「マッシュに?」 それまで話半分に適当かつスマートな相槌を打っていたエドガーは、思いがけない名前を耳にして眉を寄せる。エドガーの乳母であるフランセスカは、落ち着いた雰囲気の中に何処か圧を感じる笑みを浮かべ、ええ、と返答した。 「良いお話だと思いますよ。とても賢そうなお嬢様で」 当然会話をスムーズに繋げるための次の一言を口にするつもりが、エドガーの唇は絶句の形で止まったまま不自然な無言を産んだ。 乳母はその反応が意外だったようで、彼女もまた僅かな驚きに一瞬沈黙を守り、それから仕切り直すように指を口元に添えて小さく咳払いをした。 「まずは会うだけでも。お食事などご一緒したらどうでしょう」 「いや、会う、って……、……マッシュが?」 「ええ」 「この……女性と?」 「そう言っているでしょう」 エドガーは目線を下ろし、手の中の肖像画をまじまじと見つめる。栗色の長い髪が美しく描かれた、涼やかな瞳の若い女性。 「私がお会いしたのは何年か前でしたが、肖像画よりお綺麗な方ですよ。お年は二十になったばかりで」 「十も離れてるじゃないか」 「それくらい珍しいものではないでしょう」 「いやでも、あいつはそういうのが不得手だし……」 「だからですよ」 言い終わる前に被さってきたフランセスカの語調がやや強い。思わず気圧されたエドガーが押し黙ると、フランセスカはそれまで憚っていたと思われる言葉を遠慮なしにぶつけてきた。 「もう三十ですよ、三十。今まで浮いた話のひとつもない子が、この先自分でどうにかお相手を見つけて来られるとは思えません。誰彼構わず声をかける貴方も心配ではありますが! 三十になるまで全くそういうことに興味を持たないあの子をどうにかしてやるのも兄の務めでしょう!」 予想外のフランセスカの剣幕に硬直したエドガーは、驚きで反論のきっかけを失う。 唖然と乳母を見るエドガーの前で、彼女はこの機会がマッシュにとってどれだけ重要かを懇々と説き続けた。 ──貴方も弟の将来を少しは案じておやりなさい── (弟の将来、ね……) 嵐のように部屋を後にした乳母の言葉を反芻しながら、すっかり冷めた紅茶の残りで渇いた口内を潤す。そうして大きな溜息をついたエドガーは、虚ろな目で宙を眺めた。 フランセスカに所縁ある人の娘で身元は確かだと太鼓判を押された。肖像画では本人の印象など伝わらないからまずは一度逢わせてみろと。 どうせマッシュに決まった相手などいないのだろうと詰め寄られて言葉を濁したが、あの時にマッシュの相手はこの自分だと白状したら彼女はどう反応しただろうか──想像するのも恐ろしい状況が頭を過ってエドガーは身を震わせる。 母親に等しい存在であるフランセスカに迂闊なことは言えない。言うとしても今ではない、とエドガーは額に落ちてきた前髪を指で弾くように避けた。 マッシュだって恋愛に興味がない訳ではない。興味の対象が周囲が思うものと違っていただけで、エドガーはマッシュがいかに情熱的で力強い愛情表現をするかをよく知っている。 真昼の執務中には相応しくないあれこれを思い出して一人頬を染め、その熱を封じ込めるように頬杖をついて顔を潰したエドガーは、伏せ目がちに何処をともなく睨みながらもう一度溜息を零した。 フランセスカの勧めをはっきり断ることが出来なかったのは、エドガー自身に引け目があるからだと自覚していた。血の繋がった兄と弟。将来を案じてやれと言われて思うところが無かった訳ではない。悶々と絡まった思考を解いて乳母に説明するのは難しく、その勇気は今のエドガーにはまだ無かった。 目線を移し、押し付けられた肖像画を視界の端に捉える。絵だけ見れば充分な美人だった。本物はもっと綺麗だとフランセスカが自信満々に推していたが、マッシュに女性の好みがあるのかどうかは正直エドガーにも分からない。 (まあ、あいつが嫌だと言うなら仕方がないだろう) どうせマッシュは首を縦に振るまい──エドガーは何度か小さく頷き、一時間後のティータイムにやってくるだろうマッシュに気の重い提案をしなければならないことを憂いて、また長く深い溜息をついた。 ところが。 「いいよ、別に」 予め用意していた「分かった」という返事をすんなり続けてしまいそうになるほど、あっけらかんとマッシュは答えた。 驚きのあまり湯気が立ち上るカップを手にしたままぽかんと口を開けて固まったエドガーを前に、マッシュはほんの少しバツが悪そうな顔をして頭を掻いた。 「会うだけだろ?」 「あ、ああ、……まあ、そうだが……」 「じゃあ、いいよ。会うだけなら」 その時、きっと自身では思いもしないほど焦りが表情に出ていたのだろう──エドガーがこの場に相応しい返答を探している間に、マッシュは持っていたカップを下ろしてその手を向かいに座るエドガーの元へ伸ばして来た。 小さなテーブルの上を長い腕が横切る。頬に優しく触れた指の背にピクッと肩を揺らしたエドガーは、申し訳なさを滲ませたマッシュの目を見て自分が今どんな顔をしているのか察した。 「ばあやの、知り合いの娘さんなんだろ? 会う前に断ったら、ばあやに頭下げさせることになるだろうからさ……」 エドガーは瞬きした。──マッシュがフランセスカの顔を立てる気遣いを見せるとは。 「それなら、俺が直接断るよ」 「……マッシュ」 「それに」 マッシュは手を下ろし、口元に拳を添えて小さく咳払いをする。 「あんまり突っぱねてると、何か理由があんのかって詮索されるかもしれないだろ」 ハッと目を見開いたエドガーをチラリと見たマッシュは、拳で口を隠したまま薄っすら頬を染めて、ボソリと呟いた。 「……俺が好きなのは兄貴だけだから。だから、心配しなくていいよ」 思いがけない言葉を受け、エドガーもまた赤面する。慌ててカップに口をつけたせいで、もごもごと何を言っているのか分からない声で間を誤魔化すことになってしまった。 心配。──そう、心配なのだ、これは。 マッシュと今の関係を育み始めてまだほんの数年。幼い頃からずっとエドガーを想っていたというマッシュの愛情表現はそれはそれは献身的なものだったが、今までエドガーの存在しか知らなかった男がふと他の人に目を向けたら新しい世界に気づく、なんて可能性がゼロだと言い切れるだろうか。 何人かの経験を経て選んだ最後の一人ではない。物心ついた時から修行ばかりで色恋に触れずに来たマッシュが、生涯エドガーだけを愛する自信はあっても保証などないのだ。 とは言え、マッシュは「会う」だけでなく「断る」と言った。生真面目で誠実なマッシュだ、相手にも礼を尽くして場を凌ぐつもりだろう。 マッシュが心配するなと言うのなら、それを信じなくてはならない──エドガーはそれから深くは話を掘り下げず、黙って大きく頷くに留めた。 心配することはない。ただ会うだけ。口の中で繰り返し、なんらやましさのない真っ直ぐなマッシュの目に見惚れたエドガーは、これ以上余計なことを考えないよう小さく首を振った。 ──が。 (……気になる) フランセスカにマッシュの了承を伝えると、機を逃さないとばかりに食事会の日時が整えられた。 お抱えシェフにこの日のための特別メニューを依頼し、マッシュに服を新調させて会話の予行練習までさせる乳母の気合の入りように流石のエドガーも焦りを感じた。 『なら、私が同席しても良いんじゃないか』 相手の女性は親を伴って来ると聞き、それならばと唯一の肉親であるエドガーも同席を提案したのだが、異を唱えたのはその場に居合わせた大臣だった。 『そのお時間は会議の予定になっております』 無情な言葉にエドガーは分かりやすく不服の表情を浮かべたが、意に介さない二人にさらりと流されてしまった。 そんなやり取りを経てまもなく顔合わせが始まる昼下がり、仕事どころではないエドガーは大臣が会議の呼び出しに来るまでの時間をただ悶々とすることに費やしていた。机に積まれた書類に手をつける気になれず、何度も時計を睨んで苛々と踵を鳴らす。 そろそろ向かい合って席に着いた頃だろうか。マッシュはどんな顔をして最初の挨拶をしたのだろう。思いがけず話が弾んで、断れない雰囲気に流されたりしていないだろうか。 人の心に絶対は無い。まさかともしもは紙一重だ。エドガーの知らないところでマッシュが誰かに気持ちを動かす、そんな事態が今まさに起こっているのだとしたら。 「……」 思わず羽ペンの羽を握り潰した時、ドアがノックされた。現れた大臣がお決まりの言葉を口にする前に、大仰に立ち上がったエドガーは机上で目一杯開いた指に体重をかけ、圧のこもった声を搾り出す。 「大臣……、頼む……」 ──私に一時間だけ時間をくれ── らしくなく髪を乱して辿り着いたエドガーを見て、戸口で見張りをしていた兵士が驚いた顔をした。手のひらを上げて彼に静かにするよう指示し、エドガーは一度小さく咳払いをしてから緩く握った拳を構える。 一瞬躊躇って、それでも二度ノックをした。中からの返事を待たずにドアを開くと、椅子に座っていたマッシュが顔を向けて目を丸くする。 「兄貴」 「ああすまない、時間が出来たものでな、折角だから私も同席させてもらおうかと──」 追及を恐れて早口でまくし立てながら見渡した室内にはマッシュと食事を運んでいるらしい給仕、その他には誰もいなかった。 長いテーブルの対面にいるはずの女性もその家族も見えないことにエドガーが驚いていると、マッシュが察したのか軽く笑いながら立ち上がった。 「帰ったよ、さっき」 「帰っ……? 馬鹿な、まだ三十分も経ってないだろう」 「それがさあ」 マッシュがあっけらかんと話した内容にエドガーは唖然とする。 女性は母親を伴ってやって来たが、最初に挨拶を交わすなり「今回のお話、お断りさせてください」と言い放ったというのだ。 「ど……、どういうことだ、お前が何か粗相をした訳でもないんだろう?」 「実は彼女、好きな相手がいるらしくてさ。その人以外と結婚は考えられないって」 「失礼じゃないか、そんなの予め断るならまだしも、わざわざお前が時間を作って会う段取りをつけたというのに……!」 激しい剣幕でまくし立てるエドガーとは裏腹に、マッシュは優しい眼差しで兄を見る。そしてにっこり笑い、なんて事ないとでも言うように首を横に振ってみせた。 「国王の弟が相手だからって、周りに無理矢理連れて来られたみたいだよ。俺だってばあやからの話じゃなかったら会う前に断っただろうし。真面目な人だったよ、誠心誠意謝ってくれて逆に申し訳なかった」 「しかし……」 「俺だって断るつもりで会ったからおあいこだよ。面倒な会話もしなくて済んだし、良かっただろ」 「……お前が、そう言うなら……」 朗らかな笑顔のマッシュに対してエドガーは不満そうに唇を噛む。言葉通りに納得していない兄が心配なのか、少し困った笑顔になったマッシュに気づいて、エドガーは言いにくそうに呟いた。 「……会うなり断るなんて、見る目のない女性だと思っただけだ」 マッシュが目を細めて嬉しそうに口元を緩めた。そして乱れてぴょこんと立ち上がったエドガーの前髪を摘んで整え、改めてにっこりと笑う。 「彼女のお袋さんが真っ青になってて可哀想だったな。ばあやもヘソ曲げちゃって、二人がいなくなったらサッサと部屋に戻っちまったんだ」 「そうか、それでお前しかいないのか」 「今日のために料理長がメニュー考えてくれただろ。勿体ないから俺だけでも食べさせてもらおうって思ってさ。兄貴、時間あるなら一緒に食べないか?」 「えっ……」 「折角来てくれたんだし」 エドガーはほんの少し戸惑い、時計をチラリと見て、頭の中を書類の山と仏頂面の大臣が過ったが──それでも肩を竦めて苦笑を見せた。 「……では、ご相伴にあずかるか」 マッシュは顔を輝かせ、二人のやり取りをオロオロと見守っていた給仕にエドガーの分も運ぶよう頼む。 マッシュとテーブルに向かい合ったエドガーの目の前に、オードブルやスープ、ポワソンが並び出した。次々と出てくる色とりどりの美しい料理を見て、確かにお蔵入りさせるのは気の毒かとエドガーも一口運び、満足げに微笑む。 そしてさり気なく前方を見て、ナイフとフォークを繊細に扱うマッシュの様子をこっそりと伺う。──この日のために新調させられた衣装は深いグリーンで、日頃寛げている首元にあしらわれているジャボがマッシュに落ち着いた大人の印象を与えていた。 こんなにいい男に会ったって言うのに、即断るなんてどうかしている──マッシュにチラチラと目線をやるエドガーが料理の味に気が回らなくなっている時、おもむろにマッシュが口を開いた。 「……ご趣味は」 不意の言葉にエドガーがびくりと身体を揺らす。何を言われたのか分からずぽかんとしていると、マッシュが苦笑しながら解説してくれた。 「ばあやにあれこれ叩き込まれたんだよ。会話の練習」 「あ、ああ、そういえばそんなことしてたな」 「ご趣味は、何かありますか?」 マッシュが再び先の言葉を繰り返したことで、エドガーはようやく自分に対しての質問であると気づく。狼狽えながらも、マッシュの意図を理解し始めて微かに笑った。 「機械いじり、かな」 「へえ、良い趣味だ」 スープを飲もうとしていた手を止めて、エドガーが思わず吹き出す。マッシュも笑ってポワゾンを切り分けながら続けた。 「ご出身はフィガロですか?」 「ええ、生まれも育ちも」 「俺もです。気が合いそうだ」 エドガーが堪らず笑い声を上げた。 「普段は何をされていますか」 「この国を治める仕事を少々」 「それは凄い。休日はありますか? 何をしてお過ごしですか」 「あまり自由には休めませんが、時間が出来たら新しい機械の図面を引いたり試作品を作ったりしています」 顔を見合わせ、二人は笑う。 マッシュの眼差しが優しくエドガーを見つめている。直接断ると言ってくれた時と同じ、エドガーの好きな真っ直ぐな目だった。 まるでエドガーがマッシュに顔合わせの相手として選ばれたような気分になって、この後懇々と説かれるだろう大臣のお説教も苦ではない、かもしれない。 二人の顔合わせの時間は和やかに穏やかに過ぎて行った。 |