休息




 ぼんやり開いた瞼の向こう、見慣れない天井に一度は眉を顰めたが、だんだん覚醒してきた頭でここがいつもの城の寝室ではないことを思い出したエドガーは、乱れた前髪を掻き上げてベッドに寝そべったまま息をついた。
 申し訳程度に腹から下に毛布がかかっているものの、下着ひとつ身につけてない素肌が若干冷えている。ちらりと隣に不自然に空いた空間を横目で伺うと、昨夜、いやほぼ朝方ではあったが、眠りに落ちる瞬間は確かにいたはずの相手の代わりに自分の髪を結っていたリボンが解けて蹲っていた。
 また首だけ動かして窓を見ると、すっかり陽は昇っているものの落ちかけているところまでは行っていない。かろうじて昼前だろうか、眠る時間が相当に遅かったことを考慮しても久しぶりにたっぷり寝た。身体はやや怠さが残るが頭はスッキリしている。
 コーリンゲン近くのフィガロ王家の別邸に、二泊の休暇目的でマッシュと共に訪れたのが昨日の夕方。簡単な食事を済ませてシャワーを浴びてから夜の間中睦み合って、朝焼けを見る前には意識が途切れた。見れば身体は斑点だらけ、腰は重いし喉がカラカラに渇いている。ごろりと寝返りを打ち、隣の空間を無造作に撫でた。
 さすがタフな弟はきちんと朝に起床して、恐らくは日課のトレーニングもこなしたのだろう。とても見習えやしない──エドガーは小さく欠伸をしてシーツに顔を埋める。このままもう一眠りしようと思えばできそうだが、ふと耳を澄ますと部屋の外から音がする。……何か焼いている音。キッチンからだろう。
 食事を意識すると腹が鳴った。当然だ、夕べは一晩中運動していたようなものだから。観念したエドガーは上半身を気怠く起こし、落ちているリボンを手に取っていつもより少し高い位置で長い髪を結った。もうひとつのリボンは自分が下敷きにして眠っていた。リボンを二つ結び終えた時、寝室のドアが開く。
 顔を出したマッシュが起床済みのエドガーを見て微笑んだ。
「おはよう、兄貴」
 エドガーがおはようと返すより早く、ベッド傍に近寄ってきたマッシュが腰を屈めてエドガーの唇を盗んだ。至近距離で見つめ合い、ふふっと笑ってエドガーは改めておはようと囁く。
「よく眠ってたな」
「お陰様でぐっすりと。……お前、今朝も修行してたのか」
「まあ癖みたいなもんだからな」
「恐ろしい体力だ」
 エドガーの言葉にマッシュが吹き出した。
「朝食には遅すぎるけど、メシできたぜ。歩けるか?」
「もちろん」
 エドガーはひらりと下肢を覆っていた毛布を避け、一糸纏わぬ姿でベッドを降りる。その様子を目にしたマッシュはほんのり頬を赤らめ、気まずげにそっぽを向いた。
「……目の毒だから何か着てくれ」
 エドガーは肩を竦めて今更だと笑う。
「毒を喰らいたきゃ俺は構わんが?」
「出来立てのオムレツが冷めていいならそうするよ」
「おっとそいつは困る」
 そう答えたものの昨夜はシャワーを浴びてから一直線にベッドに来たため衣服の用意をしておらず、エドガーは仕方なく毛布を被って寝室を出た。
 着替えを済ませて席に着いたテーブルの上には、大柄の男が一人で用意した朝食にしては豪華な部類に入るメニューが並んでいた。サラダにスープ、オムレツにハムが添えられバゲットは二種類。品数だけでなく栄養のバランスや見た目の美しさも気遣いが見えて、感心を通り越してエドガーは呆れてしまう。
「お前、コックに転職する気か」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
 エドガーのカップに淹れ立てのコーヒーを注ぎながらマッシュは答え、さあ召し上がれとウェイターよろしくスマイルをくれる。苦笑したエドガーはフォークを手に取り、遅い朝食をゆっくりと堪能した。


 マッシュが朝食の後片付けをしている間にエドガーは持参した機械仕掛けの武器をテーブルに並べ、ひとつひとつ手に取って調整を始める。メンテナンスだけでなく改良ポイントを思いついたらメモを取り、時折何事かをぶつぶつ呟きながら黙々と工具を握り作業に没頭した。
 片付けを終えたマッシュが少し離れたところから兄の様子を伺っているのにも気づいていない風で、銀縁眼鏡のレンズの向こうに光る鋭い眼差しを見て微笑んだマッシュは、自身もトレーニングのために外に出て行った。
 昼を跨いでそれぞれ好きなように時間を使い、時計の針がもうすぐ午後の三時を示そうという頃、軽くシャワーで汗を流してからキッチンに戻って来たマッシュが茶菓子の準備を始める。ナッツとドライフルーツのパウンドケーキを切り分けて、愛飲している紅茶と共にトレイに乗せてエドガーの元へと運んだ。
 作業中のエドガーは多少の物音では動じない。集中し切っている時は声をかけても聞こえていないことが多いため、マッシュはトレイを置いてからエドガーの肩に軽く触れた。
 ハッと目線を上げたエドガーが振り向き、マッシュを見て納得したようだった。
「もうこんな時間か」
「ああ、お茶用意したよ」
 他愛のない会話を楽しみながらケーキと紅茶を口に運び、マッシュはケーキを、エドガーは紅茶をお代わりして、下げた皿や茶器を洗うのは後回しにのんびりと休息を楽しむことにした。
 ソファに腰掛け読みかけの本を開くエドガーの太腿に頭を乗せて寝っ転がり、下から本の隙間に覗く兄の瞬きの数を数えていたマッシュは、いつしかすやすやと寝息を立てていた。
 マッシュが目を覚ました頃には窓から射す光が仄かに赤味を帯びていて、日暮れが近いことを視覚で悟る。見上げればエドガーも閉じた本を傍らに置きソファに凭れて目を閉じており、二人揃って昼寝をしていたらしい。
 微かにオレンジ色に染まったエドガーの寝顔が綺麗で、いつもはまじまじと見つめていると自分の方が照れ臭くなって逸らしてしまう視線をじっと注いだ。
 緩く波打つ金色の前髪に、同じ色の長い睫毛。自分よりも白い肌に薄紅色の唇は僅かに開いている。無防備な寝顔をいつまでも眺めていたい気持ち半分、その瞼が開くのが待ち遠しい気持ちも半分。気づけば口元が緩んでいて、見つめているだけでは物足りない気持ちになっていた。
 手を伸ばして人差し指の先でふっくらしたエドガーの下唇に触れる。柔らかいが程よく弾力もある感触を楽しんでいると、エドガーの形の良い眉がぴくりと揺れた。震える睫毛が愛らしくて、唇から手を離し手のひらで頬を包む。
 その瞬間目を開いたエドガーが、少しの間寝惚けたようなとろんとした表情でマッシュを見下ろし、やがて頬に触れているマッシュの手の甲に自分の手を当てて微笑んだ。
「……寝てしまっていたか」
「うん、お互いね」
「お前が気持ち良さそうに寝息を立てるから、俺も釣られたんだ」
「寝心地が良かった」
 空いた手でエドガーの腰をひと撫ですると、ぴしゃりと叩かれた。思わず笑って身体を起こしたマッシュは、ちゅっと音を立ててエドガーに口付けしてソファから降りる。
「晩飯作るかあ」
 両腕を天井に突き出し身体を伸ばすマッシュの後ろから、優雅に座ったままのエドガーが軽い口調で言い放つ。
「夕食はリゾットがいいな。メインは肉で、前菜は二品あれば充分だ」
 マッシュは顔を顰めて振り返った。
「俺をコックにしたがってるの兄貴じゃねえか?」
「ふふ、ワインを開けるくらいは手伝うぞ」
 悪びれずに告げるエドガーに肩を竦め、苦いながらも笑ったマッシュはおーし、と気合を入れてキッチンに向かっていった。


 マッシュが腕によりをかけて用意した夕食は有り合わせの材料にしては豪勢なものになった。エドガーの指定通り野菜を使った前菜二品にスープ、兎肉、ミルクベースのリゾット。可愛らしいプリンもついている。
 明日にはここを離れるのだからと持参して来た食材から翌朝の分を除いてほとんどを整理し、ずらりと並んだテーブルの上の素朴ながらも華やかな料理にエドガーは何故か大笑いした。
「なんだよ」
 食卓につきながらムッとして顔を赤らめるマッシュを向かいに、エドガーは目尻を指先で拭きながら息も絶え絶えに答える。
「いや、お前は律儀だなあと」
「兄貴がリクエストした癖に」
「その大きな手でどうやってこんな繊細な料理を作ってるのか不思議でたまらん。城の厨房でも働けるな」
「もう、茶化すなら下げちまうぞ」
「悪かったよ、お前が弟で俺は何て幸せ者なんだ」
「ったく、調子いいんだから」
 当初の言葉通りワインのコルクは開けたものの、配膳から取り分けまで全てマッシュに任せきりだったエドガーは、綺麗に食事を平らげてご馳走様と恭しく頭を下げてから後片付けを買って出た。
 完全に任せるのが不安なのか、キッチンのシンクで隣に並んだマッシュが、エドガーが洗い終わった皿の濯ぎを担当する。過去の旅で培われた兄の手捌きを眺めながらマッシュが無意識に微笑んでいると、いつの間にかエドガーも横目でマッシュを見て口角を上げている。
「何」
 最後の皿を受け取ったマッシュが泡を濯ぎながら尋ねると、エドガーは手を洗いつつ短く笑った。
「先に見てたのはそっちだろう」
「いや、うまくなったなあって」
「城を出る前は考えもしなかったよ」
「お互いね」
 二人はふふっと顔を見合わせてまた笑う。エドガーは捲っていた袖を下ろして軽く持ち上げた肩をすとんと落とした。
「あの旅では身分など関係がなかったからな。産まれて初めて自分で洗濯した日を忘れることはないだろうよ」
「兄貴がシャツ干してるの新鮮だったなあ」
「なかなか料理を担当させてもらえなかったのが不満だったが」
「……料理は俺がやるからいいよ」
 不服そうに口を尖らせるエドガーを躱し、風呂の支度をしようと浴室に足を向ける。その背中に負ぶさるようにエドガーが伸し掛かかってきて、兄が少し酔っていることを察したマッシュはハイハイと宥めながら浴室までエドガーを引きずって歩いた。
 タオルの数だけ確認し、少し考えて昨夜同様着替えは不要と判断したマッシュは、楽しそうに背中に貼り付いているエドガーの腕を剥がして正面から抱き起こし、額と瞼に小さなキスを落としてから緩んだ唇に深く口付けて舌を潜り込ませた。
「んん……」
 エドガーも左手をマッシュの後頭部に絡ませてきて、右手で逞しい首筋に触れ衣服をもどかしげに引っ張る。口付けの合間に互いの服を脱がした後、浴室に転がり込んだ二人はしばしそこで愛を確かめ合った。
 やがてエドガーを抱き抱えて浴室を出たマッシュは、タオルで申し訳程度に濡れた身体を拭き取り、裸のまま寝室へと向かう。
 途中ふざけてキスを仕掛けてくるエドガーにマッシュは視界を塞がれながらも、辿り着いたベッドで再び身体を絡ませて、始まったばかりの夜を食い潰さんと熱を求め合った。


 翌朝、トレーニングを久々に休んで飽きることなくエドガーを抱き締めていたマッシュの髭の感触で起こされたエドガーは、甘えたように首に顔を擦り寄せてくる大きな身体を苦笑しながら抱き返し、朝が来たことに少しだけ残念そうな溜息をつく。
 残った食材で朝食を済ませてから帰る準備を始め、荷物を全てチョコボに積み終えて、後にする別邸を振り返ったエドガーは軽く目を細めて呟いた。
「……次はいつ来られるかな」
「また二、三ヶ月くらい後かな?」
「来月から視察ラッシュだからなあ、半年くらい無理かもな」
「そっか……じゃ、もっかい」
 エドガーの顎に手を添えて長めの口付けをしたマッシュが目を開くと、ゆっくりと瞼を持ち上げたエドガーが満足げに美しく微笑んでいた。
「さあ、帰るか」
「ああ」
 短くも充実した休息を終えた二人は帰路につく。