恋慕




 浴室の湯気の中、ぼんやりと浴槽の湯を陶器の桶で掬ったエドガーは、心ここにあらずといった様子でその湯をぱしゃりと左肩にかけた。
 もう一度掬い、反対側の肩にもかける。申し訳程度の湯がたらたら体を流れて行き、ついその行方を目で追ったエドガーは自分の胸に散らばる点々とした紅斑に気づいて頬を朱に染めた。
 桶を手放し、どうせ自分しか入らないのだからと浴槽に飛び込む。湯の中に隠れるように身を縮め、そのまま俯くように顎を沈めて鼻まで湯に浸かる。束ねられていない金の髪が湯面に花を咲かせ、鼻息がぶくぶくと泡を作った。

(──ああ、とうとう)

 昨夜のことを思い出す。

(マッシュと、してしまった)

 思い出しては体の奥が、胸の真ん中の心臓に重なる部分が鈍い音を立て疼きを誘う。
 これまで何度となくチャンスはあったものの、タイミングだったりお互いの気分だったり周囲の環境だったりと線を越え切れなかった。それが、夕べ。生まれ育ったこの城の自分の寝室で。マッシュと。
 熱に浮かされたような目で湯気の形の移ろいを眺めていたエドガーは、湯に潜っていることを忘れてうっかりそのまま呼吸をし、鼻に吸い込んだ湯のせいで激しく咽せた。鼻の奥に感じるするどい痛みに鼻筋を押さえ、そのまま両手で顔を覆う。

(なんだこれは。この浮ついた気持ちは)

 朝起きてからずっと、胸の音が耳のすぐ傍でやかましく響いて気もそぞろになっている。
 一人きりのベッドで目覚めた朝、マッシュは綺麗な字のカードを机に置き、すでに早朝の鍛練に繰り出していた。置いていかれたことの寂しさより、起きてすぐのこの表情を見られなかったことに安堵した。

(……マッシュは、タフだな)

 いつもの時間になどとても起きられなかったエドガーは、普段通りに日課をこなすマッシュに感服する。
 夕べ、あんなに遅くまで──これまで逃して来た何度かのチャンスの分を取り戻すかのように、何度も、激しく体を重ねたのに。
 あの太い腕で捉えられ掻き抱かれ、我を忘れて厚い背に縋り付いた、その証の爪痕は残ってしまっているだろうか。

(痛かったかな)

 ひょっとしたら噛み跡も残っているかもしれない。

(……俺も痛かった)

 ずくんと腰の下が熱を持ったように疼いた。
 エドガーは顔を覆った指の間からもやもやと浴室を取り巻く湯気の行方を追う。しかしその目に映っているのは湯気ではなく、昨夜自分を愛した男の面影で、それが入浴による逆上せのようにエドガーの顔を体を赤く染めていくのだった。

(──ああ、みっともない。こんな、初めて恋した少女のような顔をして)

 譫言のように繰り返された愛の言葉が一晩経っても耳から離れない。低い囁きが頭の中を支配して、この身から力と思考を奪ってしまう。

(俺はいつの間に、こんなに)

 どんな顔をして会えば良いのか分からない。

(こんなに、あいつのことを)

 再びぶくぶくと湯面に泡が浮かんだ後、盛大に湯を鼻に吸い込んだエドガーは涙目で咳き込んだ。




 マッシュが執務室を訪ねてきたのは昼近くになってからだった。
 書類の積まれた机に向かいペンを走らせていたエドガーは、ノックの直後に返事も待たずに開いた扉にどきりとする。
 現れたマッシュがいつものタンクトップ姿ではなく、珍しく首の詰まった拳法着を着ていて、最初の表情に困っていたエドガーは素直に驚きの顔で彼を迎えることができた。
「……珍しいな」
 一言目はそれだった。
 するとマッシュはほんのり顔を赤らめて、少しふて腐れたように口を尖らせてエドガーの傍に近づいてくる。
 そしてエドガーのすぐ隣まで来ると、襟元に指を潜らせ下に引っ張り、ちらりと首から鎖骨のラインを見せてきた。その肌色にエドガーの胸がぎゅっと甘く縮んだが、よく見ればそこには赤紫の斑点が散らばっていた。
「……兄貴のせいだぞ」
 ぼそりと呟いたその表情は怒っているような、しかしそれでいてどこか嬉しそうで、エドガーはその愛らしい眼差しを受けてつい笑ってしまう。
「……そうか。それは、悪かった」
 エドガーに釣られてマッシュも恥ずかしそうに笑った。──ああ、良かった。こんなに普通に笑うことができた。
 ふと、近づいてきたマッシュの顔に自然と目を閉じる。
 昨夜とは違う、荒々しさのない優しいキス。
 唇が離れた後、愛しさを満たして自分を見つめる青い瞳のその中に、無邪気とも言える純粋な眼差しで想い人に見惚れる自分の姿をエドガーは見た。
 昼からこんな顔をして、この後の長い時間を果たして自分は耐えられるだろうか?


 早く夜が来ますように……