虚と実




 山と積まれた書類のどれにも火急の案件などないではないかとコッソリ抜け出した執務室で、今頃大臣が怒りに赤くなっているだろう──容易くイメージできたその光景にほくそ笑み、多少の息抜きは必要だともっともらしい理由をつけて職務放棄を正当化したエドガーは、人目につきにくい中庭目指して意気揚々と足を弾ませていた。
 有事の際でもないのだから、少しくらいのんびりしたっていいだろう。部屋で凝り固まっていては頭の働きが鈍くなる。今日は天気も良いことだし、新鮮な空気を吸って散歩でもした方がその後の仕事が捗るはずだ。
 そんなことを考えつつやって来た中庭には先客がいた。人影に反応して思わず花壇に身を隠したエドガーがチラリと確認したところ、女官らしき女性三人が休憩でもしているのかわいわいと話に花を咲かせている。
 女官に見つかるくらいなら構わないだろうか? 麗しい女性たちの楽しげな会話に参加させてもらうのも悪くはないかと身を乗り出しかけた時、
「陛下はまだご結婚なさらないのかしらね」
 どうやら自分が渦中の人である会話の一端を拾い、動きを止めたエドガーは前傾姿勢を引っ込めた。
「早く何処かのご令嬢でもお選びになれば良いのに。でないといつまでも叶わぬ夢を見てしまうわ」
「高望みが過ぎるものねえ。でも誰にでもお優しいし、もしかしたら……って思ってしまうの、分かるわあ。もしかする訳がないんだから、ご結婚でもご婚約でも決まったお相手がいるって分かった方が諦めがつくわよね」
「陛下も誰彼構わずお声をかけられるのもう少しお控えになっても良いのに。もし私が婚約者の立場だったら気が気じゃないわ」
 これはあまり顔を出さない方が良さそうな現場かもしれない。エドガーは日頃淑やかに微笑んでいる女官たちが明け透けに話す内容に冷や汗をかき、そっとその場から離れようと足を上げかけた。
「でも同じ気さくさでもマッシュ様は少し違うわよね」
 長い髪を後ろから引っ張られたかのように、エドガーがぴくりと顎を上げる。聞き捨てならない名前が出て来たぞとその場に屈んで耳をそばだてると、女官たちは俄然盛り上がりを見せてきゃあきゃあとマッシュの話を広げ始めた。
「そうそう、マッシュ様も誰にでもお優しいけど、裏のない優しさって言うのかしら、嫌味がなくって素敵よねえ」
 それは自分の優しさには裏も嫌味も含まれているということだろうか──エドガーが花壇の陰でムッと目を据わらせているのも知らず、他の二人は呑気にうんうんと相槌を打つ。
「ねえ、やっぱり双子なだけあってエドガー様と並ぶとよく似てらして……実はお綺麗なお顔されてるわよね。お髭がまた男らしくて」
「あら、お顔が赤いわよ。ひょっとしてマッシュ様狙いなの?」
「そんな恐れ多い……! ……でも、マッシュ様ならエドガー様よりは望みがあるような気がしない……?」
 思わず咳払いをして割って入って行きたくなる衝動をぐっと堪え、エドガーは苦虫を噛み潰したような表情で膝を抱えて地面を睨んだ。
 ──ないない、望みなんてない。何しろ自分がいるのだから、と血の繋がった双子の弟であり愛する恋人であるマッシュの、彼女らの言うところの裏のない笑顔を思い起こしてエドガーは唇を尖らせる。
 そりゃあマッシュはいい男だ。飾り気がないし自分をよく見せようともしないので素朴さに隠れてはいるが、端正な顔立ちで文句のない男前なのだ。
 女性陣がときめくのは分かる。優しいのもその通り。だからと言って勝手に狙われては困る。
 失礼レディたち、あれは私のものなんだ。──そう口にしながらにこやかに姿を現したら女官たちはどんな反応をするだろうか。
「マッシュ様ならにこにこ笑って良いお返事くださるんじゃないかなって……」
「まー、自信があること」
「でもあの方、修行一途でいらっしゃるからお断りされるんじゃない?」
「そこはホラ、エドガー様の弟でいらっしゃるんだし、女の魅力に目覚めさせてさしあげるのよ」
 残念でしたー、あいつが興味あるのは俺だけでーす。いっそ両手を口に添えて大声で叫びたい気分になり、エドガーは靴の傍に生えている雑草をぶちぶちと抜いて気を紛らわせ始めた。
 マッシュに愛されている自覚くらいはある。この世で唯一信用できる無償の愛情だ。あのマッシュが自分以外に目を向ける日なんて来ようものなら、まともに立っていることもできなくなるだろう。
 恋人が褒められるのは悪い気分ではないが、横恋慕となると穏やかではいられないものだな、とエドガーは立ち去るタイミングを間違えたことを後悔した。
「もしも、もしもよ、マッシュ様が恋人だったら、どんな感じなのかしらね?」
「お優しい方でしょう、何しても怒らないんじゃないかしら……何でも笑って許してくれそうだわ」
 まさか、そんなはずあるか。──つい先週もちょっとした悪戯心でマッシュを揶揄い過ぎてすっかり怒らせたエドガーは、当時のマッシュの怒り心頭ぶりを頭に浮かべて肩を竦める。
 確かに優しさの海に揺蕩っているような存在ではあるが、マッシュだって怒る時は怒る。それも怒っているのが分かる時はすでに我慢の限界を越えているため、手遅れの状態であることがほとんどだ。
 普段怒らない人間が怒った時の怖さは尋常じゃない。そしてマッシュは声を荒げて怒るタイプではなく、言葉が極端に少なくなる。無に近い表情で口を噤まれた時のあの威圧感……思い出すだけで背筋が凍る。
 マッシュがそこまで怒るのは大体こちらに非がある時なので要は謝れば良いのだが、兄のちゃちなプライドが邪魔をして素直に頭を下げられず何度拗れさせたことか。結局は自分が折れるしかなくなって反省のち謝罪をすると、もう怒っていないよと優しく抱き締めてもらえるのは悪くはない、というか寧ろ好きなのだが。
 どれだけ怒っていてもこちらが謝ればすんなり許してくれる。マッシュの器の大きさは並みじゃない。いつまでも引きずってネチネチと嫌味を言う自分とは大違いだ──エドガーはすっかり周囲の雑草を抜き切ってしまって、手持ち無沙汰に爪で地面を掘り始めた。
「でもあの方奥手そうだから、いつまでも進展しないんじゃないかしら」
「手を握るだけで真っ赤になってそうね……」
 エドガーは立てた人差し指を軽く左右に振り、女官たちに聞こえない程度の大きさで舌をチチチと鳴らした。
 侮るなかれ、確かに奥手ではあるのだがマッシュだって歴とした男である。生真面目な性格ゆえこちらにその気がない時は無体なことはしてこないが、互いの空気が同じく色づいた時は思わず怯むほどの強い眼差しを向けてくる。
 その真っ直ぐな視線に射抜かれて何度身を震わせただろう。兄として優位に立とうとしているのに、気づけば翻弄されているのはいつも自分なのだ。鍛えられた太い腕に包まれてしまえば逃げることなど考えられず、身も心も委ねてしまいたくなる力強さに溺れてしまう。
 昔の何も知らなかった小さな弟ではない。マッシュは大人の男に成長した。
 普段決して兄である自分より前に出ないマッシュが、熱っぽい瞳で上から見下ろしてくる様に胸が震えて仕方がないのだ。もっと滅茶苦茶にしてほしい、そう心で願うと口に出さなくともその通りにしてくれる。その癖身体に触れる手は優し過ぎる程に優しい。
 そう、初めこそ不慣れな弟に手ほどきしてやろうと偉そうに構えていたのが、実際骨抜きにされたのは自分だった。身体の隅々まで愛される悦びを知ってしまった。守られて甘やかされて腕の中で眠る幸せを覚えてしまった。
「いろいろと教えてさしあげればいいんじゃない」
「見るからにウブそうだものね」
 クスクスと響いて来る笑い声に小さく鼻を鳴らし、エドガーはぼんやりした目で膝を抱えて吐息を漏らした。
 他の誰も知りはしない、今までもこの先も自分しか知ることのないマッシュの顔。その全てを手に入れられるのは自分だけ──二の腕に寄せた頬を仄かに赤らめたエドガーは、物欲しそうにもじもじと腰を揺らした。
 こんなにマッシュのことを考えていたら、逢いたくなってしまったではないか。気まずげに眉を垂らしたエドガーは、うろうろと忙しなく青い目を上向きに動かして、緩めた口元に土で爪が黒ずんだ指を添えてからそうっと移動を開始した。
 そうだ、逢いたいなら逢いに行けば良いのだ。真昼間だろうと執務中だろうと、平和な世の中に必要なものはやはり愛だ、と自分勝手に納得したエドガーは、きゃあきゃあと盛り上がる女官たちの賑やかな笑い声を背に中庭を後にした。


 立ち寄った訓練所に姿がないのなら部屋に戻っているのだろうと、ノックもそこそこに開いたマッシュの部屋のドアの向こう側、締まりなくニコニコと頬を緩ませていたエドガーはドアノブを握ったまま硬直した。
「いらっしゃいませ」
 ドアの前に仁王立ちしている大臣を認め、笑顔を凍りつかせたエドガーはそっとドアを閉めようとする。それより速くドアの隙間に靴を滑り込ませた大臣は、逃走癖のある国王の腕をがっしり掴んで鋭く睨みつけて来た。
「こちらだと思っておりましたよ。貴方の行動パターンは幼少時から存じ上げておりますからな」
「わ、私はだね大臣、弟に大事な用が……」
「書類を片付けた後にごゆっくりお訪ねください」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、マッシュ、いないのか、マッシュ!」
「マシアス様なら日没まで訓練にお出かけになりました。もう逃しはしませんぞ」
 中途半端に疼いた身体の熱が急速に冷えていく中、愛しい笑顔の面影を追って涙目になりつつ執務室に連行されるエドガーだった。