砂漠が途切れてちらほらと草原が表れる場所にそれはいた。 外板は眩しいほどの太陽に照りつけられ、この国ではフィガロブルーと呼ばれる澄んだ青色を光らせている。 流線形のフォルムはかつての友が操った二艇の飛空艇よりやや小さめだが、それでも全長百メートル近くはある。 尾翼に描かれたのは今は亡き王家の紋章。 自らの手で造り上げた飛空艇を眼前に、旅装束のエドガーは長い髪を風に靡かせて唇を引き締めた。 砂利混じりの大地を踏みしめ、すでに下りているタラップに向かう。 全ての準備は整った。空は快晴、風も良好、初飛行にはもってこいの天候。 胸の音が足音を追い越していく。らしくない、緊張しているのか──エドガーは軽く握った拳をそっと胸の真ん中に当て、タラップの一段目に足をかける。 ふいに風が巻き上がり、エドガーは思わず振り返った。 懐かしい砂漠は遠くにあり、地平線を黄金色に染めている。 どくりと心臓が大きく震えた。 *** あれは三ヶ月前のこと。 ドマにて開かれた指導者の会合に出席したエドガーは、今は議事堂と呼ばれる古い城の回廊で声をかけられた。 「カイエン」 懐かしい顔にエドガーの声が弾む。 「元気そうだ」 「エドガー殿も、相変わらずお若い」 両手を取り合って正面から合わせた顔には深く皺が刻まれていた。 しかし齢七十を越えてもその眼光は穏やかでいて鋭く、伸びた背筋は老人とは思えない。日々の努力を窺わせた。 「何年ぶりだろう、いつ来てもすれ違っていたから。慰問の旅は終わったのか?」 「いや、拙者が死ぬまで続けるつもりでござる。今回は近くまで来ていたところ、エドガー殿が来られていると噂を聞いて駆けつけた次第」 「ありがとう……会えて嬉しいよ」 心からの言葉を伝えると、カイエンの瞳が細くなり皺の中に消えてしまうようだった。 その優しい瞳がエドガーの青い瞳を敬うように覗き込んだ。 「エドガー殿。決められたのでござるな。」 柔らかい口調だがやけにきっぱりとした物言いに、一瞬エドガーは押し黙る。 しかしすぐにその言葉に思い当たることを見つけ、小さく頷いた。 今から三ヶ月前、エドガーは残り半年で王政を廃止すると宣言した。世界は騒然としたが、王は外野を黙らせるだけの準備を整えていた。 「俺のやるべきことは全てやってきた。後は次の世代に任せるよ」 旧知の友であるカイエンに砕けた口調でそう告げると、カイエンはまた深い皺を見せて微笑む。 「エドガー殿でなければ、世界の混乱は静まらなかったでござろう」 「いやいや、俺だけの力では」 「エドガー殿」 謙遜の言葉を遮ると、カイエンはおもむろに表情を引き締める。驚いたエドガーの眼の前で、カイエンは深々と頭を下げた。 「カイエン、何を」 「自国のみならず各地の復興に尽力なされたご恩は忘れぬ。一度は死んだこの国も貴殿のお陰でここまで立ち直った。感謝の言葉もござらん。──お見事でござった」 「よしてくれ、そんな」 「エドガー殿」 カイエンはまたエドガーの言葉を区切り、再び両の手を取った。力強い握手にエドガーは息を呑む。 「後は自分の道を行きなされ」 *** そして一ヶ月前。 深夜に寝室の窓を叩く悪友に呆れながら、エドガーはなるべく音を出さないように彼を迎え入れてやった。 「相変わらず泥棒の真似事か? 何故明るいうちにドアから来られないんだ」 「泥棒じゃねえって……俺は」 「聞き飽きてる。……久しぶりだ。セリスは元気かい」 月明かりに不敵な笑みを見せた男は、エドガーが伸ばした手をきつく握り返す。 かつて共に旅をした仲間の一人、ロックはエドガーが唯一親友と呼べる男だった。 「城も大分新しい顔が増えただろ。まあ俺はこんななりだし、昼間お前に会うのは面倒が多いんだよ」 「お前の名前は城中の人間が知っているよ。遠慮などしなくていいのに」 「まあ、それは建前な。この方が話しやすいだけだ。──あと一ヶ月だってな。」 王としていられる時間を示したロックに、エドガーはゆっくり瞬きをして、微かに笑みを見せた。 「まあな」 「世界中大騒ぎだったぜ。セリスが号外持って家に飛び込んできた」 「はは、そこまでニュースになるなんて光栄だな」 「マッシュも一緒か?」 鋭く切り込んできたロックにエドガーは肩を竦める。 「それも号外に?」 「そんな訳ねえだろ。……城出て、どこ行くんだよ」 ロックが一番聞きたかったであろうその質問にすぐには答えず、エドガーはロックが先ほど入ってきたそのままの窓の前に立った。 砂漠の夜は寒い。寝所の軽装では風が染みるがエドガーは動かない。 「……もう一度。夢を追ってみる気になったんだ」 「……お前の夢って……」 「秩序を持った国。それも確かに俺の夢だ。だがこのまま王家の血筋を継承させて行くには統べる範囲が大きすぎる……いつか必ず争いが起こる。助けようにもその頃俺は生きちゃいないだろうからな」 「そんで独身貫いたのかよ」 「万が一にも俺に息子がいたら、俺より早くあの世に連れて行かれたかもしれないな」 エドガーの言葉にロックは顔を顰めたが、彼もまた思うところがあったのか反論の声はなかった。 エドガーが茶の準備でもと踵を返そうとするが、ロックは手をひらひらと振って遮る。長居するつもりはないのかと残念そうな顔を見せるエドガーに、ロックは飄々と言った。 「まだ王様だからな。こんな夜中に長々付き合わせて風邪でも引かせたら大変だ」 「そんなにヤワじゃないさ。お前こそこんな時間にやってきて、セリスと子供達は大丈夫なのか?」 「もー今反抗期でつらい」 「ははは」 所帯染みた台詞にエドガーが思わず笑う。 ロックも笑い返し、エドガーの背中を拳でどんと叩いた。おつかれさん、とぶっきらぼうだが優しさのこもった声で労ってくれる。 「……夢追うって言ったな。王様辞めたら、次の夢は?」 「……飛空艇」 「え」 「子供の頃からの夢だった。──セッツァーの飛空艇に乗れたのは幸運だった。お陰でもっと良いエンジンに改良できた」 目を丸くしていたロックがぽかんと開いた唇の端が微かに震え、そのまま頬が緩んで少年のような笑顔に変わる。 エドガーもまた、不敵に微笑んだ。 「空であいつと会うかもな」 「後ろから追い抜いてびっくりさせてやろうか」 「子供も乗せてやりたい……あの空を見せたい」 「……オーケー。必ず会いに行こう」 ロックが手を差し出す。エドガーは力強く握り返した。 じっとエドガーの目を見つめたロックが、ぼそりと呟いた。 「……お前は充分すぎるくらいよくやったよ」 そうしてロックは身を翻した。エドガーがマッシュに会っていかないかと声をかけたが、二人揃って会いに来るのを待っていると残して、再び窓から闇に消えてしまった。 エドガーは冷たい風が吹く闇の向こうをしばらく見つめていた。 彼なりの門出への祝いの言葉を噛み締めながら。 *** 見つめる大地の向こう、風が巻き上げている琥珀の砂が靄のようにふわふわと浮かぶのを碧眼に焼き付けて、エドガーは祈りの言葉を呟く。 祈りと別れの言葉を。産まれた土地。重々しい城の門戸、真紅の絨毯、機関室で回転する歯車の音、愛する両親の肖像画。 帰る場所がなくなったことに後悔はないが、残してきた人々を思うと未来を願わずにいられない。 後ろ髪引かれるのは、確かにこの土地を愛していたから。命をかけて守り抜いた場所だから。 それでも。 「兄貴! 準備できたぜ!」 見上げると太陽の光を背にしたマッシュがタラップの上から真っ直ぐエドガーに手を伸ばしていた。 エドガーはにやりと笑う。 かつて呼ばれた太陽王という名前は捨てた。 しかしすぐそばにこんなに眩しい太陽の加護がある。 伸ばされたその手を強く握り締め、エドガーは軽やかにタラップを上り切った。 サウスフィガロの洞窟に程近い草原に作られた作業所。飛空艇の完成までに三年かかった。 齢はついに亡き父の享年を超え、初老と呼ばれる頃になってしまったが、かつてない胸の高揚は確かにエドガーに若さを取り戻させていた。 「テスト飛行では高度を低く保ったから、上げたらどうなるかだな」 エドガーは操縦装置のレバーをカチカチと上下させ、指先の感覚を確かめるように手袋をきつくはめ直した。 隣のマッシュもエドガーの指示通りに機内の数値を確認し、逆に邪魔だと手袋を脱いでしまう。 「大丈夫だろ。兄貴が作ったんだ」 「だといいが。この世でセッツァーに会えるよう祈っててくれ」 「俺は兄貴に命預けてる。祈りは必要ない」 迷いのない目できっぱりと答えられ、エドガーは降参するように両手を軽く持ち上げた。 「では……行くぞ」 「了解」 エドガーの指が最後のレバーを弾く。その手で舵をしっかりと握り、来る衝撃に足幅を広げて構えた。 機体が小刻みに震え、足裏から伝わる振動でエドガーとマッシュの体も揺れる。心臓は早鐘を打ち、体の内側からも外側からも揺さぶられてエドガーは背中が汗ばむのを感じた。 地面を引きずるようなガリガリとした感覚は、やがてふわんと網に掬い取られたかのように空中で弾んだ。 体が斜めに傾く。重力で背後に引っ張られる。空を目指して飛空艇は上昇を続けた。マッシュは壁に備え付けた手すりを握り、エドガーは前傾姿勢で舵を掴んで目の前の空を睨みつけた。 飛べ。 小さな呟きは風の音に掻き消された。 ごう、と耳の横を白い靄が走り抜け、エドガーの長い髪が竜のようにうねりはためく。 この風の圧力には覚えがあった。 懐かしの空は青い。雲を突き抜けて速度を増していく。 もっと行ける、もっと、もっと。 青い空を切り裂いて、風に混じってフィガロブルーの船体が唸りを上げる。 見下ろせば砂漠があんなに遠い。振り向けば海が広がる。見上げた空に負けない青い青い瞳は、光を受けた水面のようにきらきらと輝いていた。 ふとエドガーが隣を振り向くと、同じように頬を紅潮させたマッシュがエドガーを見ていた。 風を受けてすっかり乾いている唇を半開きにして、間の抜けた笑顔になっている。恐らく自分も全く同じ顔をしている──そう思うと可笑しくて、愛しくてたまらなかった。 「──マッシュ!」 けして遠くない位置にいるマッシュへ、風の音に負けないよう声を張り上げた。 「マッシュ! おれは、」 頬を裂く風の後押しを味方にして、腹の底から声を贈る。 「……産まれてきて良かった!」 マッシュは目を見開いて、それから十代の少年のように屈託のない顔で怒鳴り返してきた。 「俺も! 兄貴と一緒に産まれて、良かった!」 その表情は確かに子供の頃に見たそれと一緒で、エドガーは吹き出した。 そしてお互い半歩摺り足で歩み寄り、エドガーは左手を、マッシュは右手を伸ばしてしっかりと握り合った。 「さあ加速するぞ。フィガロ王国の機械の力を見せてやる」 同じ顔をした二人は、吸い込まれるように青い空を駆け抜けていった。 砂漠の城フィガロから王が消えた日、二人きりの旅立ちを見送った作業所はシンと静まり返り、飛空艇の影も空に消えて見えなくなっていた。 |