日暮れ近くにエンジンルームから出て来たエドガーは満足げな表情で手袋を外し、額の汗を拭った。ドア付近の共用スペースで腕立て伏せの途中だったマッシュは、体を起こして兄を出迎えた。 「どう? 問題ない?」 「ああ、昨日から飛びっぱなしだったから消耗がどの程度か不安はあったが……軽い調整で済んだ。耐久性は悪くなさそうだ」 「さすが」 マッシュが上げた手をエドガーは叩いて返し、二人は微笑みで一日の労をねぎらい合った。 初飛行を果たして初めて迎える陸での夜は、たった一日と少ししか空にいなかったと言うのに浮遊感のなさが違和感となっており、エドガーもマッシュも苦笑気味に休息を楽しむ。 共用の談話スペースに備え付けたカウンターテーブルに琥珀色のアルコールを用意して、舐めるように嗜みながら隣り合って座る二人は、心地良い疲れに満たされた顔をしていた。 「疲れたか?」 エドガーの問いにマッシュは首を横に振る。 「いや」 「だろうな。」 分かりきっていたとばかりにエドガーは笑い、軽く天を仰いでふうっと長めに息を吐いた。 「俺は少し疲れた」 マッシュがグラスに唇をつけながらエドガーを見る。疲れたと口にしたエドガーは、その割に疲労の色を見せずに実に晴れやかな横顔だった。 「こんなに心地良く疲れたのは何年振りか……いや、何十年振りだろうな」 エドガーの言葉にマッシュは静かに口角を上げ、そうだな、と肯定する。 城にいた頃、内向きの仕事が多くなり外遊も徐々に自分以外の腹心に任せるようになっていたエドガーは、思考の疲れはあっても肉体的には物足りなさを感じていたはずだった。かつては剣や槍を手にして気まぐれにマッシュと手合わせもしていたが、ここ十年ほどは全く訓練場に姿を見せることはなく、エドガーは少し背が縮んだ気がすると零していた。 勿論それでも同じ年頃の男性に比べれば随分とすっきりしたスタイルを保っているのだが、若い頃のように重量級の機械を担げなくなった寂しさはあるのだろう。念のためにと持参して来た武器の類はかつて帝国や魔導師と戦った当時の機械よりも一回り以上は小さく、それでも同タイプのものを選んで揃えて来ていた。片手でも引けるように改良されたオートボウガンは威力から想像できないほど軽い。これなら今の俺でも使える、と少し自嘲気味に笑っていたエドガーを思い出してマッシュは軽く目を伏せた。 「最近は夜が更ければ眠らないと持たなかったんだがな。不思議と眠くならない……まだ興奮が冷めていないのかな」 「アドレナリン出まくってるのかもな。大丈夫、顔色も悪くない。無茶したらちゃんと俺が止めるから」 「頼むぞ」 エドガーが屈託無く笑う。アルコールでほんのり赤らんだ頬がランプの灯りに照らされて、その鮮やかな色をマッシュは愛おしげに眺めた。 「兄貴」 ふと、マッシュがカウンターに置かれていたエドガーの手の甲に自分の手を重ねた。エドガーが顔を向ける。優しい目をしたマッシュは、静かな口調で、しかしはっきりと告げる。 「久しぶりに、したい。……ダメかな」 エドガーが小さく息を飲むのが分かった。 それからエドガーは少し視線を揺らし、マッシュから目を逸らして困ったように笑う。 「……萎えるぞ」 「萎えないよ」 迷わず答えるマッシュにエドガーは笑いながら更に眉を垂らした。 「しばらく見てないだろう、俺の体」 「うん」 「お前に幻滅されたくない」 「する訳ないだろ」 エドガーの頬が酔いとは違う赤でほんのり染まる。 マッシュが握る手をエドガーは振り解こうとはしない。エドガーが心から拒否をしている訳ではないのはマッシュにも分かっていた。 「兄貴が躊躇う理由は俺にとってはなんて事ない。今凄く、抱きたくなったんだ。……どうしても嫌なら、しないよ」 マッシュの声は飽くまで優しく、強要や見限りは微塵も含まれてはいない。エドガーはしばらくグラスを浸す琥珀色を見つめていたが、やがてゆっくり顔を向けてマッシュの目を見つめ、小さく首を横に振って照れ臭そうに微笑んだ。 「……ダメじゃ、ない」 マッシュは目を細め、カウンターを支えに身を乗り出してエドガーに顔を近づける。エドガーの長い睫毛が伏せられたとほぼ同時に、唇がゆっくりと重なった。 シーツに波を描いて臥せている白髪混じりのブロンドの束を掬い取り、マッシュは優しく口づける。 「灯り、消してくれ」 掠れた声で請うエドガーを見下ろし、その不安に揺らぐ青い瞳を覗き込んでマッシュは小さく呟いた。 「……兄貴は、幾つになっても綺麗だ」 それでもエドガーの願い通りに枕元のランプに手を伸ばし、寝室は闇を迎える。手探りでエドガーの頬を包んだマッシュは、少し乾いた唇に恭しく口付けて口内に舌を落とした。エドガーの舌もその動きに応えてくれる。 撫でた胸は確かに痩せて肋骨の感触があった。しかしそれはマッシュにとってエドガーの魅力を損なう理由にはならなかった。 下肢に手を伸ばすとエドガーの体が硬くなったのが分かった。無理もない、もう数年触れていない──マッシュは決して急がずに心ごとエドガーを解していく。 年を重ねるにつれて自然と夜の行為は減り、最後に体を合わせたのはもう何年前か朧気ではっきりとは思い出せない。互いに興味がなくなった訳ではなく、想いの強さは変わらないどころか初めて自覚した時よりもずっと増え続けているのだが、恐らくはエドガーが自らに引け目を感じ始めた頃からそういうことを避けるようになっていた。 マッシュは一度たりともエドガーが以前の彼より見劣りすると思ったことはない。しかしそれをどれだけ言葉で伝えようとエドガーが納得するはずがないのは分かっていたので、ただ黙って傍にいた。それが、空を睨み髪を靡かせ自信に満ちた碧眼の輝きを見た時、無性に愛しさが抑えきれなくなったのだ。エドガーの全てを強く愛したいと体の奥が昂りを感じた。 丹念に解したとはいえ何年もマッシュを受け入れていないその場所に、一瞬自身を添えるのをマッシュは躊躇った。無理はさせたくない、と動きを止めたマッシュを察したのか、エドガーが手を伸ばしてマッシュの頬に触れる。 大丈夫だ、と吐息混じりの囁きが聞こえ、マッシュは意を決して腰を進める。エドガーが小さく呻いた。無茶をしないよう、息を詰めながらゆっくりと動く。エドガーの呼吸に甘い響きが含み始める。 緩く腰を打ち付けると僅かに声が嬌声となって漏れ出た。マッシュは汗で額に張り付いたエドガーの髪に手探りで触れ、柔らかく掻き上げてやる。その湿った額にキスを落とし、瞼に、頬に、最後に唇に愛おしげに口付けて、少しずつ腰の動きを早めていった。 エドガーの呼吸の感覚が短くなり、弱々しく伸びてきた両手がマッシュの頬に触れる。その頃には闇にも目が慣れ、窓からの星明かりで暗く澄んだ青の瞳を判別できるようになっていたマッシュは、それが潤んでいることに気づいてはっとした。 「……お前こそ……、マッシュ……」 荒い呼吸の合間にエドガーが声を絞り出す。 「お前こそ、年を取っても……いつまでも、変わらずにいい男で……」 マッシュの頬を掴むエドガーの指先に力が籠る。マッシュはエドガーの両の瞳から転がり落ちる水滴に瞠目した。 「とうとう、最後まで……、手を、離せなかっ……た」 マッシュの目が大きく見開かれ、その眉根が驚愕に寄せられる。エドガーの腰を支えていた手に力が入る。 「……兄貴が離しても俺が離れなかった」 「……うん……、だから、俺は欲に負けたんだ」 「兄貴」 「空も……お前も、どちらも手離せなかった」 エドガーの目が眩しそうに細められる。包んでいたマッシュの頬を愛おしそうに撫で、切ない微笑を作り出す目尻から再び雫が滑り落ちた。 「……お前まで地獄に巻き込んでしまうな」 マッシュは苦しげに眉を震わせ、その瞳もまた薄っすらと水を湛えて小さく首を横に振る。 「兄貴と一緒なら、地獄で構わない」 「……うん」 「ずっと一緒だ。……俺たち、産まれた時から一緒だったんだから」 「……うん……」 エドガーがくいとマッシュの顔を引き寄せ、その唇に自らの唇を押し当てる。重ねるだけのキスをして、離れた後のエドガーの目は淡くも確かな光が宿っていた。 「行けるところまで行くぞ。もう俺は離してやれん」 その迷いを捨てた微笑みに、マッシュは無限に広がる空を見た。 少しだけ眉を下げ、それでもしっかりと微笑み返したマッシュは、腕の中の愛しい人を優しく強く抱き締めた。 ──離れない、離さない。 砂に産まれて太陽を受け、いつも一緒に時を刻んだ。離れてからも互いを思い、再び会ったその時から青の瞳には常にもう一人の自分が映っていた。 引き寄せられて抱き合えば、二度と道を分かつことができない。 それは定めに等しいのだ、だって元々ひとつだったのだから…… 汗ばんだ体を横たえて、肩に触れる髪を指で梳く。明日も早いぞ、と揶揄うように笑った愛する人は、隣で静かに寝息を立てている。 恐れるものは何もない。マッシュは胸の高鳴りを宥め、また明日から始まる未来のために体を休めるべく目を閉じる。 空へ行こう。限りない空へ。 |