プライド




 草むらを揺らして素早く逃げていく影を覚束ない足取りで追いかけていた小さな身体が、枝ぶりの見事な大樹の根元で立ち止まって頭上を見上げた。
 すばしこく幹を駆け上って行った大人の手のひらにやや余るほどの大きさの獣が、途中で足を止め地上を見下ろす。獣に向かって腕を伸ばしたのは、美しく陽に透けた金色の柔らかそうな頭髪を持つ青い目の少年だった。
「おいで……」
 少年は木の実の欠片を指に摘み、爪先立ちで精一杯の背伸びをして獣に向かって贈り物を差し出す。
「ね、おいで……。クルミ、あげる……」
 獣はひくひくと鼻を揺らし、頭を下げて少年に顔を向ける。そして無表情で数秒留まった後、期待に目を輝かせる少年の指先を目指してするすると滑るように降りてきた。


「マシアス様、どちらにいらしていたのですか?」
 少し前から姿が見えなかった王子がひょっこり草むらから顔を出したのはつい先程、お付きの女官は心底ホッとした表情で曖昧に微笑む少年を窘めていた。
 ごめんなさい、を繰り返す少年はにこにこと笑うばかりで手応えがない。ヴァルチャー狩りに森を訪れていた砂漠の王家の一行は間も無く城に戻るとあって、それ以上の追求を諦めた女官は兎にも角にも王子の無事に安堵した。
 その様子をじっと見ていた彼の双子の兄王子が、先を行く女官に続こうとした弟の袖を引っ張る。
「マッシュ」
 女官に気づかれないよう小声で囁きかけた兄に対し、弟はまたにこりと笑った。その笑顔を抜け目のない眼差しで見つめた兄王子は、弟が不自然に外套に隠している右手の袖を再び強めに引っ張った。
 弟王子の笑顔が強張る。その些細な変化を見落とさなかった兄王子は、弟の耳に顔を寄せて「だれにもいわない」と後押しをした。笑顔が崩れた弟王子は、チラリと左右に視線を走らせ、兄の他にこのやり取りに気づいているものがいないかを確かめてから、そろそろと外套に差し込んでいた右手を出す。
 小さな人差し指の先端は小動物の噛み跡が残り、赤味を帯びた紫色に変色していた。一瞬目を見開いた兄王子は、弟に同じく素早く周囲に気を配ってから弟の右手を外套に収め、代わりに左手を引いて歩き出した。



 ***



 飛空艇に戻ってきた仲間の疲弊はかなりのもので、ティナはほとんど魔力を使い果たしてマッシュに抱えられ、ロックとセッツァーも肩で息をしながら艇の入り口でどっかり座り込んでしばらく動けないでいた。
 出迎えたセリスがその場でティナに回復魔法を施し、中にいる待機組に声をかけて救援を呼び寄せる。集った仲間たちに手助けされながら奥に入っていく三人を見て安堵の息をついたマッシュは穏やかに微笑み、しかししっかりとした足取りで立っていたため誰からも声はかからなかった。
「マッシュ」
 ただ一人、彼の兄を除いては。
 エドガーの呼びかけに笑顔で振り向いたマッシュは、ただいまといつものように答えた。それに対してエドガーは含みのある笑みを返し、マッシュの頭の天辺から爪先まで舐めるように見つめてから、何かを確信したのか軽く頷いてマッシュを手招きする。
「マッシュ、部屋においで」
「ん、シャワー浴びてから……」
「いいから今すぐ来なさい」
 にこやかに微笑んではいるが有無を言わせない兄の口調に押し黙ったマッシュは、渋々小さく頷いて先導する兄の後に続いて行った。


「全く……、痩せ我慢しやがって」
 ベッドの上に胡座をかいたマッシュは上半身裸で兄に背を向け、その腰の辺りに手をかざして回復魔法を詠唱しつつ零される兄の小言にはい、はいと力のない返事を寄越していた。
 エドガーが手のひらを向けているマッシュの肌は広範囲が青紫色に変色し、酷い打撲であることは素人でも見て分かる。普通であれば立っているだけでも苦痛であるだろうに、他の仲間が誰一人として気づかなかったのだからマッシュのポーカーフェイスは完璧だったのだ。
「よし、大分いいだろう。俺の魔法じゃこれが限界だが、ないよりマシだ」
 ふうっと息を細く吐いたエドガーは、マッシュの背中をぱちんと叩く。マッシュは軽く腰を捻り、それまであった痛みがなくなったのかホッと顔を綻ばせた。
「サンキュー、兄貴」
「お前のことだ、皆に……ティナに遠慮したな? 確かに彼女は魔力をほとんど使ってしまったようだが、ロックやセッツァーだって簡単な回復魔法くらいは」
「……ティナを庇った時にやっちまったんだよ。ティナに自分のせいだって思って欲しくなかった」
「成程、それが今回の建前か」
 さらりと告げた兄の言葉にぎくりと肩を竦めたマッシュは、恐る恐る後ろを振り向き肩越しにエドガーを見る。エドガーは穏やかな微笑を浮かべてはいたが、その目は意味ありげに鈍い輝きを放っていた。
「……昔を思い出すな。お前がナッツイーターに噛まれた時のことを」
 軽く瞼を伏せて懐かしみながら呟くエドガーに対して身体の正面を向けたマッシュは、気恥ずかしそうに背中を丸めた。そして無意識に自らの右手の人差し指を見下ろす。
「よく覚えてるな、あんなガキの頃のこと」
「そりゃあな、何しろあれでお前はすっかりナッツイーター嫌いになっちまったんだから」
 得意げに首を左右に振りながら答えるエドガーに苦笑を返し、マッシュは幼い日の出来事をぼんやりと思い起こした。
 可愛らしい見た目に惹かれて必死で追いかけた。好物のクルミを分けても良いと思ったくらいには気に入ってしまったのだ。自分勝手に小さな友達だと決めつけて、友好の印に差し出したクルミごと指を噛まれた。
 鋭い門歯が人差し指の先端に食い込み、慌てて振り解くことができたのは今思えば幸運だった。小さくても魔物である、食い千切られていてもおかしくはなかっただろう。
 しかしあの時は痛みよりも驚きと、何よりこちらの好意を無下にされたことがただ悲しくて悔しくて、その結果余計な怪我まで負ってしまったことへの恥ずかしさで頭がいっぱいになってしまった。
 だから誰にも気づかれないように外套に怪我した手を隠して痛みを堪え、素知らぬふりでにこにこと笑っていたのだけれど、今この時と同じように兄のエドガーだけはマッシュの異変に気付いたのだ。
 エドガーは変色したマッシュの指を見て一瞬目を見開いたが、声と表情を殺して周りの大人に何も告げず、もう片方の手を引いて城まで付き添ってくれた。そしてこっそり持ち出した傷薬と包帯で下手くそな手当てをしてくれたせいで結局その傷は大人の知るところとなってしまったのだけれど、頼みもしなかったのに秘密にしてくれたエドガーの気持ちが酷く嬉しかったことは今でもよく覚えている。
 今回の怪我も、元々は過信から生まれたものだ。庇い切れると自信があった。ここまでの深手になったのは完全に予想外で、自分自身の見通しの甘さに憤りを感じながら仲間たちの誰にも悟られないよう虚勢を張って、やっとの思いで飛空艇に帰り着いた。バレないように応急処置を済ませる前にエドガーに捕まってしまったが。
 言わなくても理解してくれる唯一の存在。あれから二十数年の時を経ても変わらない兄の心遣いに感謝しつつ、マッシュはあの時聞けなかった質問を口にしてみた。
「なあ、兄貴はどうしてあの時俺が怪我してたって分かった? 今だって……」
「ん? 分かるさ。お前が何か隠し事をしている時は、昔から変わらない幾つかのポイントがある」
「どんな?」
「それを教えちゃ面白くないだろ」
 悪戯っぽく笑いながらエドガーが返した言葉に苦笑しつつ、意を決したマッシュは一番聞きたかったことを尋ねることにした。
「じゃあ、あの時……、なんで誰にも言わないでいてくれたんだ?」
 マッシュが口止めをした訳ではなかった。傷を見せるのを渋った僅かなやり取りでマッシュの意思を汲み取ったエドガーの態度は、当時からずっと不思議に思っていたのだ。
 マッシュの問いに軽く眉を上げたエドガーは、すぐに優しい微笑みを見せて当然とばかりに口を開いた。
「……弟のプライドを守るのは兄の役目だ」
 マッシュは二、三度瞬きをしてから仄かに頬を赤らめて、うん、と小さく呟いてから照れ臭そうに俯き頭を掻く。
 対等の立場を保持してくれながらもいつだって一歩先から手を引いてくれた。
 この人の弟で良かったとこれまで何度となく思ったことを改めて噛み締めて、顔を上げたマッシュは虚勢ではない心からの笑顔で愛する兄に向き合った。