霧中




 日付がそろそろ変わろうという時刻だった。
 来るか来ないかの可能性を半々と見ていたが、来ないに傾いて寝衣を身につけてから間もない頃、夜の静けさを気遣うように控えめなノックの音が聴こえてきて、エドガーは一瞬返事に詰まった。ソファの背凭れに無造作にかけていたナイトガウンを羽織り、音を抑えながら扉を開く。
 少し疲れた表情のマッシュがささやかな笑顔を浮かべて立っていた。エドガーは身体をずらしてマッシュが通る空間を作り、マッシュもまた自然とその道に足を踏み出して、エドガーはそっとドアを閉めた。
「まだ起きていたのか。久しぶりの寝室は落ち着かんか」
 エドガーはソファに浅く腰掛け、仰け反るように背を凭れさせた。ゆっくり脚を組んで室内履きを振り落としながら傍らに立つマッシュを見上げると、弟は軽く肩を竦めて小さく微笑みながら首を横に振る。
「使いやすく整えてもらったよ。何も不足はない」
「とはいえ今日は疲れただろう。十年ぶりの我が家は大分様変わりしただろうからな」
 マッシュは微笑んだまま軽く目を細めることでエドガーに応えた。
 長い旅が終わりを迎え、ファルコン号から一人、また一人と所縁の土地に降り立っていき、エドガーとマッシュも例に漏れずフィガロ城に続く砂漠へと戻ってきた今日。城に着いて十年ぶりに生活を始めるマッシュのために、時が止まっていた彼の部屋に新たな調度品や衣類や寝具を用意させ、またその間に十年間で変容した城内の説明や臣下たちへの顔見せなど忙しく動き、さすがのマッシュも気疲れしただろうと夜の来訪はないものとエドガーは考えていた。
 現れたマッシュは下着同然の簡素なシャツを着て、寝支度も終えているのだろう。ドアを開いた時に漂った清潔な石鹸の香りを嗅ぎ取っていたエドガーは、勧めても向かいのソファに座らないマッシュの意図を予想してはいたが、どう声をかけるのが正解なのか測りかねてもいた。
「……新しい訓練場はどうだ? お前の修行にも使えそうか?」
「うん、問題ないよ。兵たちの訓練時間も聞いたから被らないように使わせてもらう」
「手狭なら別に作らせても構わんぞ。後はそうだな、お前さえ良ければ時々兵たちの指南役を請け負ってもらえると有難い。お前の技に興味持つ者が少なくないようだ」
「あそこで充分だ。やろうと思えばどこだって修行できるしな。俺が役に立てることがあるなら、何でも手伝うよ」
 マッシュがそこまで答えて会話が途切れる。エドガーは小さく息を吐き、口にするか迷っていた言葉を告げることにした。
「……後は、お前の肩書きだが」
 マッシュの眉が微かに揺れる。
「お前が望む地位はあるか? 確約はできんが、善処はする」
 予め用意はしていたが切り出すタイミングを伺っていた発言に、マッシュは何かを決意したかのように目を伏せてエドガーのすぐ傍まで近づき、片膝を床についた。
「何だっていい……一番近くで兄貴に仕えられる権利をもらえるのなら」
 エドガーが軽く眉を顰める。若年ながら十年もの間王として座して来たエドガーの目を正面から見据えることができる者はそうはいない。真っ直ぐに視線を合わせてくるマッシュは、昨日までの旅をしていた仲間としての立場ではなくなったことをはっきりと示していた。
 再会してすぐは、離れていた間の距離を掴むための時間が必要だった。しかしそれは予想していたよりも遥かに早く縮まり、魂が引き合うようにごく自然と身体を合わせて互いの存在が必要不可欠になった。そして気心の知れた仲間と共に旅を続けている間は、余計なしがらみを考えることなく素のままの二人でいられたのだ。
 しかし城に戻れば環境は一変する。エドガーは民の生活を預かる王であり、マッシュは十年前に城を出た王の弟である。二人に流れる血と身分が自由を蝕むことは重々承知で、マッシュは城に戻る道を選択した。エドガーは弟が引き続き自由を求めるのなら咎めるまいと決めていたが、マッシュは自ら兄の下に添うことを選んだ。
 マッシュにとっての一番は兄に他ならない。しかし王であるエドガーが同じ熱量を弟に返すことはできない。全てを理解した上でのマッシュの決意にエドガーは黙って目を細める。無償の愛とは時に残酷なほどそれぞれの胸を刺す──エドガーは長い沈黙の後にようやく唇をそっと開いた。
「……こんな夜更けに王の寝所を訪ねても許されるのはお前だけだ」
 マッシュが数度瞬きをする。瞼に揃った睫毛が上下するごとに現れる青い瞳が炎を抱く。その火は徐々に大きくなっていく。
 マッシュは目を逸らさずに、悠然と座るエドガーを下から仰いでぽつりと吐息混じりの声を零した。
「……俺が望むのは……、今この時間、俺だけの存在でいて欲しい……夜が明けるまでは」
 それは始まりの合図なのだとエドガーもマッシュも分かっていたが、すでに相手の温もりを知ってしまっている今、離れることも敵わない。
 お前が望むならいつでも、と喉まで出かかった言葉を噛み砕き、エドガーはマッシュを見下ろして唇を開いた。
「……許可しよう」
 その呟きを聞き届け、マッシュはそっと組まれたエドガーの右足に触れる。ガウンの隙間から覗くしなやかな素足を恭しく掬い、その脛に唇を当てた。エドガーがぴくりと眉を揺らす。
 それから軽く持ち上げた足の甲にもキスを落とし、最後に愛おしそうに爪先に口付けたマッシュは、酔ったような上目遣いでエドガーを見つめる。
 エドガーは黙ったまま手を差し出した。その手を取ったマッシュがエドガーの身体を引き寄せ、二人は目を開いたまま一度小さく唇を合わせる。そして瞼を下ろして深く重ねた口付けの熱に誘われるがまま舌を絡め、伸ばした腕で互いの背中を弄った。
 これから何度、人目を忍んで罪に溺れる夜を迎えるのだろう。
 全てを捧げてエドガーを選んだマッシュと、マッシュに全てを捧げることができないエドガーは、切り取られた時間の中で心を飛ばして夢を見る。