思惟 †浪漫飛行 1†




 さらさらとペンを走らせる右手の甲に、それまで生温いだけだった風から湿り気の抜けた冷気が触れる。
 集中してサインを書き続けていた執務室の主は、その涼やかな感触にふと顔を上げ、背後の窓を振り返った。
 薄く開いた窓の隙間から入り込む風の質が変わっている。日暮れが近いことを察して次に机脇に置かれたゼンマイ式時計を見た。何か考え込むようにちらっと斜め上に見事な碧眼を動かし、ふうと軽いため息をつきながらサインのスピードを上げる。数枚仕上げて束を手に取り、トントンと底辺を卓上に落として揃えてから端に避けた。
 それから左サイドの引き出しを引き、中から厚みのある紙の束を手に取る。先ほどまでサインを続けていた書類とは違い、文字よりも数字が多く書き込まれた何かの図面であろうその紙束の内容をじっと見つめ、パラパラと三枚ほどめくった先で何かを思いついたのか、サインをしていたペンで書き込みを始めた。
 またふわりと風が手の甲を撫でる。緩く結ばれた金色の長い髪の毛先も合わせて揺れた。
 エドガー・ロニ・フィガロ。砂漠の太陽王と呼ばれる彼の執務室は、落ちかかった日差しが覗き込む窓からの熱気で蒸し暑さすら感じる程だったが、エドガーは涼しい顔で眉ひとつ揺らさない。
 熱心に書き込む動きが止まったのはそれからしばらくしてだった。エドガーがおもむろに顔を上げて廊下につながる唯一のドアを見てから数秒後、ノックもなしにそのドアは開け放たれた。
「ただいま」
 同時に飛び込んできた声に驚くことなく、エドガーは「おかえり」と答える。顔を出したのはフードを被った長身の男で、エドガーとよく似た瞳の持ち主だった。
「日暮れに間に合わないかと思ったぞ。ご苦労だったな、マッシュ」
 ペンを置いたエドガーがそう言いながら立ち上がってマッシュを迎えると、マッシュは砂よけのマントをフードごとばさりと外して笑顔を見せる。砂がぱらぱらと落ちたが本人は全く気にしていない。
「外で落としてこいよ」
「ごめん」
 悪いと思っていないような口調で表面だけ謝罪したマッシュは、部屋の端に置かれたソファに丸めるように畳んだマントを投げ、その隣にどかりと腰を下ろす。脱いだマントの下は驚くほど軽装で、逞しく鍛えられた肩が窮屈さから解放されたことを喜んでいるように上下に動いた。
 この執務室の主、フィガロ国王エドガーの弟であるマッシュは、ただ一人ノックもなしに王の居室を訪れる権利を持つ男だった。
「すまんな、ここのところ連日で」
 軽い謝罪を口にしながら茶の準備をしようとしているエドガーに気づき、座ったばかりのマッシュは跳ねるように立ち上がった。
「俺やるよ」
「疲れてるだろう」
「大したことない。書類漬けの兄貴に比べりゃ──って、サボってたな」
 茶器を用意しようとしていたエドガーの傍に寄ろうとして、通り過ぎざまに卓上を見たマッシュは、そこに置かれているのが図面であることに気づいて茶化した声を出す。
「サボってたとは失礼な。ノルマはこなした」
「適当に終わらせてこっちやってたんだろ」
「否めない──じゃない、そんな訳ないだろう」
 呆れたように目を細める兄から茶器と茶葉の缶を受け取り、笑いながらマッシュは言った。
「今からそんなんじゃ作業所が完成したらどうすんだ。城飛び出して入り浸りになるんじゃねえの」
 無骨な指で器用にささやかな茶会の支度をするマッシュを見ながら、エドガーは薄っすら微笑んだ。
「二十年前みたいに?」
「ああ」
 マッシュもエドガーの瞳を見て口角を上げる。
 ──もっとも、二十年前とは城を飛び出す理由が違うけれど。



 二十年前。
 狂える魔導師が壊した世界を取り戻すため、戦いの最先端にいたフィガロの国王は随分と長い間城を留守にした。
 国王不在でよくぞ最後まで持ち堪えたものだとエドガー自身も感嘆する。勿論戦の気配を感じてから何があっても良いようにと準備は進めていたが、城下町が敵国に占領されたり機械仕掛けの城そのものがトラブルを起こしたりとピンチは何度も訪れた。
 若さゆえ無茶もできた。一国の王としては軽率な行動だっただろう。当時の大臣から帰城後しばらく嫌味を聞かされたことを思い出す。
 もっとも死闘の末の勝利の後は、世の混乱を統制するための大きな大きな後始末が待っていた。
 何しろ破壊の限りを尽くした魔導師の手によって都市のいくつかは姿を消していた。まともに機能している国家はフィガロのみ、しかもその国王が魔導師を討った立役者の一人とあっては、残された民衆が世界の再生への期待の眼差しを向けるのも当然のことだった。
 損得抜きの仲間に囲まれ、厳しくも賑やかしい旅の後の大仕事は、戦いとは違う乾いた疲労を伴うもので。
 一国から世界の指導者の立場となったエドガーは、時折懐かしい喧騒に想いを馳せるのだった。



 二十年経ち、蜂蜜色の見事なブロンドにもちらほらと白い絹糸のような髪が混じるようになった。とはいえそれはエドガーの品を損ねるものではなく、白髪の輝きはともすれば彼の美しささえ引き立てているようにも見えた。
 青年期よりは体を動かす機会が減り、激務も相まって細身にはなった。しかし彫りの深くなった碧眼を囲む窪みには年齢と共に威厳が刻まれ、昔のようにお忍びで出かけたとしても要人のそれと分かってしまう迫力があった。
 特にここ十年、マッシュはよく「親父に似てきた」とエドガーに告げた。同じ顔であるマッシュもそうだろうとエドガーが返すと、マッシュは首を横に振った。
 王様の顔だ。誇らしげにそう答えたマッシュは、二十年経っても毎日の鍛錬を欠かさずにいるせいか、エドガーよりも幾分か若く見える。
 戦いが終わってからのマッシュの判断を密かに危惧していたエドガーだったが、マッシュは迷うことなく城にとどまる道を選んだ。
 王弟の立場ではあるものの、王家の政務に関わることは滅多になく、恐らく意図的になのだろう、太陽のような存在感を持ちながらエドガーの陰に徹してきた。
 普段は城の兵士たちの訓練を見たり時には機械の整備を手伝ったり、また月に数日間は自身の修行のために城を出て、新たに建てた修練小屋に篭ったりもしていた。
 幸いこの二十年で世界がひっくり返るような大事件は起こらず、マッシュがその拳を活かせる機会も頻繁にはなかったのだが、マッシュにとっては体を鍛えることがライフワークになっているためやめる気はないようだった。


 エドガーにとって、この強くも優しい弟が二十年傍にいてくれたことは何よりの救いだった。
 周囲からの印象よりもずっと聡い彼は、何も言わなくてもエドガーの気持ちを理解して一番適切な態度を取る最大の味方だったのだ。
 辛いと告げたことはない。疲れた、と呟いたことはあったかもしれない。
 その都度欲しい言葉と見たかった笑顔をくれるマッシュの存在がなければ、道半ばで潰れて腐っていてもおかしくはなかった。
 共に旅をした仲間でもあるマッシュとは、思い出話に花を咲かせることもあった。
 世界を取り戻すための旅の最中であったのだから不謹慎かもしれないが、年齢も性別も身分もバラバラの仲間たちとの生活は王城暮らしのエドガーには酷く砕けた心地良い場所だった。
 それまで城の長として自覚せずとも拘束されていたエドガーが、初めて見る自由がそこにあった。
 あの場所では個の自分でいても咎められることはなかった。
 いつか来る旅の終わりがまだ来なければ、と脳裏を掠めたこともあった。
 戦いの後で城に戻ることを躊躇いはしなかった。
 しかし一度は見た自由の空が、眠っていた幼い頃の夢を優しく突いたのもまた真実だったのだろう。


「もう足場はほぼ組み終わったから、作業所の方はすぐにでも取りかかれるよ」
 ローテーブルを挟んで置かれた二台のソファにそれぞれ腰かけ、エドガーとマッシュは向かい合ってティーカップを手にする。
 マッシュの淹れた茶を口に運び、その香りの良さに満足げな表情を見せたエドガーは、茶菓子を頬張りながら話すマッシュの報告に頷いた。
「囲いと屋根さえあればいいんだ。あそこはサウスフィガロに近いから、雨避けになれば」
「一度修練小屋も建ててるしな、それのでっかい版作りゃいいだろ?」
 大雑把なマッシュの表現にエドガーの頬が柔らかく持ち上がる。マッシュは茶菓子の粉がついた指を小さく舐めて、その手をあごに添えてエドガーに尋ねた。
「それより、前に言ってたドマのなんとかって金属は使えそうなのか?」
「ああ……手配はするつもりだが輸送ルートが確定していなくてな。どうしても使いたいんだが。船便は手続きが面倒だしなあ……建設中の海上鉄道の完成を待つ方がいいかもしれない」
「俺が直接ドマまで行こうか」
「大丈夫だ、そこまでしなくても」
「鉄道待ってたら年跨いじゃうぜ。作業所は一ヶ月で完成させるから、後はいつでも兄貴の好きにできるようにしたいし」
「そんなに急がなくてもいいんだよ、マッシュ。お前の時間が減ってしまう」
「なーに、大工仕事も修行みたいなもんさ!」
 陽に焼けた肌に白い歯が映える。エドガーはマッシュの笑顔を眩しそうに見つめ、卓上から手元へと移した図面の束をカサリと揺らした。
「図面はほぼ完成しているが、……まだ手はつけられないよ。再来月には世界会議だ」
「ああ……、ドマが共和国になってからまだ浅いしなあ」
「各地で新たにできた基盤が定着しつつあるのはいいんだが、人同士が関わる以上何かしら摩擦は生まれる。それでも瓦礫の塔が崩れた直後からは比べようもないがな……」
 エドガーが軽く目を伏せる。過去を思い出して睫毛を微かに揺らす兄を見て、マッシュも何か考えるように目線を横に逸らす。
 一瞬の沈黙の後、マッシュはぐいっとカップの残りを飲み干し、息をついて肩の力を落としてからお代わりを注ぎ始めた。
「よくここまでやったよ、兄貴は」
「俺一人じゃないさ」
「表に立ってたのは兄貴一人だったよ。兄貴が踏ん張ったから世界がまとまったんだ」
 そう言ってマッシュはまたひとつ茶菓子を口に放り込む。渇きだけでなく飢えもあったのかと、弟の仕草に苦笑するフリをしてエドガーは照れを隠した。
「だから」
 一口含んだ茶で菓子を流し込んだマッシュは、ふと兄と同じ碧眼で向かい合って座るエドガーを見据えた。
「兄貴はもう、やりたいようにやっていいんだよ」
 真っ直ぐな瞳にエドガーは瞬きを止める。
 三秒そのまま、それから目を細めて困ったように笑った。
「やりたいように、か」
「そうだよ」
「親父にあの世でどやされるな」
「前に言ったろ、鼻高々だって。親父もおふくろも自慢の息子だって迎えるに決まってる」
 エドガーの眉尻がまた少し下がった。ふっと苦笑いに声が出てしまう。
 エドガーは図面を置いて、浅く腰を上げた。ローテーブルを回るように、向かいにいたマッシュの隣に座り込む。肩に頭を預けると、大きな手が優しく髪を撫でてくれる。エドガーは静かに目を閉じた。
「……図面はほぼできてる」
「うん」
「できるだろうか」
「できるさ」
「行けるかな」
「行こう、一緒に」

 エドガーが手にしていた図面の端にはエドガー自らのサインが記されていた。
 過去の旅で巨大な金属の固まりを宙に浮かせるための動力装置の仕組みを理解し、知識と実績を武器に更に昇華させる技術を手に入れ、スピードとパワー不足を避けるため計算上できる限りの軽量化を図り、後は理想的な素材が揃えば全ての環境が整う。
 心血を注いだ図面に命を吹き込み、組み立てに時間はかかるだろうが──子供の頃に夢を見た、大空を駆ける飛空艇をこの手で作り出せる。もう、間もなく。ついに手がけることができる──


 歪んだ世界の生命線を真っ直ぐに戻せたら。
 全うしたと確信できるまで力を尽くしたら。
 夢を追っても良いのだろうかと、かつて独り言のように零した夜の躊躇いを、掬い上げてくれたのはやはり弟だった。
 あの夜から、エドガーの胸に燻っていた熱が確かに息を吹き返したのだ。


 窓から吹き込む風はすっかり冷え、室内を照らす光は仄かに橙色を帯びてきた。
 ふわりと垂れた前髪が風に浮いたのを合図に、マッシュの肩に凭れさせていた頭を上げてふっと短い溜息をついたエドガーは、すでに統治者の表情に戻っていた。
 砂漠に夜が来る。立ち上がり真っ直ぐ窓に向かったエドガーが冷たい風を閉め出すと、ガラスに薄っすらと青い炎のような瞳が映し出された。



 フィガロ国王エドガーが彼の代での王政廃止を宣言したのは、それから三年後のことだった。