやけに響いて聞こえてエドガーは目を伏せた。
 気分が滅入っている理由は分かっている。今日の昼頃城に到着した伝書鳩のせいだ。
 マッシュが飛ばした伝書鳩に括り付けられた手紙には、帰城が予定より一週間遅くなる旨が記されていた。大柄な体に似合わない、几帳面に高さが整えられた綺麗な文字はまさにマッシュのもので、情けなくも彼の任務に対する責任感を称えるより淋しさの方が優ってしまった自分を恥じる。
 この自分の名代でドマに赴いているのだから、マッシュは与えられた仕事を全うするべく尽力しているのだ。たった一週間会えない時間が延びただけ、そう、たった七日間だというのにその時間をあまりに長く感じてしまっている自分がなんと器の小さい王だろうかと、エドガーはまたため息をついてのろのろとベッドに潜り込んだ。
 一人きりの広いベッドは今日に限ったことではない。マッシュがドマに旅立ってから一ヶ月、いやそれ以前にも王に即位してからの十年間はずっと一人で眠ってきた場所だった。
 それがこんなに広く感じてしまうだなんて重症である。そもそもマッシュをドマに行かせることを命じたのは他でもないエドガーだった。復興作業の視察は勿論、ドマの重臣であるカイエンと協力してその現場を助けられる存在がマッシュしかいなかった。マッシュもその責務を喜んで果たさんと快諾してくれて、勇んで出発した背中を頼もしく見送ったはずだった、なのに。
「……マッシュ」
 口にしてから失敗したとすぐに気づく。声に出してしまうとマッシュの不在が余計に胸を刺す。エドガーは毛布の端を抱き込んで背中を丸めた。
 ああ情けない、こんなにも自分は弱い──マッシュ、マッシュ、マッシュ。たかが会えない時間がほんの僅か延びただけでこの体たらく。
 認めざるを得ない、あの腕が恋しい。息が止まりそうなくらい強く抱き締められたい。それからあの優しい目で見つめられて、そして……
(……)
 エドガーはきゅっと眉根を寄せ、枕に顔を擦り付けた。──こうなってしまうのが怖かったからなるべく考えないようにしていたのに。
 一ヶ月触れられていない体が熱を持て余している。こうして眼を閉じてしまえば──頭の中でイメージしてしまったマッシュがこの丸まった背中を後ろから抱き締めてくれるような錯覚に溺れ、いつもされるように耳に唇を当てて「兄貴」と低い声を注いでくれそうで。
 エドガーは躊躇いながらそっと右手を下肢に伸ばした。下着の中に指先を潜り込ませ、すでに緩く反応しているそれを怖々握り締める。
(……マッシュ……)
 マッシュの手のひらはもう少し大きい。それでも彼がするように、優しく、ひたすらに優しく自身を掴んで擦り上げ、少しずつ動きを速めて漏れ出る息を押し殺した。
 耳に、頸に、首筋に触れる唇の感触。決して華奢ではない自分の背中を包み込んで余りある胸と腕。ひとつひとつを記憶から手繰り寄せ、昂ぶるものを追い詰めていく。下唇を噛み力を込めた足先を縮め、先端から滲み出た先走りの液が立てる水音に聴覚を刺激されながら、自分を抱くマッシュの幻に快楽を委ねようとした。
(マッシュ)
 その瞬間を待ち侘びて、扱く手がより速度を増す。
(マッシュ、マッシュ)
 後少し、もう少しと弾け飛ぶ寸前まで膨らんだものは、しかしなかなかその向こう側に到達してはくれなかった。焦れったくなり手をやや乱暴に動かすが、一定のところまで高まった熱は放出される寸前で何故か勢いを弱めてしまう。
(……)
 ふと、エドガーは手を止めた。布団をめくり、薄闇で勃ち上がってはいるが達し切れない己のものを睨みつける。
 自分を慰めるのは久方ぶりだった。そんなことをしなくともここしばらくはマッシュが傍にいて、二人で快楽を共有していたのだから。
 その愛され方に体が慣れ過ぎた。理由は何となく分かっている──刺激が足りない。
 エドガーは迷い、ベトついている右手を眺め、また少し迷って、ついに前だけを寛げていた下半身の衣類をそろそろと下ろし始めた。そして恐る恐る濡れた右手を腰より下、双丘の谷間に伸ばしていき、一番奥に中指を添えてみた。
 それから再び目を閉じて、マッシュの顔を思い浮かべる。自分に触れる時のあの情欲に燃える雄々しい眼差し。途端に触れている蕾がきゅっと切なげに口を窄め、エドガーは思い切って指を中へと潜らせた。
「……っ」
 自分で指を入れるのは初めてだった。普段マッシュのものを咥え込んでいる場所とは思えないほど、狭く感じる肉壁の中は想像以上に熱い。
 ここをいつもマッシュの指が丹念に解し、とろとろに崩されてからあの大きなものが入ってくる。体全てを貫かれたのではと錯覚するような強烈な刺激が恋しくて、エドガーは第二関節まで潜り込ませた中指に次いで人差し指も奥へ侵入させた。
「……あ……」
 くちくちと淫らな音が腰の下から聞こえてくる。内壁を擦ると背中がぴくぴくと揺れ、放置されて萎えかけていた分身にまた熱が集まり始めたのが感じられた。
 マッシュにされている時のように、入り口を拡げるように穴の中で円を描く。ぞわぞわと迫り上がってくるような心地よさにエドガーは思わず顎を上げ、白い首筋を剥き出しにして荒く息を吐いた。
 なんて事だろう、後ろを弄るのがこんなにも気持ちよくなっているだなんて。完全に作り変えられてしまった体をはしたないと思う度、裏腹に感度が増して嫌らしく腰を揺らしてしまう。
 脚に纏わりつく衣類が邪魔になって蹴り落とし、指を三本に増やして中を掻き回す。口の中でマッシュ、マッシュと小さく何度も名前を呼び、絶頂を求めてマッシュにされているようにより奥へと指を突き入れた。
「んっ……」
 奥、一番奥へ。
「……、う、んっ」
 もう少し奥。
「……、……?」
 もう、少し奥。
「……」
 エドガーの指が止まり、何度か真顔で瞬きをしてから、再チャレンジとばかりに中指に渾身の力を込めて再奥目指して挿し入れた。指が釣りそうなほどに伸ばしきった中指の、……もう少し先で今か今かと疼く場所。
「……、届かん……」
 呟くとぼっと顔が熱くなる。
 前も後ろもこれだけ弄って、肝心なポイントに届かない。あと少し長さが足りない……マッシュのものでなければ。
 エドガーは指を引き抜き、真っ赤な顔でがばっと体を起こすと、腹癒せに枕を壁に投げつけてシーツに突っ伏した。
 一国の王が下半身を丸出しにしてまで自分を慰めたというのに、一人で達することもできないだなんて──悔しくて恥ずかしくて情けなくて、エドガーは涙目でシーツを握り締めてばか、早く帰ってこいと愛しい弟の顔を思い浮かべるのだった。





 ***





 軽い足取りで廊下を小走りに渡り、いざ目的の部屋でドアをノックをしようと拳を作った瞬間、こちらにぶつからん勢いで開け放たれたドアにマッシュは驚いて後ろに飛び退いた。
 ドアを開けた部屋の主であるエドガーはそこにマッシュがいることを驚きもせず、当然といった表情でやや不機嫌そうに睨みつけてくる。
 マッシュは頭に「?」マークを飛ばしながら、それでも久しぶりに会えた兄の姿に頬を緩ませた。
「た、ただいま、兄貴。よく分かったな?」
「足音」
 声色が低い。感動の再会というより因縁の相手を見つけた時のようなエドガーの目にマッシュが不安を感じていると、戸口で突っ立っていることに焦れたらしいエドガーがマッシュの腕を掴んで強引に引っ張った。
「早く」
「え、ほ、報告?」
「そんなもの後でいい。人払いはしてるから、早く」
 人払い? 言われてみればこの部屋に来るまでの道のりはやけに人気が少なかった。
 エドガーはマッシュから腕を離さず、ぐいっと顔だけ近づけて怒ったように囁いた。
「……早く、黙って俺を抱け。お前がいなくて、気が狂いそうだった」
 とんでもない台詞を赤らんだ頬で吐き捨てるものだから、マッシュは言葉を失って目を泳がせる。
 引き摺られるままに部屋に引っ張り込まれてドアが閉まる寸前、思い出したようにマッシュは慌てて告げた。
「あ、兄貴」
「……なんだ」
「その、借りたリボン」
「ああ」
「洗っといたから」
「?」
 パタンと閉じたドアが再び開くまで、真上にあった太陽がすっかり西に沈んだ長い長い数時間。