証跡 †浪漫飛行 1.5†




 使い古された木造の作業台の上に愛用の工具を並べ、そのうちのひとつを手に取ったエドガーは左手に握る機械の最後のネジを慎重に締める。
 眼鏡をかけていながらなお目を細め、息を殺して締め上げたそれが満足いく状態となったのか、手を下ろしたエドガーは肩の力を抜いて心地よさげに溜息をついた。
 丁度その瞬間に作業場に繋がるドアがノックもなく開き、顔を出したマッシュがエドガーを見つけて驚きつつもほっとした表情を見せた。
「やっぱりここか。まだそんな格好して……そろそろ支度しないと間に合わないぞ」
 そう急かすマッシュは滅多に袖を通さない式典用の礼服に身を包み、いつも無造作に後ろ髪を縛るだけの髪もエドガーと同じ青のリボンで結ばれ清潔に整えられていた。
 対して作業台に立つエドガーは薄汚れた繋ぎの作業服を着込み、両手にはめている手袋も油の黒いシミが滲んでいる。ちらほら白髪の覗く長い金髪を頸よりも高い位置で結び、銀縁の眼鏡をかけたその様子は一国の王と言うよりはメカニックそのものだった。
「もうそんな時間か。区切りのいい時で良かった」
「ちょっと暇できたらすぐここだもんな。何? ボウガン?」
「ああ、改良がおおむね終わった。持ってみろ」
 エドガーが差し出すオートボウガンは、マッシュが知るそれよりもひと回り、いやふた回りは小さく見えた。手渡されたボウガンを手にした時、その重みを受け止める準備を無意識にしていたマッシュは、手のひらに乗せられたそれのあまりの軽さに驚いて目を丸くする。
「軽い」
「だろ」
 エドガーはにやりと笑い、再びマッシュからボウガンを受け取って、おもむろに右手に構えた。作業場の奥の壁に立てかけられた的に向けて、片目を細めたエドガーが引き金を引くと、数本の矢が鋭く放たれる。的のほぼ中央に同間隔でめり込んだ矢の、風を切る音も板を貫く威力も、以前肩に担いでいたものに比べて損なわれていないように見えた。マッシュは賞賛の口笛を吹く。
「矢が飛び出す時に回転を加えて速度と攻撃力を保てるよう改造した。これなら今の俺でも使える」
「……そうだな」
 やや自嘲気味に微笑むエドガーの肩に手を置き、マッシュも優しく笑った。
 かつて軽々と構えてきたエドガーの愛する重量級の機械たちは、今はそのどれもが肩に担ぐには荷の重い存在になっていた。二十代の頃に比べて明らかに筋肉が落ち体の小さくなったエドガーは、政務の合間を縫って少しずつ愛機の改良を続けていた。
「では行くか。なに、俺はお前と違って化けるのに時間はかからん」
「言ってくれるぜ……早く脱ぎたくて仕方ない」
 二人は笑って作業場を後にする。
 八月十六日。
 エドガーがフィガロの国王として迎える最後の誕生日だった。


 水晶のついた華やかな髪飾りといつものリボンで長い金髪を二段に結び、裾に金房のついたフィガロブルーと呼ばれる青いマントを羽織るエドガーは、鏡の前で自らが纏う艶やかな色彩の腰布に苦笑した。
「随分豪奢な刺繍だな。これでは私が負けてしまいそうだ」
「とんでもない、よくお似合いですわ、陛下」
 エドガーの着替えを手伝った女官長は微笑み、しかしすぐに唇を震わせやがて手で顔を覆った。国王お抱えの御針子としても長くエドガーに仕えてきた彼女はこれが最後の誕生祝賀式典となることを理解しており、憂う女官長の肩にエドガーは優しく手をかける。
「私のために泣いてはいけないよ。涙は大切な家族のために取っておきなさい」
「も、申し訳ございません、陛下」
「毎年式典の衣装を着るのを楽しみにしていた。ありがとう」
「私などに勿体無い……陛下、陛下、何卒ご健勝であらせられますよう」
「今生の別れのようだな。早々に私を城から追い出そうとしているのではあるまいね?」
「とんでもございません!」
 顔を真っ赤にして否定する女官長を揶揄うエドガーが高らかに笑った時、コンコンとノックの音が室内に響く。
「どうぞ」
 エドガーの呼びかけで扉が開き、現れた女官がお辞儀をして恐れながら、と要件を述べ始めた。
 女官の伝えた内容にエドガーは訝しげに眉を顰め、今行こう、と答えてマントを翻す。
 その威厳に満ちた王の背中で女官長が再び泣き伏したことに気づいていたが、エドガーは振り返らずに部屋を出た。

 伝え聞いた広間に足を向けると、数人の臣下や大臣、そしてマッシュもそこに集まっており、彼らの視線の先には分厚く薄汚れた白い布で包まれた一枚の板のようなものが壁に立てかけられていた。高さは女性の背ほどもあるだろうか、決して小さなものではない。
 靴音で気づいたのか、マッシュが振り返ってエドガーを認めた。
「兄貴」
 マッシュの声にその場にいた人々が一斉にエドガーに目を向け、その堂々たる姿に感嘆の息をついた。空気が変わり、王を敬うため頭を下げる臣下にエドガーは手を一振りして緊張を解いて、マントを靡かせながら足早にマッシュの横へと並ぶ。
 エドガーを見たマッシュが僅かに頬を紅潮させて誇らしげに眉を持ち上げた。
「さすがの貫禄だな」
「うまく化けただろう?」
 エドガーのウインクにマッシュは素直に頷いて微笑を浮かべる。
「あれか? 城に届けられたものとは」
「ああ、ついさっきだって。俺も今呼ばれて来たから中身はまだ見てないけど」
「ふむ」
 エドガーとマッシュの二人を宛名に城に届けられたその大きなものは、ただ厳重に布に包まれているのみで装飾などは見られない。フィガロの国王と王弟の誕生日とあって各地から続々と贈り物が届いてはいるが、成程それらに比べて確かに異質な存在だった。
「絵画のようだな」
 エドガーが足を進めると海が割れるように臣下が道を開ける。目の前に現れた絵と思しきものの前に立ち、エドガーは首を傾げた。
「差出人がないと?」
 傍らの大臣に尋ねると、大臣は頭を垂れて答えた。
「はい、記載がなくこのように大きなものですので処分させようとしていたのですが」
 エドガーは軽く膝をつき、布の下部に無造作に貼り付けられた宛名を覗いて眉を顰めた。
 エドガー・ロニ・フィガロ。マッシュの名前と並んで書かれたエドガーの名前のみ、対外的には公表していない、国内でも限られた者しか知ることのないミドルネームが記されていた。
 エドガーはこの場に腹心が集まった上で自分が呼ばれた理由を理解し、怪訝な表情のまま立ち上がる。
「開いてくれ」
 エドガーが命ずると、二人の臣下が両側から厚みのある布を剥がしていく。何重にも巻かれたその包みが少しずつ解かれていき、表面を覆う最後の部分が取り払われた時、現れたその姿にエドガーは言葉を失った。
 おお、と臣下たちからどよめきが上がる。マッシュも身を乗り出してエドガーの横で目を見開いた。
 そこに描かれていたのは二人の戦士だった。
 赤黒い空を背に土煙の舞う瓦礫の中、長い髪を振り乱しオートボウガンを構えて何かを睨むエドガーと、拳を握り腰を落として咆哮しているマッシュ。若かりし頃の二人が泥と血に汚れて今まさに眼前の敵を捉えた瞬間だった。
 雄々しくも荒々しい黒の色彩が際立つその油絵は、暗い色味であるというのに何故か光が射して見えた。溢れるような生命力の眩さが凶暴なほどに見る者を圧倒する。エドガーは唇を戦慄かせ、かつての自分たちの姿に瞠目した。
 絵画の右端に白く小さなサインが記されている。──Relm.の文字にマッシュが口早に呟いた。
「リルムだ」
 リルム、とエドガーも口の中で繰り返す。
 いつかロックから伝え聞いた、世界中をスケッチしたいという夢を抱いて巡っていた旅先で出逢った男性と結婚し、今は一児の母となっているというリルム。もう何年も顔を合わせていない、彼女にもエドガー退位の一報は伝わったのかもしれない。今日のこの日にこれだけの絵を仕上げて送ってくれた──友からのメッセージ。
「……素晴らしい」
 エドガーは瞬きを忘れて絵画に見入った。
「生きているようだ」
 壊れた世界を邁進した過去の日々が蘇る。
 血生臭い風のにおいと耳を裂く轟音、迸る魔力の閃光が怪しくも華々しく光る世界の中を、確かにこの脚で駆け抜けた。
「生きている」
 思わず熱くなる目頭を押さえ、エドガーはぼやけた視界の中で絵画の二人の周りに集う仲間たちの姿を見た。年齢も性別も身分も超えた、強い絆で結ばれた仲間たちとの懐かしい日々。苦しくも賑やかな胸踊る旅だった──感極まりそれきり言葉を失ったエドガーが肩に手を置かれて振り向くと、同じように目を潤ませたマッシュが微笑んでいる。
 エドガーもほろ苦く笑い、さっと指先で目元を拭って大臣に振り返った。
「古い友人からの贈り物だ。心配ない」
 そしてマッシュに向き直る。
「マッシュ、絵を運んでくれ」
 マッシュが軽く首を傾げた。
「肖像の間に飾る」
 エドガーの言葉に忠臣たちはざわついた。
 先ほど布を解いた臣下が歩み出た。
「陛下、それでしたら我々が」
「いや、私とマッシュだけでいい。……式典までには戻る」  エドガーが目でマッシュを促すと、頷いたマッシュは大きな絵画を軽々と、しかし大切に抱えて持ち上げた。
 先を行くエドガーにマッシュも続き、二人が消えた後も広間はしばらくざわめきが治まらなかった。


 式典が行われる大広間から離れた回廊は灯りが乏しく薄暗い。ランプを手にして迷わず進むエドガーは、行く先に現れた重厚な扉の前で立ち止まった。後ろにいるマッシュを確かめて把手に触れる。
 僅かに軋む音を立てて重いドアが開くと、中もまた薄暗くひっそりとしていた。エドガーがランプを掲げると、細長く作られた部屋の壁にずらりと人物画が並んでいるのがぼんやり浮かび上がる。
 エドガーは扉に一番近い壁の絵画を見上げ、そこに描かれた人物に黙礼する。後に続くマッシュもエドガーに倣った。そこから並ぶ絵画を追って一人一人に頭を垂れ、一歩一歩歩みを進めて行く。
 初代のフィガロ国王を始めとする歴代の王と王妃の肖像画が並ぶ肖像の間は、エドガーにとって特別な場所だった。かつてこの地を統治してきた先祖の目が自分を見定めているように感じる重く息苦しい場所でもあり、最愛の父と母に逢うことのできる安息の場所でもあった。
 エドガーの足が止まる。先王である父の肖像画の隣で母もまた儚げに微笑んでいた。親父、と背後のマッシュが呟く。
 エドガーは二人の絵画に深く頭を垂れ、姿勢を正して首を横に向ける。そこには即位して間もない頃のエドガーの絵画が飾られていた。
 まだ幼さの残る顔立ちで、髪に飾られた装飾品や襟の華美な刺繍に負けまいと瞳が鋭く細められている。若すぎる王と揶揄され虚勢を張り通しだった当時の自分を思い出し、エドガーは懐かしさに微笑した。
「マッシュ、これを外してくれないか」
 マッシュはエドガーと絵画を交互に見つめて問う。
「いいのか」
「いいんだ。もう荷を下ろしてやろう」
 絵の中でこちらを睨む若い瞳を労わるように見つめたエドガーの、独り言のような小さな声がぽつりと落ちた。
「……重かったろう」
 エドガーの呟きを聞き届けたマッシュはリルムの絵をそっと壁に立てかけ、次いで壁にかけられていたエドガーの絵画に手を伸ばす。カタ、と小さな音と共に絵画は外され、無機質の石壁が露わになった。
 マッシュがもう一度エドガーを見る。エドガーもまた頷く。その最後の確認の後、マッシュはリルムの絵を手に取ってエドガーの絵画があった場所にそっと飾った。
 居並ぶ肖像画より一回り以上も大きいその絵画の迫力にエドガーは苦笑する。
「お前も入っているからな。二人分ってことで勘弁してもらおう」
「良かったのか? ここの肖像画は全部お抱えの宮廷画家が描いたやつだろ?」
「美しい絵も悪くはないが、どうせなら後世の人々に真実を知ってもらおうじゃないか」
 エドガーは自分たちが描かれた絵画の額縁に指先を伸ばし、愛おしそうにそっと触れた。
「この薄汚れた泥臭い姿こそが俺の、俺たちの治政だった。俺たちが城を出てもこの絵が証になる──確かにこの地に俺とお前が生きていたと」
 穏やかに微笑んで絵画を眺めるエドガーは、凪いだ湖面のように澄んだ目をしていた。その横顔を見ていたマッシュも絵画に目を向け、感慨深げに目を細める。
「うん。……いい絵だな」
「ああ。素晴らしいバースデープレゼントだ」
 エドガーはそして視線を巡らし、父と母の絵画を見た。コツリと靴音を鳴らし、先王と王妃の絵画の正面に立つと、エドガーはしばし押し黙る。
 父と母の瞳がエドガーとマッシュを静かに見下ろしている。記憶の中の輪郭が随分と朧げになってきた父、絵画でしか姿を知らない母。分かるのは、絵画と同じく現実に生きた両親が厳しくも優しい眼差しで二人を見守ってくれていたということ。
 エドガーはランプを床に置き、その手を胸に当てた。
「──父上、母上。」
 呼びかけに答える声は当然ない。しかしエドガーは一呼吸置いて、まるで絵画の中の両親と会話しているかのようなタイミングで言葉を続けた。
「私の代でフィガロ王家の治世は途絶え、二百年以上続いた王政の歴史は終わりを迎えます」
 絵画は沈黙する。エドガーは父からの言葉を、聞こえることのない答えを待ち、苦く微笑んだ。
「……お叱りはそちらに伺った時に何なりとお受け致します──ですが」
 エドガーは一度俯き、力強く顔を上げた。
「ですが人在る限り、志は消えません」
 無言の絵画に訴えるエドガーの青い瞳の中で、ランプの薄明かりが炎のように揺れた。
「道を託した後人がより豊かな未来を目指すでしょう……たとえ形は変わろうとも。私の決断がフィガロの、世界の礎となることを信じます」
 エドガーはやおら片膝をつき頭を垂れた。隣にいたマッシュもまた跪き、エドガーと同じく胸に手を当て頭を垂れる。
「この砂漠に、永劫の幸あらんことを……」
 祈りの言葉を呟き、エドガーは目を閉じた。
 静寂に包まれた肖像の間の片隅で二人は身動ぎせずにそうしていた。一瞬のようにも、永遠と紛うような長い時間にも感じられた。
 エドガーが頭を上げようとした時、先に隣のマッシュが跪いたまま顔を上げた気配がした。そして、
「……ロニは、最後まで俺が守ります」
 確かに聞こえた呟きに、一度目を見開いたエドガーは次いで睫毛を伏せて微笑する。
 ランプを手にし、エドガーは立ち上がって足に纏わりつくマントを優雅に捌いた。
「行こう。マッシュ」
 マッシュも立ち上がり、先ほど外した若きエドガーの絵画を手にして頷く。エドガーが先を行き、マッシュは後に続く。コツコツと響く靴音が止まり、部屋を出る扉の前で二人はもう一度振り返った。
 並ぶ肖像画の末端に据えられた戦士たちの絵画は、この空間に酷く不似合いなようでいて他のどの絵より際立ち、先人たちに鮮やかに溶け込んでいた。
「……さあ、最後の式典だ。国民に顔を見せねば。サウスフィガロの祭は盛況だそうだ」
 エドガーの言葉にマッシュも口角を上げる。
「それはいいな」
「最後だからな、派手に行こう」
 エドガーは把手に手をかけ、力を込める寸前にマッシュを振り向き口を開いた。
「誕生日おめでとう、マッシュ」
 マッシュが優しく目を細めて応える。
「誕生日おめでとう、兄貴」
 二人の姿は部屋の外に消え、軋む音と共に扉は閉まる。
 部屋に残る絵画たちは闇に黙し、しかし次に訪れる人に雄弁に語りかける時をひたむきに待つのだった。