未来




 黙って俺について来てくれないか。

 一緒に来て欲しいところがある、と、いつになく真剣な表情で真っ直ぐこちらに視線を向け、それでいて何処となく不安を覗かせる眼差しでそう求めてきたマッシュに対し、面食らった顔を返しつつも確かに頷いてみせた。
 何処へ行く気かと問えば、サウスフィガロだと言う。それ以上を語るつもりがないらしいマッシュに、何をしに、と尋ねることは出来なかった。
 まあ、マッシュが自分に頼みだなんて珍しいことではあるし、城下町に出向く程度なら今の穏やかな情勢下では政務に支障も出ないだろうと、深くは聞かずに了承をした。マッシュならばふざけた理由で自分を誘ったりはしないはずだ。
 大臣に時間の調整を依頼して、二人並んでチョコボに跨り城を出たのは本日の朝。
 日盛りの頃にはサウスフィガロに辿り着けるだろう──予想通り空に茜が差す前に到着した街にて、素性がバレないようフードを被ったまま、迷いなく先を進むマッシュの後ろを黙ってついて行く。
 特に人目につかない裏路地に向かうということもなく、マッシュが立ったのは街の南東にある民家のドアの前。
 ここが誰の家かを思い出すのと、マッシュがドアを明瞭に叩くのとはほとんど同時だった。
 ゆっくり開いた扉の向こうから、予想した通りの顔が現れる。マッシュの格闘の師ダンカンが、尋ねて来たマッシュとその後ろにいる自分を見て恐らくは驚きで目を丸くした。更に彼の後ろで奥方も同じ表情で迎えてくれた。
 予定外の来訪だったからだろうかと見当をつけたが、その次の会話でそうではないことが分かった。
「ご無沙汰してます、おっしょうさま」
「ああ、待っておったぞ。これは陛下……、お久しゅうございます。狭い家ですがどうぞ中へ」
 涼やかに会釈をして招かれるまま中に入るが、頭の中は疑問符でいっぱいだった。
 待っていたとダンカンは口にした。予めマッシュと約束をしていたことになる。
 師匠の元に自分を連れて来て何をする気なのか、初めに来て欲しいと頼んできた時のマッシュの真剣な目を思い出して心の中で首を傾げる。
 素朴なダイニングテーブルを囲み、マッシュと並んで腰掛けて、対面にはそれぞれダンカンと奥方が座った。
 にこやかに営業スマイルを浮かべつつも隣のマッシュを横目で伺うと、緊張に強張った真顔でダンカンを見ている。ピリピリと張り詰めた空気が痛い。
 一体何が始まるのかと、お愛想の笑みも若干強張りかかってきた時、マッシュが深く胸を膨らませるほどに息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……おっしょうさま」
 低く、厳かな呼びかけだった。思わずこちらまで息を飲んでしまいそうになる、そんなことを考えていると、ふいにマッシュの手が肩に触れた。
 振り返る前に、マッシュが言葉を続けていた。
「──この人が、俺が将来を誓った人です」
 うっかり椅子ごとひっくり返りそうになった。
 マッシュを除く、ダンカンも、奥方も、そしてこの自分も、全く同じ表情になっていたに違いない。
 三者それぞれ目を見開き、空気と同じく凍りついた身体はすぐには動くことができなかった。
 無言の時は実に長く続いた。マッシュが何を言ったのか、噛み砕くのに時間が必要だった。理解したところで、はいそうですか、と納得できる内容ではない。
 何てことを言い出したのかと背中を冷や汗で濡らし、ようやくマッシュに顔を向けた瞬間、
「……そうか」
 重々しいダンカンの声が止まった時間を動かした。
 ダンカンは眉間に皺を寄せた厳しい表情で、睨むようにマッシュを見据える。しかしその窪んだ瞳の奥には、えもいわれぬ優しい光が宿っているのを確かに感じた。
 情が溢れる瞳でマッシュを見つめたダンカンは、肩の力を抜くように大きく溜息をついた。
「お前は、生涯かけて陛下に……王家にお仕えする覚悟を決めたという訳か。王族の一員として」
 自身を納得させるかのようにそう結論づけたダンカンの言葉に、マッシュの言わんとしたことはそうではないと分かっていつつもホッとしてしまう。
 無理もない、言葉通りに受け取ることが難しかったと言うより想像ができなかったのだろう。突然のマッシュの告白を良い方向に軌道修正してくれたことに心の中で感謝をしていると、困惑した表情のマッシュがテーブルに手を置き身を乗り出し始めた。
「いえ、おっしょうさま、そういう意味ではなくて」
 わざわざ訂正しようとするマッシュの膝に手を乗せたのは無意識だった。しかしその手の感触で驚いたようにこちらを見たマッシュへ、目でその先の言葉を制したのは意図的だった。
 ごく小さく首を左右に振り、無言で伝えた戒めに対して、マッシュは哀しそうに眉を下げた。その薄っすら潤んだ瞳に胸が軋む音を立てたが、怯む様子を見せてはならないと表情を変えなかった。
 遂にマッシュは開いていた唇を閉ざし、決まり悪そうに目線を下げた。黙ってしまったマッシュに代わり、何とかこの場を取繕わねばとにこやかに微笑みながらも必死で話を逸らし始めた。
 苦労の末に歓談から談笑へと移行することに成功して、出された茶の味をようやく感じられるようになった頃、マッシュもちらほらと笑顔を見せるようになっていた。

 お口に合うかどうかと奥方が恐縮しつつ用意してくれた夕食は、素朴な見た目ながらも予め特別な材料を準備していただろう豪勢なものだった。
 今日のこの会合が何であったのか、流石に薄々勘付いてはいたものの、決してそのことには触れないよう他愛のない会話で食事を進めた。
 極力色恋沙汰に関わる話題は避けて、時にジョークを交えつつ、楽しく、温かく、酷く疲れる時間を過ごした。料理は手の込んだ、愛情のこもった優しい味がした。
 泊まって行けばと何度も勧められるのをやんわり断り、今日中に城に戻らなければならないともっともらしい嘘をついて、夜道を心配する老夫婦を安心させるべく「世界一のボディガードがついています」とマッシュの背を叩いた。
 実際マッシュも自分も旅慣れている。二人に見送られ、足早に街を出て冷えた風の中チョコボに跨った。
 道中の空気は重苦しかった。何しろ先を行くマッシュが一言も喋らない。
 チョコボに揺られる無言の広い背中を見つめながら、乾いた空気に吐いた呼気が白い靄となって闇に溶けて行くのをただ眺めていた。
 マッシュが口を開いたのは砂漠に差し掛かってからだった。いい加減このどんよりした空気に我慢ならなくなって、チョコボを急かして隣に並んで走ってやったら観念したようだ。
 曰く、赴いたきっかけは少し前に師に言われたことだったと。
 三十路を目前にいつまでも独り身ではと、弟子思いの師がマッシュに知人の娘を紹介しようとしたらしい。当然断ったが、思った以上に強く勧めてくる師に対し、心に決めた人がいると伝えたのだとマッシュは話した。
 そんな相手がいるなら是非一度連れて来なさい、そう言われて今日の事態となった──おおむね予想通りではあったが、そこで馬鹿正直に自分を連れて行ったのはまずいだろう。
 そんなことをせずともいくらでもごまかせたんじゃないのか、そうぼやくとマッシュはちらりと寂しげな横目でこちらを見た。
「……おっしょうさまは、十七の時に転がり込んでから、ずっとバルガスと差をつけることなく俺を育ててくれた。褒める時も、叱る時も、俺の身分は関係なく親として接してくれてたんだ。俺も、おっしょうさまとおかみさんは家族だと思ってる。だから」
 息継ぎをするためにマッシュが声を途切れさせた時間は、後から思えばほんの数秒だったのだろう。
 しかしその時は、淡々としていながら低く熱のこもったマッシュの声に何故だか胸を揺さぶられて、次の言葉を待つ時間が永劫ほどにも長く感じられた。
「俺が生涯かけて愛する人を、きちんと紹介したかったんだ……。堂々と、この人を愛してますって、伝えたかったんだよ」
 チョコボの手綱を操る手から思わず力が抜けそうになり、慌てて拳を握り込む。
 一度言葉を紡ぎかけた唇を閉じ、自分の中で感情をうまく呑み込めるよう何度か小さく喉を鳴らす。
 それから顔を上げ、努めて明るい声を出した。
「しかしお前、いくら信頼するダンカン氏とはいえ、これが表沙汰になったらえらいことだぞ。これからますます周りがうるさくなってくるだろうし、俺に相談もなくこんなことをされたら肝が冷える」
「兄貴に言ったら絶対反対されると思ったから」
「当然だ。ダンカン氏に、可愛い愛弟子をこんないけ好かない男にやる訳にはいかん、なんて言われたら参るからなあ」
「おっしょうさまはそんなこと言わないよ」
「……、まあ、あの解釈でも間違ってはいないだろう。ダンカン氏の言う通り、お前が生涯かけて守ってくれるんだから」
「……俺が生涯かけるのは王族としてじゃなく、王家にでもなくて、一人の男として、一個人としての兄貴にだからな」
 ボソリと呟くように零された言葉は、風が攫う前に辛うじて耳が拾ってくれた。
 返す言葉を探しているうちに息が詰まり始め、顎を伸ばして天を向く。風に煽られたフードが外れて砂煙が頬を鬱陶しく撫でて行ったが、視界の全てを占める漆黒の空の中、無数に散らばる星の瞬きはそれを忘れさせるくらいに美しかった。
「──見ろ、マッシュ。星が見事だ」
「ん? ああ……本当だな」
 このまま真っ直ぐ、北へ。多少前を向かなくとも、きつく手綱を握り締めていれば大事なく城を目指すことはできる。
 生涯かけて、とマッシュは言ったが、この先何かのきっかけでマッシュに他の想い人が出来るような事態もなくはないだろう。女性相手にまともな恋愛経験のない弟だ、転がり落ちる可能性が無いとは言えない。
 その時は笑顔で祝福すると決めている。淋しさは否めなくとも、マッシュの幸せを願う気持ちに偽りはない。ダンカン氏に娘同然に可愛がられ、奥方が本当に手料理を振舞うべき相手を家族の一員として迎えたいと心から思う。
 だけど、もしも。
 もしも先のマッシュの言葉通り、生涯をこの身に捧げてくれる未来があるのだとしたら。
 家族同然に慕う親代わりの二人へ、何の後ろめたさもなく心に決めた人だと紹介してくれたことが、涙が出るほど嬉しかったのだと。
 二十年、三十年先の隣のこの場所に、マッシュがもしもいてくれるのなら、その時に話して聞かせよう。

 ぼやける視界の先では星の煌びやかな輝きがはっきりと映らない。
 少しばかり速度を上げて、風に邪魔な雫を吹き飛ばしてもらおうか。