懐慕 †浪漫飛行 3†




 ごうごうと風が騒ぐ昼前、濡れたシーツが煽られるのに手を焼きながら、なんとか最後の一枚を干し終える。
 ひと仕事を終え息をつき、はためく白いシーツを見上げながら捲り上げていた両袖を下ろすと、肩から垂れ落ちる長い金髪の毛先を小気味好く背中に跳ね除けた。
 今日は天気が良い。ちらほらと点在する質素な家々の前には同じように洗濯物が風に揺れ、その周りで談笑する村人や草花を摘んで遊ぶ子供たちが長閑な日差しを楽しんでいた。
 風でめくれ上がるスカートと格闘しながら、空になったカゴを抱えて家の中に戻ろうと踵を返した時、
「かっ……かあちゃーん!」
 聞き慣れた息子の声に振り向く。村の入り口で遊んでいたはずの息子が、ふわふわしたライトブロンドの髪をぴょんぴょん跳ねさせて血相を変えてこちらに向かって駆けてくる。
 どうしたの、と尋ねるより早く、息子がタックルするように腰めがけて突っ込んで来た。一瞬息が止まりかけて思わずゲンコツを振り下ろす。
「いでっ」
「こっちの台詞よ! どうしたの、何騒いでるの」
 頭を押さえて涙目になっていた息子は、はっとして北東の空を指す。
「なんか、デカい鳥! 雲よりデカい鳥が来たって、ばーちゃんたちが騒いでた!」
「デカい鳥……?」
 示された空に目を凝らすと、確かに何か巨大なものが雲の流れに逆らって村へと近づいてくる。
 太陽を背負う黒い点。これだけ距離があるのに肉眼で見えるほどの大きさの鳥は知らない。
 何かのモンスターかと思わず息子を背後に庇うが、近づくにつれてそれは生き物ではなく人工物だということがはっきりしてきた。気嚢に貼り合わされた外板に金属と思しき支柱。回転するプロペラが見える。──飛空艇。口の中で呟いた。
 すぐに頭に浮かんだのは昔馴染みのギャンブラーだが、記憶の中の飛空艇とはフォルムが違う。真っ直ぐ近づいてくるそれの目的地は明らかにここと予測できた。
 傷だらけの彼が新たな飛空艇を入手したのだろうか? でも何故この寂れた元魔導士の村へ?
 気づけば村中と言っていいほどの人間が外に出て空を見守っていた。飛空艇を見たことがない者がほとんどで、誰かが騒ぎ出せば村がパニックになるかもしれない──周囲を安心させようと言葉を探しかけて、ふと太陽の光に逸れてこれまで黒としか見えなかった機体の外板に鮮やかな青を見た瞬間、貼り付けられたように動きが止まる。

 あの色には見覚えがある。

 かつて共に戦った、前衛で奇妙な機械を豪快に抱えてモンスターから庇ってくれた──あの美しいハニーブロンドに踊る二つのリボン。翻るマントの鮮やかな青。
 彼の瞳と同じ澄んだ水のような青い色。
 あの色の名前を彼は何と呼んでいたのだったか……

 風の音よりも飛空艇が発する動力音の方が大きく響き始め、村の人間たちが揃って見上げる中、飛空艇は村の入り口から数十メートル離れた草原に僅かな地響きと共に着陸した。
 心臓がどくどくと暴れ、思わず手にしていたカゴを投げ出す。驚く息子の背中をぐいっと押し、
「おじいちゃんに知らせて!」
 返事も聞かずに駆け出した。
 まさか、まさか、まさか。
 驚きに固まる村人たちをすり抜けて、村の入り口まで走り抜けたところで足が止まる。
 飛空艇からこちらに向かってくるふたつの輪郭。上背の大きな、旅装束の地味なマントを風に靡かせて、ゆったり歩いてくる二人の男。
 男たちもまた、入り口で突っ立っているこちらを見て足を止めた。二人の青い瞳が驚きで瞬きをしている。
 手前にいた男が首を傾げ、その動きで頸に揺れる青いリボンが見えた瞬間──リルムの胸が大きく音を立てた。
「やあ……これはこれは、どちらの麗しい姫君かと思ったら」
「リルムだろ? なっつかしいな! 大人になったなーお前!」
 相変わらずの口調で懐かしい笑顔を見せた二人の前で、思わず鼻の奥がツンとしたのを気づかれないように、リルムもまたにやりと笑った。
「あんたたちは老けたね。──色男に、筋肉男」




 村人たちがざわざわと遠巻きに囲むのを、見世物じゃないと追い払いながらリルムが先陣を切る。その後ろに続くエドガーはにこやかに村人たちへ笑顔を振り撒き、マッシュは興味深そうにきょろきょろと家並みを見渡していた。
「変わらないなあ、サマサは」
「そう? 年寄りはほとんどあの世に行ったし人も減ったよ。こんな辺境の地に旅人だって来やしないから、あんたたちが珍しくて仕方ないみたい」
 言い方が可笑しかったのだろうか、エドガーもマッシュもくつくつと笑った。リルムは何故だか素直に笑えず、どこか仏頂面で二人をちらりと振り返る。
 元フィガロ国王のエドガーとその弟マッシュ。二十年以上も前に共に旅をして戦った仲間だ。旅が終わってから顔を合わせたのはもうかなり昔のことで、記憶の中の二人よりもやはり歳を取ったと感じてしまうのは仕方のないことだろう。
 それでもエドガーはやや白くなった髪を相変わらずふたつの青のリボンで束ね、それが不自然に見えるような歳の取り方はしていない。若い頃のような逞しさはないが、美しくスマートに年を重ねたその姿は王という立場から解放されたせいでもあるのだろうか、軽やかに見えた。
 対してマッシュは確かに昔に比べて顔立ちに年齢は感じるものの、相変わらずの鍛えられた体は五十過ぎとは思えない。今なお厳しい修行を続けているだろうことは容易に見て取れた。
「王様辞めて何してんのかと思ったら。……あの飛空艇、どうしたの?」
 リルムがちらりと横目を流して尋ねると、エドガーは不敵に笑って指先でトントンと自分の胸を叩いた。
「作ったのさ。私とマッシュで」
「国家予算で?」
「はは、まさか……手厳しいね」
 エドガーは苦笑し、風が煽った前髪を軽く掻き上げる。そして覚えているより彫りの深くなった目で、あらためてリルムを見て言った。
「ストラゴス爺はご健勝かな」
「……おじいちゃんは……」
 リルムが俯いて言葉を詰まらせると、エドガーとマッシュの顔色が変わった。
「まさか」
「……先々週に腰やっちゃって半分寝たきりだけど、元気だよ」
 しれっと続けたリルムに二人は目を丸くし、エドガーは胸を押さえマッシュは頭を掻いて安堵の溜息をついた。
「驚かさないでくれ、失礼だがありえない話じゃないんだから」
「ストラゴス今いくつだ? 九十超えてるだろ? あー焦った、変わんねえなあ、リルム」
 予想通りのリアクションを見せる二人を前に、ようやくリルムは少し笑った。懐かしい空気を感じて胸が温かくなる。
「では、早速ストラゴスに話が……おや」
 ふとエドガーが目線をリルムの後ろに向けて瞬きした。ストラゴスの家の戸口で心配そうに佇む少年を見て、エドガーはリルムを振り返る。
「もしやあの子は」
「そ。息子」
「ガキん時のリルムそっくりだな!」
 マッシュの言葉にリルムは二人と旅していた頃の自分を思い出し、少しだけ頬を赤らめた。
 エドガーはもう一度リルムの息子を見て目を細め、柔らかく微笑んだ。
「村を出て旅先で結婚したと聞いていたが……幸せそうで良かった。今日会えると思っていなかったから嬉しいよ」
「おじいちゃんから伝書鳩が届いたのよ。動けないって。仕方ないからお世話しに里帰りってわけ」
「そのお陰でリルムに会えたってことか。ストラゴスには悪いがラッキーだったな」
 リルムは息子においでと手招きし、恐る恐る走ってきた少年は母の腰に纏わり付いて見知らぬ二人の男を不安げに見上げた。
 エドガーは膝をついて少年と目を合わせ、にっこりと微笑む。
「君の母上の古い友人だ。驚かせてすまないね」
 少年は黙ってこくりと頷いた。
「おじいちゃんが、中へって……」
「そうか、ありがとう。何かなかったかな……そうだマッシュ、あれがあったろう、ゼンマイで動く」
 マッシュは「ああ」と思い出したように答え、担いでいた麻の袋の中を漁って何かを取り出しエドガーに手渡した。エドガーはそれを手のひらに乗せて少年に見せる。ミシディアうさぎの形をしたゼンマイ仕掛けの人形だった。
 少年は一度母を見て、リルムが頷いたのを確認してから人形を手に取る。
「セッツァーにプレゼントでもしてやろうかと遊び半分で作ってたんだ。君に渡した方がそいつが喜びそうだな」
「傷野郎にはまだ会ってないの?」
「ああ、残念ながらまだ見つけられていないよ。何処かの空で会えるといいんだが」
「あいつ悔しがるんじゃない、新しい飛空艇見たら」
「是非度肝を抜いてほしいね」
 エドガーは立ち上がって笑い、ゼンマイを巻いて足をカタカタと動かすうさぎに目を輝かせる少年を優しく見下ろして、傍にいるマッシュを促した。目配せを受けたマッシュと共にストラゴスの家へと足を向けたエドガーは、今度は家の傍らに木でできた墓碑のようなものを見つけてリルムを伺った。
「……インターセプターだよ。長生きしてくれた」
 リルムの言葉にエドガーとマッシュはハッと瞬きし、少しだけ寂しげに眉を寄せた。
「……祈りを捧げても?」
「もちろん。……祈ってくれるの?」
「ああ。仲間だからね」
 そう言うとエドガーは早足で歩み、墓碑の前で跪いた。後に続いたマッシュもエドガーの隣に並び、膝をついて目を閉じる。
 二人の背中を前に、リルムは息子の肩に手を当ててその祈りの時間を見守っていた。




「エドガー、体を起こすのを手伝ってもらえんか」
 仰向けでベッドに横になっていたストラゴスの枕傍で、椅子に腰掛けていたエドガーは心配そうに眉を顰めた。
「無理をしては」
「大丈夫じゃ、腰はとっくに治っとる……。リルムのやつがなんでもちゃっちゃとやってくれるんでの、ついつい甘えて寝っ転がっとったんじゃゾイ……」
 皺で目が埋もれるほどに細めて笑うストラゴスは、記憶の中の彼よりもゆったりとした口調でそう言った。エドガーも躊躇いながら微笑み、起き上がろうとするストラゴスの背中を手を伸ばして支える。
 先程マッシュと共にエドガーはストラゴスと十数年ぶりの対面を果たし、少しの間昔語りに花を咲かせた。
 丁度話の区切りがついた頃にエドガーはマッシュに目配せし、マッシュはそのまま村を見て回ると席を外した。ストラゴスもリルムに孫の様子を見てきなさいと命じ、聡い彼女も何かを悟ったのか部屋を後にして、残されたのはエドガーとストラゴスのみ。
 ストラゴスはエドガーの助けでベッドに上半身を起こすことに成功し、しょぼしょぼした目でふうと一息ついた。
「ストラゴス……これを」
 エドガーが懐から一通の封筒を取り出す。ストラゴスは差し出されたそれを震える指で受け取った。
「二十年以上前に頼まれた調査の結果だ」
 封筒の表面には何も書かれていない。ストラゴスは指の震えに苦労しながらも封を開き、中に入っていた薄い紙一枚をやっとのことで取り出す。その様子をエドガーは黙って見つめていた。
 三つ折りに畳まれた紙を開くと、そこにはいくつかの文章が並び、最後に結論として『生死不明』と記されていた。指先が震えるためカサカサと紙音を立てながら、ストラゴスは表情を変えずにその文字を凝視する。
 エドガーが苦渋の表情で口を開いた。
「二十年……これだけ時間をかけて、フィガロの情報網を持ってしても、結局分かったのはそれだけだ。瓦礫の処理には十年かかったが、そこから『彼』が生きている痕跡を見つけ出すことはできなかった」
 エドガーは苦々しく眉を顰め、垂れ落ちる前髪を無造作に掴む。そして一度目を閉じ、短く息を吐き出して改めてストラゴスに向き直った。
「こんな結果しか持って来られず……二十年もの長い間、待たせてすまなかった……!」
 絞り出すように告げたエドガーは、膝に手をつきストラゴスに向かって頭を下げた。ストラゴスはカサカサ鳴る紙を膝の上に下ろすと、またゆっくりと長く息をつく。
「エドガー。頭を上げとくれ。一国の王だった男が、簡単に頭を下げてはいかんゾイ……」
 その穏やかな声色にエドガーは目線を上げ、皺に塗れて微笑むストラゴスを見た。
「謝ることはひとつもない……世界を引っ張らなきゃならんかったお前さんが、この老いぼれの頼みを覚えていてくれただけで充分じゃ……」
「しかし、ストラゴス」
「エドガーよ。生死が分からんということは、生きてる保証がない代わりに、死んだ証拠もないということじゃよ」
 ストラゴスの言葉にエドガーははっとする。
「ある日ひょっこり顔を出してもおかしくはない……」
 ストラゴスは目を細めたのか瞑ったのか判別の難しい顔で半開きの部屋のドアを眺める。今にもそのドアを開いて誰かが入ってくるのを待っているように──その視線はゆっくりとエドガーに向けられ、皺だらけの顔で確かにストラゴスはにっこり笑った。
「生きてると思いがけない嬉しいこともあるもんじゃ……お前さんたちが今日訪ねて来てくれたようにな。しぶとく生き永らえる元気が出て来たゾイ……ありがとうよ、エドガー」

 ドアを背に隙間から二人の会話を聞いていたリルムは、そこで静かに部屋から離れて家を出た。




 家の外では息子がマッシュに肩車をされ、興奮で顔を紅潮させてはしゃいでいた。
 リルムに気づいた息子が手を振る。
「かーちゃーん! 空! 飛んでるみたい!」
 成程マッシュの肩車では背丈の小さな子供にとっては空を飛ぶにも等しいだろう。リルムはくすりと笑い、マッシュと遊ぶ息子の姿にかつての自分を重ねて見た。
 マッシュが息子を肩から下ろすと、少年は駆け出して母の周りをくるりと一回り、それからマッシュに手を振って村の端へと楽しそうに走って行った。
 マッシュは肩を回しながらリルムの元へと歩いてくる。
「元気な子だな。素直でいい子だ」
「あたしの子だからね」
「全くだよ、リルムそっくりのやんちゃ坊主だ」
 揶揄うように笑うマッシュの表情は昔と変わらない。そんなマッシュに安心感を覚えながらも、リルムは今日二人に初めて会った時から胸に引っかかっていたことを口にした。
「……色男、痩せたね」
 マッシュは笑顔のままだったが、やや少し眉が下がったように見えた。
「忙しくしてたからな」
「あんた近くにいたんでしょ。ちゃんと見てたの?」
 つい毒づいた言い方をしてしまったが、マッシュは怒るでもなく笑みを苦笑いに変えた。
「……止め切れない時もあったな」
 はぐらかさずに答えたマッシュは遠くを見るように目を細める。
 リルムはフィガロ国王が退位し王政を廃止するとの一報が届いた日のことを思い出していた。
 自身が暮らす小さな村にすらその噂はあっという間に広まった。フィガロの国王は世界を壊した悪を倒した英雄の一人、これから世界はどうなるのか──大袈裟に、しかしどこか他人事のように囁き合う人々に、リルムは一度もかつての旅の話をしたことがなかった。
 このサマサの村人も、ストラゴスを除けば誰も彼らの素性を知らない。まさかこの二人がフィガロの元国王とその弟だとは夢にも思っていないだろう。小さな町や村では彼らの顔も知らない人間の方が圧倒的に多い。
 以前とは違い質素な身なりをしている二人もまた、自分たちが何者であるか人々に説明して回る気はないのだろう。リルムはこれまでずっと気になっていたことを思い切ってマッシュに尋ねた。
「二人は……これからどうするの?」
 マッシュがリルムの目を見て一度瞬きをした。
「どこかで、暮らすの? 当てはあるの? どうして……国を出たの?」
 気づけば表情から余裕が消え、リルムはまるでマッシュを問い詰めるような口調になっていた。マッシュは静かに口角を上げ、リルムが落ち着くのを待ったのか、少しだけ間を開けて口を開いた。
「リルム、旅に出てたんだってな。スケッチブック持って」
「えっ……うん、昔のことだけど」
「世界中を見て回って絵を描く夢があったんだろ。……俺たちも同じだ。夢を叶えるのに今まで時間がかかっちまっただけで」
 夢、とリルムが口の中で呟く。
 マッシュは空を見上げ、光を受けて眩しそうに目を細めながら続けた。
「どこまで行くかはまだ決めてない。まあ歳も歳だからな、元気なうちに行けるとこ全部見て回るつもりだよ」
「決めてないって……」
 余程不安そうな顔になっていたのか、マッシュがまた苦笑して手を伸ばして来た。昔のように、大きな手が頭をぽんと優しく叩く。
「心配するな。……兄貴は最後まで俺が守る」
 別に心配なんか──そう嘯くことはできなかった。二人は新しい道を見つけ、すでに歩き出している。
 懐かしい仲間たちは散り散りになって、あの頃子供だった自分もすっかり大人になった。守るものが増えるたびに自由は遠のき、それが枷ではなく強さになると分かったのもまた大人になってからだった。
 だからリルムには、二人がどうして今まで守って来た土地を離れて旅立ちを選んだのかまだ理解はできなかった。惜しまれ引き留められただろう、エドガーの功績はこの辺境の地にさえ届いていたのだから。
 しかし不安の理由はそれだけではないことにも気づいていた。あの砂漠の城に常にいると思っていた二人がいなくなった。次に会えるのはいつか、この先会えるのかどうかすら分からない。
 二人が旅を終える場所がどこなのか、その終わりがいつかを知る方法はないのかもしれないのだ。
 マッシュが使った「最後まで」がそういう意味を含むことを感じ取り、リルムはいつもの軽口を叩くことができなかった。
「おや、二人一緒か」
 土を踏む音と共に穏やかな声が聞こえてくる。リルムとマッシュが振り向くと、身支度を整えたエドガーがストラゴスの家から歩いて来ていた。すでに出立準備を終えている様子を見てリルムの胸がズキンと痛む。
「兄貴、話は」
「ああ、済ませたよ」
 エドガーとマッシュは目で合図を送り合い、リルムは二人がこの村を去ろうとしていることを察した。
 行ってしまう。エドガーが、マッシュが、次に会えるか分からない二人が行ってしまう。
 何か声をかけたいのに言葉が浮かばない。焦るリルムの前に立ったエドガーは、優しい眼差しでリルムを見下ろしてそっと口を開いた。
「すっかりお礼が遅くなってしまった。……リルム。絵を、ありがとう」
 エドガーの言葉にリルムが目を見開く。
「素晴らしい絵だった……。あんなに嬉しいバースデープレゼントはなかったよ」
 エドガーが言う『絵』とは、リルムが彼らの誕生日に送るために描いたものだった。
 退位を宣言してから最後に行われたフィガロ国王の誕生祝賀式典。さぞや盛大に開かれるだろう、各国から豪華な贈り物が届くだろうねと噂話に賑わう人々を尻目に、リルムは一枚の大きな絵画を手がけた。
 リルムが知る中で一番魅力的な彼らの姿を絵に収めようと、息子に邪魔され絵具に汚れながらも二ヶ月を費やして自分の身長ほどのキャンバスに描き上げたその絵は、無事に彼らに届けられていたらしい。宛先に秘密のお呪いを忍ばせておいたのが効いたのだろうか。
「……絵、気に入ってくれた?」
「もちろん」
 エドガーとマッシュが同時に答える。思わず顔を綻ばせたリルムを見て、エドガーは感慨深げに微笑んだ。
「本当に気に入った……力強く生き生きと……かつての景色が蘇るようで……。あまりに素晴らしかった、だから」
 一呼吸置いたエドガーがはっきりと告げた。
「私たちの代わりに城に残ってもらった」
 リルムが瞬きをする。
 いつの間にかエドガーの隣に並んだマッシュと二人で、エドガーは穏やかな目でリルムに語りかけた。
「あれほどまでに私たちの真を捉えた絵はどこにもない……だから残ってもらったんだ。私たちがあの城に生きた証としてね」
 リルムは少しずつ早くなる鼓動を感じながら、僅かに震えた声で問いかけた。
「……二人の代わりに?」
「ああ」
「あの絵が城を守ってるのね?」
「そうだよ」
 優しさと力強さを備え持つ笑顔でエドガーとマッシュがリルムを見つめる。二人の真っ直ぐな目には迷いがなく、青い瞳は風のない水面のように凪いで穏やかだった。彼らの背には太陽に照らされ光る砂漠が見える。
 ──ああ、そうか。
 二人は国を出たけれど、故郷への想いを捨てたわけではないのだ。
 リルムは何かを考えるように眉を寄せ、それから二人に向かってふいに人差し指を突きつけた。
「二人とも」
 エドガーとマッシュが不思議そうに首を傾げる。
「そこ、座って」
 きょとんと目を丸くした二人は、同じタイミングで顔を見合わせた。リルムはなおも二人を指差し、その指先を下げて地面を示した。
「いいから座って待ってて! もう国王陛下でも王弟殿下でもないんだから、地べたに座ったって平気でしょ?」
 リルムの剣幕にエドガーもマッシュも呆気にとられ、ハイ、と返事をしてそのまま腰を下ろす。それ見届けて、リルムは家の方向へと踵を返した。
「ちょっとそこで待ってて!」
 ぽかんとしている二人に言い残し、全速力で家に飛び込む。そして部屋の奥の机に置かれたスケッチブックと鉛筆を掴み、再び家を飛び出していく。
 唖然としているエドガーとマッシュの前まで駆け戻ってくると、息を切らせたリルムは二人から少し距離を取り向かい合って腰を下ろした。膝を立ててスケッチブックを立てかけ、鉛筆を構える。
「今、描くから。しばらく座ってて」
「描くって、リルム」
「すぐ終わるから!」
 エドガーの口を挟ませず、リルムは右手を動かし始めた。二人はまだ戸惑いながらも状況は理解したようで、大きな体を固まらせて動かないよう気をつけているようだ。その不自然なモデルたちにリルムは思わず吹き出す。
「座っててくれればいいから、動いたり喋ったりしてていいよ。それじゃ疲れるでしょ」
 なんだ、とばかりに二人は肩の力を抜き、表情も柔らかくなった。リルムは手を休めずに二人とスケッチブックを交互に睨む。
 今のこの二人を描きとめておくのだ。あの頃とは違う、新しい道を選んだ二人の今を。
 ふと、エドガーが何かマッシュに耳打ちした。マッシュも小声で何かを返し、二人は同時に笑い合った。
 その子供のような笑顔はいつかの旅で見た彼らのそれと同じで、リルムも釣られるように微笑みながら筆を走らせた。


 ふう、と大きくため息をつき、リルムは完成した絵をスケッチブックから千切り取る。そして二人に向かって差し出した。
 受け取ったエドガーとその横で絵を覗き込むマッシュは、目を大きくして感嘆の息を漏らす。
 絵の中で、初老のエドガーとマッシュが隣り合い穏やかに微笑み合っていた。優しいタッチで描かれたそれは黒一色の鉛筆の線でも柔らかい光が色づいているようで、絵の中の二人の幸せそうな笑顔からは確かな暖かさを感じられた。
「前の絵はお城なんでしょ。代わりにこれ。急いで描いたからちょっと雑だけどね」
「そんな……嬉しいよ。ありがとうリルム、とてもいい絵だ……」
 エドガーが愛おしげに紙の中の自分たちを眺める。そしてマッシュに目をやり、絵と同じように微笑み合った。
 ふいにエドガーはその絵をマッシュに手渡し、リルムに一歩近づいた。
「……お礼をしなくては。」
 そう言って自らの髪を結ぶ二段のリボンのうち下のリボンに手をかけ、するりと解く。そしてそのまま握り締めたそれをリルムに差し出した。
「これを。私のお古ですまないが」
 リルムは言葉を失った。かつて旅の途中でエドガーのリボンを強請ったことがあった──これは大切なものだからあげられないよと困ったように笑われて、頬を膨らませて駄々をこねた幼い頃。
 飛空艇と同じ、澄んだ青。リルムはこの時ようやくフィガロブルーの名前を思い出し、王の象徴である青いリボンを前に手を出しかねた。エドガーは優しい眼差しでにっこりと笑う。
「髪が伸びたな。今の君なら似合うだろう」
 リルムは少し頬を赤らめ、照れ隠しに肩から垂れ落ちた毛束の先を背中に跳ね除ける。
 ちらりとマッシュを伺うが、彼もにこやかに見守るのみでエドガーを止めようとはしない。しかし手を出すのが憚られ、リルムは目の前の美しい青いリボンを受け取りかねている。
 そんなリルムの躊躇いを汲み取ったのか、エドガーは優しくもはっきりとした声でこう言った。
「リルム。また会えるよ」
 リルムが顔を上げる。
「必ずまた会える。受け取りにくいのなら、それまで預かっていてくれないか」
 エドガーの眼差しに誤魔化しはなかった。思わず目頭がじわりと熱くなったリルムは、瞳を覆わんとする水滴が広がる前にそのリボンをしっかりと掴んだ。
「本当に、また会える?」
「ああ」
「絶対だよ? 適当なこと言わないでよ?」
「私が嘘をついたことがあったかい?」
 リルムは首を横に振る。エドガーは目を細め、リルムが掴んだリボンからそっと手を離した。リルムが握り締めたリボンの両端が風に靡いて鮮やかに舞う。
 エドガーは微笑んだまま一歩下がり、マッシュの隣に並んだ。行ってしまう──リルムは夢中で口を開いた。
「……絶対、また会うんだからね! どっかで勝手にくたばってたら承知しないからね!」
 エドガーとマッシュは笑い、軽く手を挙げた。
 彼らの足先はすでに未来に向いている。
「……村に来てくれたら、旦那紹介するから! あんたたちみたいにカッコよくないけど、すっごく優しくて世界一の旦那なんだからっ……!」
 マッシュが親指を立てた。エドガーが頷いたのが見える。
 二人の輪郭が遠くなる。
「それから……、それからっ……」
 リルムはリボンを握り締め、二人に届くギリギリの声でその言葉を震える唇から落とした。
「……さよなら、エドガー、マッシュ」
 二人が一瞬足を止め、少し驚いたような顔をして、またすぐ笑顔に戻って大きく手を振った。
「さよなら、リルム」
「またなー!」
 遠くなる二人の影が見えなくなるまで、リルムはリボンを手に立ち尽くしていた。


 微かに地響きが聴こえる。大地を揺らす飛空艇の離陸音を耳に、リルムは空を睨みつけた。
「あれ、おじさんたち帰っちゃったの?」
 エドガーからもらったゼンマイ仕掛けの玩具を手に息子が駆け寄ってくるが、リルムは答えられない。少年は不思議そうに母を見上げて瞬きをした。
「……かあちゃん、泣いてる?」
「泣いてない」
 即座に返して唇を噛む。
 泣くものか。──まだ。あの飛空艇が空に飛び立つまでは。
 凝視する青い空に負けないほどのフィガロブルーが浮かび上がり、村を離れて遠ざかる。堪えていた涙が一粒目尻から転がり落ち、リルムは握り締めたリボンを胸に当てた。
 仕方がない。特別な人だから。今この時くらい空に想いを浸らせてもバチは当たらないだろう。
 記憶にしっかりと残る優しい声が頭の中で過去の言葉を繰り返す。

 ──私にも秘密の名前があるんだよ……




「……さよなら、ロニ」

 とうとう一度も呼ぶことができなかった。
 さよなら、初恋の人。