NYAN×3




 これは一体どういうことか。
 緩く握った拳を舐めては本来の耳があった位置よりも少し上、頭に生えている毛だらけの尖った耳裏をその拳で丹念に毛づくろいしている、ちんまりと座り込んだ弟の姿を見てエドガーは絶句した。
「やけにデカいストレイキャットだったんだよ。動きも速くて、一瞬の隙で噛まれたと思ったら……この通り」
 ロックが丁寧に手のひらを上に指し示す先で、四つん這いになり奇妙な音を喉から鳴らしているその男は間違いなくマッシュである。
 しかしエドガーと同じ金色の頭髪からは同じ毛色の獣の耳が生え、顔や手足はかろうじて人間のままであるものの、時折尻の上ではたはたと揺れる細長い尻尾の先が視界に映り込む有様だった。エドガーは目眩を感じて手で顔を覆う。
「言葉も通じねえんだよ。何とかしてくんないか?」
「どう何とかしろと言うんだ……、可哀想に、こんな姿になって……」
 流石に普段のような冷静さを保てずにいるエドガーが拳を舐め続けるマッシュに近づいて膝をつくと、マッシュはその気配でエドガーに顔を向けすんすんと鼻を動かし、頭をぐりぐりとエドガーの胸に擦りつけてきた。マッシュの喉からゴロゴロと不思議な音が聞こえてくる。
 大きな身体を丸めて擦り寄るマッシュの変わり果てた姿に、エドガーはただただ呆然と溜息をついた。
「流石兄貴、懐かれてんな」
「ふざけてる場合じゃないぞ、ロック。元に戻してやらなければ」
「どうやって?」
「……」

 かくして揉め事を丸投げされたエドガーは、半獣化したマッシュを連れてフィガロに戻ることとなった。
 自室にてソファに腰掛け長い髪を普段より高い位置で縛ったエドガーは、自身の膝の上に頭を乗せ気持ち良さそうに昼寝をするマッシュをどんよりした目で見下ろす。それからサイドテーブルに積み上げた分厚い本の塔に顔を向け、眉間に険しく皺を寄せた。
 城の図書館で掻き集めてきた、モンスターの特殊攻撃やそれに関するヒトへの影響が書かれた文献を片っ端から読み漁ったエドガーは、いくつか有用な手がかりを得て険しい顔で息をつく。
「……やはり唾液か血液から感染したか。全獣化していないところを見ると少量と推測できるようだが……自然と抜けるのを待つしかない……のか……?」
 垂れた前髪をぐしゃりと握り締めたエドガーは、この事態を早急に改善する特効薬が見つからないことに焦れた。
 大きな身体を器用に丸め込んで眠り続けるマッシュの髪と、時折ぴくぴくと動く柔らかい耳を撫で、エドガーは本から目を離して背凭れに体重を預ける。その動きでひょこっと頭を持ち上げたマッシュが、エドガーの手に額を擦り寄せてきた。
「なーん」
「参ったな……マッシュ、俺の言っていることが分かるか?」
「うなん?」
「駄目か……、今夜はとりあえず様子を見るしかないな……案外朝には戻ってるかもしれん」
 致命傷となり得る攻撃を受けた時の反応とは違うことを確認したエドガーは、考え続ける時間に小休止を挟もうとマッシュの頭を優しく叩いて身を起こさせ、自らも立ち上がってマッシュを手招きする。
「マッシュ、おいで。寝るならもうベッドに入れ、お前は本当は人間なんだからな」
 不思議そうに首を傾げるマッシュだったが、エドガーに呼ばれるまま両の手から床についてソファを降りてきた。ぽんぽんとベッドの上を叩くエドガーの指示通り、四つん這いから軽やかに飛び乗ってごろりとその上に身体を横たえる。
 その獣じみた動きに苦笑しつつ、エドガーはマッシュの頭を再び撫でて「おやすみ」と声をかけた。そして自身は踵を返し、気つけにコーヒーでも用意して一息ついてから調査を再開しようと肩の力を抜く。
 この状態のマッシュを一人にする訳にはいかない。今夜はここで寝かせて朝まで見守ろうとベッドから離れかけた時、背中にずしりと重みがかかった。
「なーご」
 耳の傍で鳴き声が聞こえたと思った途端、頸に感じた微かな痛みでビクッと背中が竦む。振り向こうとしたがうまく首が動かせない。エドガーはできるだけ目線を背後にずらし、何が起こっているのか確認しようと身体を捻った。
「マッ、シュ?」
 マッシュが頸に噛み付いている。一瞬感染による完全な魔物化かと背筋が凍ったが、それにしては痛みが少ない。噛み切ろうとしているのではなく、甘噛みであると察したエドガーはホッと胸を撫で下ろす。
「どうした、お前眠いんじゃ……」
 じゃれているのだろうか、とマッシュの頭に触れるため腕を後ろに伸ばしかけた時、両肩に乗せられたマッシュの手がぐいっとエドガーの身体を引っ張った。咄嗟のことで抵抗できなかったエドガーは、マッシュを下敷きにするように背中からベッドに倒れ込む。
 全く受け身を取れずに全体重をマッシュにかけたことに肝を冷やし、慌てて起き上がろうとしたエドガーは、しかしそのままうつ伏せにひっくり返されてしまった。
 自分より上背のある大男が潰さんばかりに上から伸し掛かってくる。じゃれているにしてもタチが悪い、と凶悪な重りから逃れるべくもがくが、太い腕ががっちりと絡んで放そうとしない。
「こら、マッシュ……、……?」
 腰より下に妙な感覚がある。何かを押し付けられている、妙に硬いものだ。ほぼ臀部に擦り付けられているそれが何なのか思い当たったエドガーは、真っ青になり首だけで振り返った。
 目尻をとろんと下げたマッシュが、鼻にかかった不思議な声を漏らしながらエドガーの尻に腰を当ててぐいぐいと揺らしてくる。信じ難い光景にエドガーは目を剥いて絶句した。そして先ほど手当たり次第に選んできた文献の中から猫の生態を記したものを読んだ記憶を掘り起こし、あっと口を開く。
 首への甘噛み──発情期の行動だ。
「マッシュ、待てっ……、俺は、その、オスだっ……」
 言葉が通じないと分かっていながら説得せずにはいられず、何とか脱出しようとシーツに爪を立てながら這いずるエドガーをマッシュが強い力で捕まえる。そのまま後ろから再び首筋をやんわり噛まれて、エドガーの背がビクリと反った。
「あっ……」
 まずい、首は弱い。ザラついた舌がべろりと皮膚を撫でる感触に肌が粟立つ。大抵の相手なら跳ね除けられるだろうに、よりによって唯一力では敵わない人間がこの状態とは。
 マッシュは背中からエドガーを羽交い締めにしている手で腹の辺りを弄り始め、獣そのものの腰の動きに反して人間臭く服の隙間から滑り込んでくる手の動きに、エドガーは逃れることもできず身悶えた。
「マッ……ちょ、おい、よせっ……!」
 エドガーは大きく息を吸い込んでしっかり止め、一度力を溜め込んでから身体ごと思い切り振り返った。急な動きにマッシュの腕が外れ、それでも巨体を退けるまでには至らなかったエドガーは、仰向けになってマッシュと顔を合わせる格好になる。
 何処か焦点の合わない瞳で、頬を紅潮させ半開きの口から赤い舌を見せてエドガーを覗き込んでくる弟の見たことのない表情に、エドガーは完全に怯んでしまった。
 ぐるる、とまた喉から奇妙な音を出したマッシュがかぱっと口を開ける。咄嗟に噛まれることをイメージして目を閉じたエドガーの、唇の端に歯が触れた。
 顎ごと甘噛みしたマッシュはぺろぺろとエドガーの唇を舐めながら再び腰を押し付ける。正面を向いてしまったせいで自身のものまで擦られ煽られることになって、エドガーは涙目になりながらマッシュの胸に爪を立てた。
 マッシュの息が唇にかかる。人のものではないザラザラした舌が顔を這う。人間の名残であるのか、一度唇をちゅうっと吸われた。ああ、弟とキスをしてしまった──エドガーは回らない頭で罪深さに嘆くが、先程までのように必死で抵抗する気力が削がれてきていることにもぼんやりと気づいていた。
 そうか、唾液感染──全身の不自然な気怠さと熱感、ぞわぞわ肌を走るむず痒さ。マッシュがふいにエドガーの喉仏を噛み、一気に四肢から力が抜けたエドガーは、意図せず漏れた自分の声が人のものとは違うことだけは辛うじて聞き取った。
 擦り付けられる下半身が気持ち良い。意識がまともに働いていたのはそこまでだった。




「う……ん」
 頭の鈍痛に顔を顰めて薄っすら目を開いたマッシュは、まだ薄暗い景色に気づいて朝が訪れていないことを察した。
 夜中に目を覚ますなんて珍しい──早寝早起きが身についているマッシュは首を傾げながら、無意識に頭に手をやりばりばりと掻く。何かここに違和感があった気がする。当然手には何も触れず、違和感の正体は分からなかった。
 喉の渇きを感じて身体を起こすと、胸に申し訳程度にかかっていた毛布が落ちる。外気に晒された胸に肌寒さを感じて、マッシュは初めて自分が素っ裸であることを認識した。
「えっ……?」
 おかしい、上はともかく下まで脱いで寝ているだなんて。酔って記憶でもなくしたのだろうか?
 そういえばここは飛空艇の部屋とは作りが違うような──マッシュが辺りを見渡した時、隣でむくっと何かの塊が動いた。
 咄嗟に身構えたマッシュは、ゆらりと曲線的な動作で頭を擡げたものが兄のシルエットであることに気づき、握り締めた拳を緩める。
「……兄貴?」
 何故隣でエドガーが寝ていたのか? 疑問を口にする前に、徐々に暗闇に慣れてきたマッシュの目がエドガーの輪郭をしっかりと捉え始めた。
 目の錯覚でなければ、エドガーもまた自分と同じく一糸纏わぬ姿に見える。何より気になるのは、頭の上でぴくぴくと揺れる先の尖った耳のようなもの──
「あ、兄貴、ソレ……何? オモチャでもつけて……」
「にゃあん……」
 普段のエドガーからは想像もできない鼻にかかった奇妙な鳴き声に目を見開いたマッシュは、やけにしなを作って四つん這いになりにじり寄ってくる兄を凝視して硬直した。
 エドガーは美しい切れ長の瞳に半分ほど瞼を被せ、艶かしく瞬きしながらまるで獣のように緩く握った拳でマッシュの胸に手をかけて、頭を肩に擦り寄せてきた。
「あ、あに、兄貴、な、なに? どした?」
 見たことのない兄の色気のある雰囲気に声を上擦らせるマッシュに構わず、エドガーは鼻先を喉仏に押し付ける。次の瞬間、その場所にやんわり歯を立てられてマッシュの身体が大きく跳ねた。
「ちょ、兄貴何を──」
 動揺で仰け反ったマッシュの胸に置いた手に力を込めたエドガーは、踏ん張れずに転がったマッシュの上に伸し掛かってうっとりと見下ろし、舌舐めずりをして顔を近づける。
「あに、何コレ、ダメだって、兄貴、あに──」
 訴えはザラついた舌に絡め取られてまた宵闇に消えて行く。