目が覚めた瞬間、やってしまったと血の気が引く。いつもの薄暗い部屋の景色ではない。窓から差し込む光の明るさは、普段早朝訓練で起きている時刻より相当に時間が過ぎていることを示していた。
 頭に浮かんだのは師匠にどやされる、だった。しかし呆然と瞬きを繰り返すうちに、今自分は師の元では暮らしていないこと、生まれ育った城に戻って来ていることを思い出し始めて──マッシュは恐る恐る首を横に向けた。ゆっくりと、音を立てないように。
 マッシュの隣で枕から半分以上頭を落とし、左頬をシーツに埋めてうつ伏せ気味に横たわるその人は、紛れもなく兄のエドガーだった。
 長く艶やかな金髪は乱れ、毛布からはみ出た彼の背中に波を描いてシーツに落ちて、申し訳程度に解けかかった二つのリボンが絡まっている。金の毛束の隙間から覗く白い肌の色に目がチカチカと眩み、マッシュは慌てて視線を天井に戻した。
 ──そうだ、昨夜。夜更けに兄の部屋を訪れたその先を思い起こしてマッシュは一人赤面する。
 軽く寝酒でもと小さめのグラスでほんの一、二杯だった。あれだけで酔ったとは思えない。酔ったと言うなら、二人だけでふと見つめ合ったあの空気にだ。
 互いの反応を探るように顔を近づけて、戯れではないキスをしたのは初めてだった。力の抜けた唇があんなに柔らかいものだとは知らなかった。何度も何度も口づけたせいで、兄が苦しそうに一度下を向いて息継ぎをしたのを覚えている。
 それから今度は兄の方から唇を合わせて来て、すっかり頭に血が上って、無駄な肉のない背中を弄るように手を伸ばして……ああ、とうとう。何が禁欲だ。これっぽっちも抑えられなかったではないか──隣のエドガーを起こさないように、身動ぎせずに器用に悶えたマッシュは再びそろりと首を右に向ける。
 薄っすら開いた唇から規則的な寝息が聞こえてくる。閉じられた瞼に揃う睫毛はこんなに長かっただろうかと、これほどの近さでまじまじと兄を見つめる機会があまりなく、あどけない寝顔を新鮮に感じながらぼんやりと見惚れた。
 今は緩やかなカーブを描く整った眉が、夕べは苦痛に歪んでいた。痛みか苦しみかその両方か、欲望に猛った自分のものを兄の中に押し込む度に、唇を噛み顎を仰け反らせて耐えていた兄の目尻から雫が零れ落ちた。父親の葬式でも見ることがなかった兄の涙に動揺したが、やめるなと言われて気持ちの昂りのままに腰を動かした──あれは都合の良い耳が拾った幻聴だっただろうか? いや、確かに兄はそう言ったはずだ。
 汗だくで崩れ落ちた時、濡れた背中にも躊躇わず腕を回して抱き締めてくれたのは夢ではない。眠るまでしつこいくらいキスをした。頭を触られるのが気持ち良かった。思ったよりも兄の身体は熱かった。
 少しずつ記憶が鮮明に蘇る。艶めいた声を耳が呼び起こす。僅かな灯りの下でも目を奪われた肢体が、今燦々と陽が差す寝室のベッドの上の、自分のすぐ隣で横たわっている。これ以上の目の毒があるだろうか。
 穏やかな寝顔は文句なく美しく、いつまででも眺めていられそうだった。まだ起きる気配のないエドガーをいいことに、細い髪の毛束が兄の頬から顎に落ちているのを息を殺して手を伸ばしそっと掬い上げる。そのまま背中に流そうとして、ふと遠くから物音を感じたマッシュはぎくりと肩を竦ませ、軽く身体を起こしてドアの方向を見た。
 ──間違いない、誰かがこの部屋に向かって来ている──マッシュは慌てて壁の時計を見て全てを察した。朝食の時間だ。女官が呼びに来たに違いない。こんなところを見られては言い訳のしようがないと、服を身につける余裕もなく全裸でドアに向かったマッシュは、ノックが響いたドアを開けずにその向こう側に声をかけた。
「あー……、えーと、兄貴、ちょっと体調悪くて。朝食は後で取りに行くから」
 ドアの向こうから女官の声が聞こえてくる。戸惑いがちにマシアス様ですかと問いかけられ、そうだと答えた。
 体調が悪いなら医師の手配をと女官が余計な気を利かせるので、マッシュは頭を掻きながら何とか誤魔化そうと必死になった。
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだ。医者はいらないから、もう少し寝かせてやってくれ。呼ばれるまで誰も来ないように言ってくれないか」
 せめて顔くらい出すべきだろうか、いや首から下に何も身につけていないのがバレるととんでもないことになる。マッシュはドアに鍵がかかっていることを目で何度も確認し、ようやく女官が分かりましたと告げて遠去かっていく足音にホッと大きく息をついた時。
「何をやってるんだ、お前は」
 ベッドから呆れたような声が投げかけられて振り向くと、ぱっちりと目を開けたエドガーが肘を立てた左手を枕にしてマッシュを見ていた。
 マッシュは自分が全裸であることに羞恥を感じはしたが、今更隠すのももっと恥ずかしいだろうかと赤らんだ顔を顰めるに留めた。
「……だって、入って来られたら困るだろ」
「鍵はかかってる」
「起きて来ない、返事もないなんて大騒ぎになってドアぶち破られるぞ」
 マッシュの言葉にエドガーが吹き出した。真剣に話していたマッシュとしては何が可笑しいのか理解できなかったが、エドガーが実に楽しそうに笑うので追求はしなかった。
「起きて最初に見たのがお前の尻とはなあ」
「服着る時間がなかったんだよ」
 言い訳しながらさり気なく前を隠しつつ、ベッドの周りに散らばっている衣類を掻き集めようとした時。
「着るのか?」
 エドガーが不思議な質問をして、当たり前だろうと答えようとしたマッシュは、ふと目を合わせた兄が昨夜の余韻を残した艶かしい空気を纏っていることに気づく。
「呼ばなければ誰も来ないんだろう? お前が頼んでいたじゃないか」
「そう、だけど……」
 だって寒いし、と漏らした言葉は乾いた口のせいで掠れてきちんとした音にはならなかった。
 喉を鳴らしたのを見抜かれただろうか。エドガーの目が僅かに細められたように感じた。
 皺になったシャツ一枚を握り締めたまま裸で突っ立っているマッシュに、エドガーは少し焦れたように声色を低く囁いた。
「裸でいるのが寒いなら、服を着ろとは無粋じゃないか。他にも暖まる方法はあるだろう? ……マッシュ、俺は目が覚めてからずっと寒いんだ。早く来ないと、……服を着ちまうぞ」
 最後はほとんど吐息混じりで、太陽が照らす光の中で見るには眩し過ぎるほどの色っぽい微笑に、マッシュは握っていたシャツを解放して引き寄せられるようにベッドに戻る。
 迎え入れられた毛布の中で、自分と同じく一糸纏わぬ姿のエドガーの腕に絡みつかれ、捕らえられるがままに胸を合わせて唇を重ねた。
 寒いだなんて、口実にもならないではないか──昨夜と同じ、触れると火傷しそうなほどに熱い兄の身体を抱き締めて、再び熱に溺れるためにマッシュは理性を蹴落とした。