口火 †浪漫飛行 0†




 砂漠の城と呼ばれるフィガロ城から砂が途切れるまで南東に向かった更に先、誰かに置き忘れられたような小ぢんまりとした小屋が佇んでいた。
 辺りは僅かながら草木が生え、小さな花も見受けられてのどかな風景が広がっているが、モンスターが住み着くサウスフィガロの洞窟から程近いということもあってか人の往来はほぼない。
 人気のない場所にひっそりと建つ小屋は古めかしさこそないものの、サイズの揃わない丸太で組まれた非常に簡素なもので、薄い戸板の他は小さな窓がひとつだけ。
 小屋のすぐそばには屋根と柱だけのチョコボ小屋が併設され、繋がれた一匹のチョコボが足を折り曲げすやすや昼寝をしている。
 小屋を囲む低い木々の枝には鳥が羽を休めていた。青空に靄のような雲がゆったり泳ぐ穏やかな天気に実によく溶け込んでいた。
 そんな平穏な景色の中、似つかわしくない威勢の良い掛け声がもう随分長いことこだましている。声が響くたびに枝の先の鳥が小首を傾げ、その出所に嘴を向けていた。
 鳥が見つめる視線の先、砂利混じりの草原に裸足のまま立つ男が、拳を突き出したりしなやかな脚を蹴り上げたり、その都度上げる気合の入った声はのんびりとした空気の中で酷く浮いて聞こえた。
 男は蜂蜜色のさほど長くもない髪を後ろに束ね、鍛え上げられた上半身は裸であり、その胸や背中には水を被ったかのような汗がだらだらと流れている。
 ふと動きを止めた男は、両足に幅を取り腕を軽く上げて眼前に敵がいるかのごとく構えを取った。しばらくそのまま呼吸を整えていたが、伏せがちだった目をかっと開いたと同時にふたつの掌を太陽のように広げて手首を合わせ、ハッと短く気合を込めた。瞬間、辺りを眩い光が包む。
 バサバサと鳥が飛び立つ。
 光が収まると、再び大地は沈黙した。
 男はふーっと長く息をついて、そのままふらりと前に倒れるように背中を丸め、しかし崩れる前に両手を膝について体を支える。はあ、と肩で大きく息を吐くと額からこめかみからばらばらと汗の粒が落ちてきた。
 荒く整わない呼吸が丸まった逞しい背中を揺らす。俯く形の良い鼻の先からぽたぽた汗の雫が垂れ、また一筋、後頭部から流れてきた汗が青い瞳を掠めて、男は塩気にぎゅっと目を瞑った。
 がばっと上体を起こして筋の目立つ腕でごしごしと顔を擦り、はあ、ともう一度大きく息をついて天を仰ぐ。何度か瞬きを繰り返す瞳は見上げた空にも劣らない澄んだ青色だった。
 泳いできたかのように汗でびしょ濡れの体が、太陽の下で気持ちよさそうに伸びをした。
「──おし」
 小さな呟きで区切りをつけたのか、男はぶんぶん頭を振って汗を散らしながら後方に見える小屋へと向かう。小屋の入り口そばで繋がれているチョコボが軽く頭を持ち上げ男を出迎えると、男はにっこり微笑みその嘴を軽く撫でて応える。
「お前も腹減ったか? 待ってろ、着替えてくるからな」
 そう残すと男は小屋の扉を躊躇いなく開け、中へと入っていった。
 マッシュ・レネ・フィガロ。砂漠に城を構えるフィガロ国国王の弟であり、修業中のモンク僧でもあるマッシュは、自身の鍛錬のため四日前からこの小屋に一人で滞在していた。
 この四日ですっかり髭面になった頬を掻きながら、マッシュは誰の目も気にすることなく部屋の真ん中で衣類を脱ぎ捨て全裸になり、奥に設置された冷水が出るだけの簡易シャワー室に飛び込んだ。


 マッシュが餌を運ぶとチョコボは満足げに鳴いた。自らも干し肉を齧りながら空を見上げて太陽の位置を測る。昼過ぎくらいだろうか──この小屋には時計がなく、気にしていないと時の流れが曖昧になる。
 まだ髪から滴る水滴を肩にかけたままのタオルで拭い、小屋の外壁に凭れたマッシュはしばし休息を取った。
 マッシュがこの小屋に来るようになったのは二年ほど前。月に一度は修行と称して訪れている、粗末な小屋はマッシュが手ずからこの場所に建てたものだった。
 日頃住処としている砂漠の城から遠すぎず近すぎず、あまり人気もないここは誰の邪魔も入らずに修行に打ち込める絶好の場所だった。自分で材料を運び手作業で組み立てたため隙間風が吹いたりもするが、お偉い客を招くわけではない。簡単なキッチンに汗を流す場所、硬くても手足を伸ばせるベッドがあれば充分だった。
 そもそも十七歳で一度城を出てから、十年間格闘家の師匠の元で厳しい修行に励んできたマッシュである。王子だった頃とは違い、身の回りの世話どころか自炊も当たり前の生活を叩き込まれ、自分のことは全て自分で行う暮らしに慣れ切ってしまっていた。
 それが三年前に起こった最悪の戦争──魔導の力を根源とした、世界が一度崩壊したほどの戦いをきっかけに、マッシュは生まれ育った城に帰ることになった。

 戦が終わった後、また修行の旅に出る道もあった。
 それをしなかったのは、偏にマッシュの双子の兄であるフィガロ国の国王、エドガーがいるからに他ならなかった。
 十年ぶりの再会は、マッシュにどれだけ兄の存在が大切であるかを知らしめた。また、兄が一人でどれほどのものを背負ってきたのかも。
 父王の死により他国の陰謀や王位を巡るいざこざを見せつけられ、嫌気がさして国を飛び出したのは事実だった。
 だがそれも自分の無力を理解してのこと。聡明な兄に比べ自身に王の器はないと悟っていたマッシュは、違う形で兄の力になるべく強さを求めたのだった。
 結果、先の戦いでは兄エドガーと共に最前線で拳を奮い、兄や仲間のピンチを幾度となく救ってきた。
 過去の選択は間違いではなかった。今なら確かに兄の盾になれる──再会をこれ以上ないほど喜んでくれた兄を、唯一の家族でありそれ以上の存在であるエドガーをこれからも間近で支えたいと強く思った。
 戦が終われば政治が必要になる。物理的な力から必要とされるベクトルが変わったその時、先頭に立たねばならないエドガーを守り続けることを心に誓ったのだった。

 しかし修行暮らしが長かったマッシュにとって、久しぶりの王宮は窮屈なことも多かった。
 掃除洗濯皿洗い、当然だが何一つ自分でする必要がなくなり、その気になれば一日ベッドに寝転がっていても生活が成り立ってしまう。
 政には興味がなく、助言できるような学もない。
 となればこの先何が起こっても立ち向かえるように鍛錬を続けることがマッシュにとっての最善だったのだが、城にいると自分よりも立場の低いものがあれこれと世話を焼き手を出そうとする。ストイックに自分を追い込む時間が取れないことにマッシュは焦れた。
 そこで月に数日でも修行のために城を出ようかと相談したところ、エドガーの額にさっと影が走ったのをマッシュは見逃さなかった。
 気取られないようにしていたのはマッシュを気遣ってのことだろう。──修行に出て、そのまま戻ってこない想像をしたのだ。マッシュの直感は鋭かった。
 そんなつもりは毛頭なかったマッシュは、このサウスフィガロの洞窟近くに修練小屋を建てることにした。
 遠くへは行かない。エドガーの目の届く範囲で、エドガーのために心身を鍛える。
 自惚れではなくエドガーに必要とされている自信はあった。マッシュはもう二度とエドガーを一人にしないと、その証にもなる秘密の場所を用意したのだった。


 修練小屋を建て始めた当初は大工仕事が修行の代わりだったが、形が出来てからは小屋を拠点に体を動かせるようになり、充実した数日間を過ごすことができていた。
 日の出と共に外に飛び出し、目覚めの運動で汗をかく。持参した食材で簡単な食事を済ませ、腹ごなしに修行の続き。体力作りと技磨きに没頭すればあっという間に時は過ぎ、日が暮れたら小屋で休む。疲れ果てた夜はシャワーも浴びずにそのまま寝転けてしまい、しかしそれを咎める者もいないので見た目はかなり薄汚れていくが、城に戻る朝はきっちり全身を洗って髭も剃り落として行くため修業中の惨状がバレることはない。
 はずだった。少なくとも一年前までは。


 ふと、満腹になり再び昼寝を始めていたはずのチョコボが首をもたげ、クエと小さく鳴き声を上げた。
 ぼんやり雲を追っていたマッシュがその声に弾かれてチョコボの目線の先を見やると、遠くから何やらこちらに向かってくる豆粒サイズの影に気づく。
 ゆらゆらと左右に揺れながら少しずつ近づいてくる影がチョコボに乗った誰かだと分かる頃には、マッシュにはその正体に察しがついていた。
 本当は察するも何もない。この場所を知っているのは、小屋を建てたマッシュの他にはただ一人しかいないからだ。
 マッシュは気まずそうにすっかり無精髭に覆われた顎を撫でる。──ああ、さっき水を浴びたのはせめてもの救いだった。
 真っ直ぐ小屋に向かってきたチョコボからひらりと飛び降りた人物は、被っていたフードを優雅に外して縺れた髪を解すように軽く頭を振る。美しく長いブロンドが太陽の光を吸ってきらきら輝いた。
 ここら一帯を統治するフィガロの国王であり、マッシュの兄であるエドガーその人だった。
「来たのか、兄貴」
 マッシュが駆け寄る。
 フィガロブルーと呼ばれる澄んだ青のマントを翻し、チョコボに括り付けられた大荷物を下ろしながら、エドガーは笑って振り向いた。
「ああ、仕事が一区切りついたんでな……って、お前汚いなあ」
「言うと思った」
 予想通りの台詞に苦笑し、エドガーが乗ってきたチョコボの手綱を引いてやる。すでに繋がれているマッシュのチョコボと嘴を軽く擦り合わせ、二匹のチョコボが仲良く寄り添うのを見届けてから、マッシュはエドガーを小屋の中へと案内した。


「オートボウガンの改良中なんだが、ここならゆっくり集中できるからな。テーブル借りるぞ」
 エドガーは大きな包みから説明通りのオートボウガンと、重量のありそうな工具箱を取り出してテーブルに並べ始めた。マッシュ手製の少し歪んだテーブルがカタカタと揺れる。
「構わないけど、俺もうちょっと修行するよ?」
「ああどうぞ、お前の邪魔はしないよ」
「晩飯は?」
「なんでも」
 なんでも、ということはエドガーは夜になっても城に帰らない、つまり小屋に泊まる気でいるようだ。マッシュは肩を竦め、早速作業用の手袋をはめて工具箱に手を突っ込んでいる兄をじっと見る。
 エドガーはそれきり口を噤み、目の前の獲物に集中し始めた。黙々と手を動かすエドガーの伏せた睫毛の下で淡く煌めく青い瞳をしばらく眺めていたマッシュは、よし、と小さく気合を入れて再び小屋の外に出た。

 修練小屋が完成してから一年ほど経った頃から、何ヶ月かに一度の割合で時々エドガーが訪ねて来ることがあった。
 ふらっと現れて日暮れまでに帰ることもあれば、今日のように泊まる予定で来る時もある。ただそのどれもマッシュに事前の知らせがないため、いつ来るかは完全にエドガーの気まぐれだった。
 とはいえマッシュはある程度は気づいていた。エドガーがやって来るのは何かしら良くないことがあった時で、本人は決してそれを口には出さないが、どこか行き詰まってしまったりどうにも感情の整理がつかない時、大量の工具を抱えて作業に没頭することで気持ちを切り替えに来ているのだということを。
 恐らくスケジュールとしてはかなり無理をして作った時間だろうから、城に戻ればそのツケを払わなければならない。その無理を押してでもエドガーには必要な時間なのだということをよくよく理解していた。
 だからマッシュも突然現れるエドガーを咎めることはないし、作業中は干渉もしない。エドガーも同じくマッシュの修行に介入したりはしないため、それぞれが好きなように時間を過ごす。
 突然の来訪はいつも戸惑うけれど、それ以上に喜びが胸を包む。
 今夜は二人でいられる。マッシュは緩む頬を両手で強めに叩き、煩悩を打ち払うべく修行を再開した。




 西の空が茜色に染まり白くぼんやりとした月の輪郭が目立ち始めた頃、薪を抱えてようやく小屋に戻ったマッシュは、予想通りの光景に呆れて溜息をつく。
 外以上に薄暗い室内で、ランプの灯りもつけずにテーブルに向かうエドガーは、マッシュが戻ってきたことにも気付いていないほど集中しているようだった。
 両膝にボウガンを挟んで立て、側面に工具を差し込んでいるエドガーの眉間には皺が寄っている。恐らく暗さで見づらいのだろう。マッシュはもう一度溜息をついた。
 陽が落ちて気温も下がってきた。抱えている薪を使って暖炉に火をくべ、ヤカンに水を汲んでその上に乗せる。簡単な調理ができるよう、暖炉の熱を利用した簡易キッチンが活躍するのは主に夜だ。
 それからランプに灯りを灯し、そのうちのひとつをそっとテーブルに置いてやる。そこでようやくエドガーが顔を上げた。
「目ぇ悪くするぞ」
「ああ……、暗くなってたのか」
「俺風呂入ってからメシの支度するけど、リクエストは?」
「なんでも」
 昼間と同じ台詞のエドガーにマッシュは笑って、期待すんなよ、と返してからシャワー室へ向かう。
 汗で体に貼りついた衣類を脱ぐと、体に外気が触れて気持ちが緩む。脱いだ衣類を抱えたまま狭いシャワー室に入り、剥き出しの配管に繋がるレバーを倒すと、天井近くに備え付けられたシャワーヘッドからピリッとした冷たさの水が降り注がれた。
 マッシュは膝をついて脱いだ服で水を受け、置きっ放しの石鹸を使ってごしごし洗い始める。
 このシャワー室を提案したのはエドガーだった。当初は外で井戸の水を被っているだけと知ったエドガーが、呆れて外から水を引くための設計図を用意してくれたのだった。
 実際便利だが、冷水しか引いていないため寒さの厳しい時期は行水すら修行の一部のようになってしまっている。エドガーは配管の途中で湯を沸かすシステムを追加しようと言うのだが、月に数日しか使わない場所にそこまでこだわらなくともと後回しにしたままだ。
 マッシュ一人の時はそれでも良いのだが、こうしてエドガーが来ることを考えるとそろそろ兄の提案を採用しなければならないだろうか──そんなことを考えながら洗濯を終え、自分の体も豪快に洗う。
 最後に泡立てた石鹸を頬から首の下まで塗りつけて、無精髭を剃り始めた。
 予定では明日の朝城に戻る前に剃るつもりだったが、エドガーが来ているなら前倒ししなくてはならない。
 鏡がないため手探りで、できるだけ丁寧に剃り落とした。

 マッシュが体を清めた後もエドガーは工具片手にボウガンに向かっていて、腰にタオルを巻いただけのマッシュはその様子を愛おしそうに眺めた。
 暖炉の上のヤカンはすでに湯気を噴き出している。マッシュは食事の前にただ板を打ち付けただけの棚からお気に入りの茶葉を手に取り、カップも二つ下ろす。
 ふとエドガーが顔を上げた。紅茶の香りが届いたのだろう、その出所がマッシュだと分かると未だ裸のままの上半身を視線で撫でてにやっと笑った。
「……惚れ惚れするな」
 艶のある声色にマッシュの頬が赤くなる。
「いい加減休憩しろよ。何時間やってんの」
 照れ隠しで脈絡ない返事をぶっきらぼうに返し、マッシュは淹れたての紅茶をエドガーの元へ運んだ。
 エドガーはようやく工具箱に愛器を収めて手袋を外した。軽く首を回して息を吐き、それから湯気の立ち上るカップを手に取って、目を伏せて香りを嗅いでから一口、満足そうに微笑んだ。
「ああ、やっぱりお前のお茶は美味しい」
 優雅な微笑はそれだけでマッシュの胸を熱くする。散々修行に没頭した後の兄の所作は心臓に悪い。もう耳まで赤くなっているかもしれない──ランプの薄明かりだけで幸いだったと自棄気味に熱い紅茶を煽り、マッシュはさっさと夕食の支度を始めることにした。
 小屋に籠る前に用意した食材も残り僅かで、大したものは作れそうにない。それでもエドガーがいるならとあり合わせのメニューを考えていると、空になったカップを持ってエドガーが覗き込んでくる。
「メニューは?」
「秘密」
「意地が悪いな」
 言葉の割には実に嬉しそうに囁いたエドガーは、カップをマッシュに押し付けるとひらりと身を翻す。
「シャワー借りるぞ」
「いいけど、まだ」
「水しか出ないんだろう。全く、時間があったら改造したものを」
 ぶつぶつと零しながらシャワー室に向かうエドガーをまた物欲しげに目で追ってしまっていたことに気づき、マッシュは慌てて目の前の屑野菜に集中した。


「早急になんとかしたほうがいいぞ」
 頭からタオルを被って暖炉の前を陣取るエドガーに、マッシュは苦笑しながら出来立てのシチューを皿に注ぐ。
「俺が設計してやるから湯沸かし器をつけよう」
「そんな暇あんのかよ」
「これは死活問題だぞ」
 大真面目に訴えるエドガーが可笑しくて、はいはいとあしらう声もつい笑ってしまう。
「メシできたぞ、兄貴」
 テーブルに食事を並べ終えて呼びかけると、暖炉の前の塊が立ち上がって被っていたタオルを肩に落とした。まだ湿っている髪を手櫛で梳かしながら、エドガーは肌寒そうに肩を竦めて席に着く。
 ほかほかと湯気の立つ屑野菜のシチューに、残った小麦粉で作った塩気の強いパンケーキ。見た目そのままの質素な食卓だが、エドガーの頬が柔らかく緩んだのをマッシュは見た。
「あったかいうちに食べて」
 向かいに座るマッシュの言葉に頷いたエドガーは、いただきます、としっとりした声で呟き、スプーンを手に取る。一口シチューを含んでほっと吐息を漏らした。
「ん、旨い」
 その仕草に見惚れていたせいで、ちらとこちらを見たエドガーとばっちり目線が絡んでしまう。熱くなる耳を誤魔化すためにマッシュも慌ててシチューを掻き込んだ。
 城で出される食事とは比較もできないくらいの味だが、エドガーは決して文句を言わずに綺麗に平らげる。かつての旅の最中でもそうだった。寝食がどれほど粗末でも嫌な顔ひとつせず、それでいて立ち振る舞いが優雅なので、たとえ硬くなったパンでも高級食材に見えてしまうミスマッチさはあったが。
 食事で体の中から温められたのか、青白かったエドガーの頬に赤みが差したのがランプの小さな灯りの元でも分かった。そのことに安心しながら、マッシュは膨らみの悪いパンケーキを齧りながら尋ねる。
「改造は終わったのか?」
「ん? ああ、まあ七割ってところだな。バネの種類と位置を変えて、持ち手を少し握りやすく削ってみた。後は矢の形状を刺さりやすく抜きにくいものにしてみたんだが、それだとセットする時に──」
 饒舌に語り始めるエドガーにふんふんと相槌を打ちながら、マッシュは自然と綻ぶ表情を隠せなくなっていた。
 エドガーが活き活きと語る機械の話は、本当のところ半分くらいしか理解できないのだけれど、大好きな人が大好きなものの話をしている様子はとても輝いていて、見ているだけでマッシュの心に幸せをくれるのだった。
 他に誰も気遣う相手がいない、二人だけの時間で見せてくれる一国の王とは違う顔。
 子供の頃から知っている青い目の煌めきは幾つになっても変わらなくて、先に食事を終えたマッシュは話の止まらないエドガーをずっと見つめていた。愛しさに目元が緩んでいた。



 ささやかな夕食が終わり、後片付けも済ませてしまえば、この小さな小屋の中には娯楽など何もなくて。
 後は灯りを落として眠るだけなのだが、いざその時間になるとどうしてもそわそわと挙動が不審になってしまう。
 以前にも何度かエドガーが訪れているためベッドはふたつ設置されているのだが、マッシュの本音としてはできれば使用はひとつのみにしたいところだった。
 しかし過去にその提案をした時のここでの成功確率はほぼ五分と、決して高くない数字を思い浮かべて切り出し方に迷う。
 きちんと髭も剃ったし、エドガーも冷水を我慢してまでシャワーを使っていたのだから、いけそうな気がするのだが。
 エドガーはすでに寝支度として緩く髪を結い、窓際のベッドに腰掛けている。マッシュの落ち着かなさを知ってか知らずか、少なくともエドガーから何らかの誘いを受けることはなさそうだった。
 マッシュは迷い、断られた時の精神的ダメージと、そうでなかった場合に得られる幸せな時間を交互にイメージして、遂に決心した。
 空いた片方のベッドを素通りして、エドガーが座る窓際のベッドの前に立つ。エドガーが顔を上げるのと同時に、何も言わず隣にすとんと腰を下ろした。
「……」
「……」
 無言の時は数十秒から数分あっただろうか、マッシュは恐る恐る腕を伸ばし、エドガーの背中に触れた手をそのまま肩へ滑らせた。
「……、その……」
 肩を抱かれたエドガーは、何か? とでも言うように軽く首を傾げる。
 意地が悪い。マッシュは視線を泳がせた。
「えっと……だから、その……」
 こういうのはいつも照れ臭い。相手に余裕があるから尚更だ。
「……、……ダメ?」
 眉根を寄せて懇願するようにちらりと横目を向けると、ぞくっとするほど妖しい笑みを浮かべたエドガーが顔を近づけてきた。
 唇をマッシュの耳元へ、吐息混じりに「ダメじゃない」と囁かれた瞬間、理性が吹き飛んだマッシュはエドガーを掻き抱いて噛み付くようなキスをした。






「……セッツァー、最近姿を見せないな」

 気怠い余韻に浸りながらゆったりと上下する、未だ汗の引ききっていない胸の上に頭を乗せたままのエドガーがそんなことを言うものだから、体に残る熱に惚けてぼんやり仰向けに転がっていたマッシュの眉間にも皺が寄る。
 ついさっきまで自分の名前を連呼してくれていた唇から他の男の名前が出て気分が良い訳がない──思わず撫でていたエドガーの髪の束をきゅっと握り締めてしまったが、エドガーはマッシュの心の内を知ってか知らずか呑気な声で続ける。
「前に来てからもう一年近く経ったかな……またそのうち寄るって言ってたんだけどな」
「……兄貴」
「んー?」
「なんで急にセッツァーのことを?」
 聞き流せる余裕もなくいきなり核心をついたつもりのマッシュだったが、エドガーの声色は実にのんびりとしていた。
「ほら、城の潜行速度をもう少し安定させるのにエンジンの改良が必要だって話前にしただろ?」
「う……ん」
 聞いたような、聞いたけど覚えていないような。マッシュが目をきょろきょろさせているのに気づかない様子のエドガーは変わらない口調で話すので、胸に息が触れてくすぐったくなる。
「前にセッツァーが来ていた時、ファルコンのエンジンを近いうちに大改造するつもりだって言ってたんだ。大まかなポイントは聞いたんだが詳細を教えてくれなくて……あれがどうなったのかずっと気になっているのに、それきり顔も出さないし……」
「……ふうん」
「まあ飛空艇と城では構造が違うから参考にできるかは分からないんだが。それでもあれだけのスピードを出せたファルコンが更に改良されたらどうなるのか、エンジンの変更で他の場所に影響はないのか……思い出したら気になってなあ」
 肌を寄せ合う閨での会話にしては随分と色気がない。マッシュは苦虫を噛み潰したように唇を尖らせる。
 要するにそれが気になって仕方なかったのがここに来た最大の理由ということだろうか。セッツァーに嫉妬すべきか飛空艇へのそれか、エドガーの心を占める存在が羨ましくて少し憎らしい。
 マッシュは知っていた。旅が終わった後にたまにセッツァーが城へ訪れると、エドガーは仕事を無理にでもどうにかして飛空艇を見に行っていた。中に入ってしばらくしてすぐ戻ることもあれば、少しの間空の旅を楽しんできて大臣に小言を食らったりしている姿を何度か見ていた。
 セッツァーは飛空艇の深部に繋がるドアの向こうへ他の仲間を通すことはなかったが、エドガーだけはその限りではなかったのだ。
 あのシステムは凄い、と目を輝かせる兄の姿を見せつけられる度にやるせない思いを燻らせて、しかしどうにもできない無力さに項垂れる。その方面では、マッシュは話を聞くくらいしか兄の助けになってやれないのだ。
 本当に好きなのだろうな。──子供の頃から興味の対象にひたすら没頭するエドガーを見てきたマッシュは、今はその時間もままならない兄の境遇を思って嘆息する。
 世界中が混乱していて、やるべきことの優先順位をつけるのも難しい状況だ。たまに作り出した休息時間くらい、好きなことを好きなだけやらせてあげたいとは思うのだが。
 そこで自分以外の誰かの名前を聞くのはやはり面白くない。
「……ならさあ」
 ぽつ、と呟くとエドガーが顔を向ける気配がした。
「兄貴が自分で飛空艇作れば?」
 ぴくりとエドガーの体が不自然に揺れる。その動きに思わずマッシュが天井から目線をずらすと、腕の中のエドガーが窓からの月明かりでもキョトンとしているのがよく分かった。
「……お前、話を聞いていたか? 俺は城のエンジンの改良を」
「だからさ、それでセッツァーの飛空艇が気になるんだろ? 同じもの作れば構造も分かるんじゃねえの?」
 エドガーが短く笑った。
「簡単に言うな、あれだけの飛空艇を作るには」
「だって作りたがってたろ」
「……何だって?」
「飛空艇」
 エドガーが瞬きをする。とぼけているのではない様子にマッシュの方が不思議な気分になってきていた。
「……夢だったろ? 飛空艇のメカニック」
 尋ねた声に返事はなかった。
 エドガーの目が見開かれ、完全に表情を固めてしまったのを見てマッシュは戸惑う。
(──あれ?)
 自分は何かおかしなことを言っただろうか? マッシュは幼い頃の記憶を引っ張り出す。

 あれはまだ今の半分くらいの身長だった頃だろうか。
 当時は病弱で寝込むことが多かったマッシュの枕元で、エドガーがよく話をしに来てくれていた。兄はとても話し上手で、体の苦痛を忘れさせてくれた嬉しい時間だった。
 しかし快活に動くエドガーに羨ましさは当然あり、ある日マッシュはぽつりと憧れを零した。
『あにきはいいなあ……おれも元気になりたいな。』
『だいじょうぶだよ、大きくなったらぜったい元気になるよ!』
『そうだといいなあ。おれね、大きくなったらすごくつよくなってモンスターをいっぱいやっつけるのがゆめなんだ。できるかなあ』
『ぜったいできる!』
 力強く手を握ってくれる兄の言葉が嬉しくて、マッシュは聞いてみたくなったのだ。
『あにきは? 大きくなったらなにするの?』
 幼いエドガーは悪戯を考えている時のような笑みを見せて、ナイショだぞ、と前置きしてからマッシュの耳元で囁いた。
『ひくうてい』
『ひくう…てい?』
『うん。このまえばあやに読んでもらったえほんにのってたんだ。むかしはひくうていっていう乗りものがたくさん空をとんでたんだって! おれ、あれをつくって空をとびたい』
『空をとぶの? すごい』
『だろ?』
 下手くそなウインクをしたエドガーは、頬を紅潮させた眩しい笑顔でマッシュに告げた。

 ──おれのゆめはねえ、ひくうていのメカニック!


 記憶の中のエドガーの笑顔と、目の前の大人になったエドガーの表情があまりにミスマッチで、マッシュは空いた手で頭を掻く。  エドガーはしばらくそのまま目を丸くしていたが、少ししてはたと瞬きをした。
「……忘れてた」
 その言葉にマッシュは大いに驚いたが、エドガーの様子からして嘘を言っているようには見えない。忘れていた。まさかとは思ったが本当のようで、マッシュの胸がちくりと痛む。
 自分たちが純粋に夢を見ていられたのはあの頃が最後で、大きくなるにつれて自覚させられた立場の重さにお互い苦しんできた。特に双子とはいえ長兄であるエドガーは、マッシュに比べてかなり時間をかけて心身ともに帝王学を叩き込まれている。
 あの日目を輝かせてエドガーが語った夢は、心の奥底でもうずっと蓋をされて眠っていたのだと思うと、自分がいない十年間でエドガーが進んできた道の険しさを突き付けられたような気がした。
 まだ放心したような顔のエドガーをもう少し胸に引き寄せ、マッシュは髪に顔を埋める。
「思い出したなら作ればいいよ」
「作ればって……、だから、そう簡単には……」
「時間かかってもいいだろ。幾つになったって、夢は叶えられる」
 手の中の柔らかい髪を指に絡ませて優しく握ると、ふふっと胸に暖かい息がかかった。
「……いつになるだろうなあ」
 それはまるで他人事のような、どこか諦めを含んだ淋しい呟きでもあった。
 こんな風に兄は何かを諦め続けて来たのだろうか。マッシュはエドガーを抱き締める。苦しい、と上がる抗議は無視した。
「好きなことやってもいいくらい平和にすりゃいいんだ。そしたら誰にも文句言われない」
「……爺さんになってるかもしれないぞ」
「爺さんでもいいよ。いつになったっていい。俺はずっと兄貴を応援する。ずっと、そばにいるから」
「……マッシュ」
 エドガーが身動ぎをして、マッシュの胸に頬と鼻を摺り寄せてくる。
「夢、か……」
 まさしく夢を見ているようなうっとりとしたエドガーの声は儚げでありながら、先程までとは違う小さな熱を孕んでいることにマッシュは気づいた。
「……追っても、いいのだろうか」
「いいさ」
 確かに芯が産まれた呟きを即座に拾い上げると、また空気が触れてエドガーが笑ったのが分かる。
 ふいにエドガーはがばっと身を起こし、仰向けのままのマッシュの頭を両手で包んで、意味ありげにゆるりと下ろし、こめかみを、耳を、頬を指先で順に撫でて顎を掬い上げた。
 じっと真上から見つめるエドガーの淡い瞳に釘付けになり、動けないでいたマッシュの下唇を、エドガーは摘むように食む。心臓が大きく音を立て、マッシュはごくりと喉を鳴らす。
「あの、兄貴……」
「……ん?」
「その、そういうことすると……また元気になっちゃうんですけど……」
 美しく目を細めた兄の唇が弧を描き、鼻先が触れ合う距離でエドガーは囁いた。
「俺はな、まだ眠りたくないんだよ」
 分かるか? と艶っぽく尋ねられては、分かります、と応える他なかった。





 翌朝の天候も穏やかで、早朝訓練を程々に切り上げたマッシュは最後の食材で朝食を作り、名残惜しさを感じながらも無防備な寝顔に声をかけた。
 目を覚ましたエドガーはいつも通りの様子で、持参していた懐中時計を見ながら手早く帰り支度をする。
 並んだチョコボで帰路につく途中、フードの影から視線を感じたマッシュが顔を向けると、隣のエドガーが優しい笑みでこちらを見ていた。

 止まっていたエドガーの時間が動き始めたのがこの時だったということを、マッシュが知るのはもう数年は後のことだった。