遠景 †浪漫飛行 4†




 じりじりと鈍い歩みで移動する緋色の炎の後を追うように、頼りない灰が空気に馴染みながら距離を進めていく。トン、と指で紙の円柱を軽く叩けば、灰の塊は呆気なく皿に落ちて先端の炎が一気に赤く色づいた。
 細く昇って空気を燻す紫煙を見つめ、何を待つでもない時間をただぼんやりとやり過ごす。胸いっぱいに煙を吸い込む瞬間は汚れたもので肺が満たされる充実感を得られるのだが、息と一緒に吐き出してしまえば心には何も残らなかった。
 薄汚れたカウンターに肘をつき、艶が身を潜めた白灰色に近い銀髪を気怠げに掻き上げ、安酒を舐めながらひたすら煙草を消費し続けるセッツァーは、目的もなく長い夜を潰すためだけにここにいる。
 場末の酒場の喧騒も落ち着きつつある残夜、空が白んできただろう頃に煙草を揉み消したセッツァーはようやく立ち上がった。釣りの確認もせずに紙幣をカウンターに置き、出口の扉に手をかけた時に一瞬囚われる過去の映像がいつも彼に苦い笑みを浮かばせる。
 世の中は実に平和で退屈だった。やりたいことはそれなりにあったはずが、大体が成功の兆しを見せた頃に何もかもどうでも良くなって、あっさり他人に権利を譲渡した。
 新設したカジノ、オペラ座、どれも軌道に乗りかけたところでつまらなくなり手放して、飛空艇をもう一機作るという話すら乗り出しかかったが結局立ち消えた。
 作ったところで何になる。空に浮かぶただの玩具なら多少の金をかければできるだろう。
 胸躍る翼と成るには無くてはならないものがある。私腹を肥やすことしか考えていない連中には死んでも得られないものだ。
 かつては命どころか世界そのものを賭けた勝負に勝利したセッツァーにとって、今の穏やかな世の中に真新しさは見出せず、何をやるにも気持ちの入らない数十年間の人生を黙って側から眺めていたようなものだった。
 そろそろ潮時だろうか、と自嘲めいた笑みでもあった。気づけば随分と歳を食い、酒と煙草に侵食された身体は日々老いぼれていくだけ。
 どうせ今の空に未練などないのだ、彼の星目指して消えようとも世界は変わらず明日が来て陽が昇る。船ごと空に昇る様を想像しながら、しかしこの扉に手をかけるといつも浮かんでくる懐かしい光景。
 開いた扉の向こう側から、光を背負ってやって来たシルエット。逆光で見えなかった顔は、しかし輪廓だけで存在を如実に示していた。
 全てを諦めて腐っていた日々に現れた、あの頼もしい懐旧の仲間たちが脳裏に閃いては幻と化し、空気に混じって消えていく。


 明るい時間は転寝を続け、陽が落ちる頃に街を目指して空を駆る。
 かつて世界が崩壊したあの時に空を覆った黒雲は晴れたとは言え、今夜の夜空には厚みのある雲が点在し、ほんの時折眩い月や星の光が顔を覗かせる程度の明るさだった。
 高度を上げて雲の上まで突き抜ければ遮るものはなくなるだろう。しかしどれだけ輝かしい満天の星空に飛び込んでも、仲間と共に空を駆けたあの頃のような高揚感は得られない。
 ただ目的もなく彷徨うのみの生活をこれから何度繰り返すのか、考えるのも馬鹿馬鹿しくなるような空っぽの心で、自ら空の果てを定めるべきだろうか、そろそろ迎えに来てくれないものかと、記憶の中で朧げになりつつある親友の顔を思い起こしながら、茜が過ぎた宵の口の地平線をぼんやりと睨みつけていた時。
 ふと風が強くなった、とセッツァーは舵を握り直す。気持ちの良い夜風だった。速さに拘るなら持ってこいの風向きで、自嘲気味に口元を歪めたセッツァーがしかし速度を上げることはなかった。
 競う相手がいなければ、飛ぶだけで最速──くだらねえ、と口の中で呟く。頬を撫でる風に煽られた髪を乱雑に掻き上げて、煙草を求めて懐に手を差し入れた。そのまま動きを止めたセッツァーは、眉を顰めて顔を上げる。
「……?」
 軽く後方を振り返るが、闇空に浮かび上がる何かがあるはずもなく、咄嗟に振り向いた自分に驚きながらも顔を元の向きに戻したセッツァーは肩を竦めた。
 風に紛れて微かなエンジン音が聞こえた気がした。ファルコン号とは回転数の異なる音だった。
 低速での運転ではあるが、飛行中に地上の音を耳で拾えるほど高度は下げていない。聞き間違いかと指先に煙草を挟んだセッツァーは、再びその動きを止めて鋭い目付きのまま感覚を研ぎ澄ませた。
 やはり音がする。気のせいではない──摘んだ煙草を放り捨て、甲板後方に大股で歩み寄ったセッツァーは、縁を掴んで身を乗り出し闇の向こうに目を凝らした。
 風に逆らう気配がする。歳も歳で夜目は利かなくなったが、肌が気配を覚えている。何かが近づいて来ているとセッツァーは確信した。
 しかし空の上で追われることなどここ数十年経験がない。かつて相見えた古の魔物が脳裏を過ぎったが、そんなはずはない、あれは仲間と共に遠い昔に討ち取った。
 正体を見極めんと紫の瞳を見開いて、ここまで大きく瞼を開いたのはいつ以来だろうかとふと思う。何かを注視することなどとんと無くなっていた。何も目に留まらなかった。世界から惹かれるものが消えてしまったようだった。
 この胸騒ぎも同じだった。凪いで気の抜けた心が不穏な気配に澱むなど、数年、いや数十年感じる機会はなかったはずだ。今この身体に迸る緊張を最後に感じたのはいつだ。闇を凝視するセッツァーの唇が僅かに緩んで両端の角度を上げた。
 見え隠れする星々に紛れた光を見定め、セッツァーの眉が動く。後方から近づく物体が、徐々に闇から輪郭を切り出していく様を確かに両眼で捉えたセッツァーは、信じ難い光景に唖然と歪んだ口を開いた。
 疎らに散らばる小さな雲を吹き飛ばしながら、やや斜めに角度を取って側面を主張したそれは、間違いなくファルコンの他に存在するはずのない飛空艇。同じ高度を保ち、低速で運転しているとはいえ先を行くファルコンを上回る速度で追い上げてくるその機体は、流れの速い雲が過ぎ去って月明かりを暴く度にゆらゆらと淡い光を反射させた。
 ファルコンよりも一回り、いやそれ以上小振りだろうか、細身の流線型はセッツァーがこれまで見たことのないフォルムだった。まだ闇が濃く全景が掴めない。気づけば木製の縁に爪を減り込ませていたセッツァーは、明らかな意図を持って謎の飛空艇がこのファルコンを追い立てていることを認めた。
 大きく舌打ちし、縁を握る手に圧を込め反動をつけ、セッツァーは操舵に向かって駆け出す。得体の知れない空の異物に煽られているという事実に心は沸き立ち、苛立ちとも違う奇妙な高揚感に駆られ、何としてもあの不躾な飛空艇に追い抜かれてはならないと舵に触れた手に力を込めた。
 丸みを帯びたフルモノコックのファルコンに比べて細長く鋭角的な背後の飛空艇は、間違いなくスピードを重視した設計だろう。メンテナンスを怠ることはなかったとは言え改良までは踏み込んでいなかった、数十年前の最新技術との違いは如何程かと自嘲気味に笑い、風の流れを見極め高度と速度を同時に上げる。
 ──来れるもんならついて来やがれ──口の中で呟いた後、自然と上がる口角をセッツァーは元の位置に戻そうとはしなかった。後方の飛空艇が同じく速度を上げたことが風を押し退けるエンジン音で分かる。長らく感じることのなかった追われるスリルが急速に胸を打ち、鼓動が速まるにつれて体感速度もまたぐんぐんと上がって行く。風が鋭く頬を切る感覚は久し振りだった。
 相手に引く気配はない。喧嘩を売って来たのは向こうなのだから簡単に引かれては困るが、余裕綽々で距離を詰めてくるのは面白くない。
 エンジンにまだ余力があるとは言え、この拮抗状態から抜け出るには策が必要かとセッツァーは前方の視界を睨みつけた。晴天とは言い難い、高積雲が疎らに散らばる空は寧ろ好都合だった。厚みのある雲をあえて目指し、飛び込んだ瞬間にエンジンを全開に吹かす。
 靄に遮られる視界を物ともせず、巧みに速度を変えて雲から抜ける方向すら細かく調節するのは、敵に軌道を悟られないためだ。恐らくは火力で劣るハンデを埋めるのは長年の技術力しかない。
 産まれてから今まで、地上よりも空にいた時間の方が長いのだ。噂すら耳にしたことのない、ぽっと出の新入りに易々と抜かされてたまるか。
 舌打ちし、雲を抜けて再び雲へ。飛び込む瞬間、指が凍るような低温の風がセッツァーの全身を包む。身を裂くようにすり抜けて行き、服の隙間から入り込む冷気は肌という肌を粟立たせた。久方ぶりに受け止めた風の衝撃に目を瞑るどころか見開いたセッツァーは、ハッと短く笑い声を漏らす。
 背筋がゾクゾクと震えるのは寒さだけではないのだろう。長い髪を湿らせて雲から出ると、迎える大気は酷く生温く感じた。
 なんて温さだと自分に対する皮肉めいた笑みが込み上げて来るのを抑えられない。こんな温い風でよくも我慢できていたもんだとくつくつ笑い、舵から手は離さずに後方を大きく振り返った。
 例の機体は僅かに遅れを取った程度で、大きくは離されずに食い付いて来ている。雲を避けつつも速度を落とさないのは大したもんだ──それどころか先端の角度でこちらを追い抜くタイミングを測っていることに勘付いたセッツァーは、相手が不規則な速度変化に動じていないことを理解しにんまり笑った。
 このまま上昇を続けていけば、高積雲を越えて月と星の一番近くに辿り着く。かつての親友も眺めただろうその場所で無様な姿は見せられない。
 操舵を握り締める手指の隙間には汗が蒸れ、風に晒されて指先は感覚がないほど冷たくなっていた。
 後方のエンジン音が太くなった。雲に紛れる前に一気に距離を詰めるつもりなのか、振り向いて確認した機体の先端は上向きで、急速に高度を高める気だと察したセッツァーもまた上方に舵をとる。小細工は抜きで先手を取るべく、風の方向を確かめてベストな角度で切り込んだ。
 捉えた、と直感が囁いた。最後に飛び込んだ闇夜を暈す白雲の中、痛みを感じるほどの冷たい靄が晴れた瞬間、目の前にぽっかりと浮かび上がる陰影豊かな黄金色の半月が眩しく目を刺したと同じく、流線的な細長い機体がファルコンを見下ろす位置まで上昇して優雅にその身を踊らせていた。
 昼とも見紛うほどの白々とした月明かりに照らされた、闇に映える外板の瑠璃に似た青色を、セッツァーはかつて見たことがあった。
 見開いた瞳が乾いて痛んでも瞬きができなかった。──薄々そんな気はしていたのだ。この世に二つと無いはずの飛空艇がもう一つ現れたその時から、実現できる人間はあの男しかいないと。
 エンジン室に招き入れたことも、修理を手伝わせたことさえあった。こちらの手の内を知り尽くしている上に、機械技師としての腕は超のつく一流。引き直された図面ではさぞや合理的なエンジンが積まれたことだろう。
 美しい弓張月と満天の星空を背景に、悠々と空を進む滑らかな流線型が特徴的な青い機体を頭上に見上げ、苦笑いと共にセッツァーは操舵から手を離した。
 やりやがったな、と小さく呟いたのを口火とし、溢れ出る笑いが止まらなくなって、無遠慮に風が煽る髪を乱雑に掻き上げてそのまま握り締めたセッツァーは、澄んだ夜空に響き渡る大声で笑った。
 完敗だ──ひとしきり笑った後に目を向けた夜の空は、二機の飛空艇など蚊ほども気に留めない広さでエンジン音すら静寂に包み込む。
「……やっぱり空は最高だな」
 呟きは掠れていた。強風に晒されて冷え切った身体は清々しく、凍るようだった指先には内側から熱が点り始めていた。
 先を行く飛空艇が徐々に高度を落として行く。セッツァーもそれに倣い、雲より下の陸地に手頃な面積の草地を見つけたと共に着陸態勢に入った前の機体に続き、ファルコンを地上に帰した。
 地響きが収まってからタラップを降りたセッツァーの目が、青い飛空艇の裾に立つ二人分の人影を捉える。近づくにつれ、長身の輪郭に靡く束ねた長い髪、そして記憶より老いてはいるが同じ作りの見知った笑顔が二つ並んでいるのをはっきり認識し、セッツァーは鼻で笑って捨て台詞を吐いた。
「随分なご挨拶じゃねぇか……エドガー、マッシュよ。このクソッタレが」
 その言葉にエドガーは不敵に、マッシュは無邪気に歯を見せて笑い返し、最後に会った時に比べてやや小柄になったと感じるエドガーが品の良い仕草でセッツァーへ右手を差し出す。
「元気そうで何よりだ。……久し振り、セッツァー」
 反動をつけて叩くように握り返したセッツァーの手のひらの内側に、痺れるような痛みが走る。
 恐らくは同じ痛みを負っているだろうエドガーは、旧友からの酷い仕打ちを責めることもなく、昔よりも目尻に深く皺を刻んで穏やかに微笑んでいた。





 小さな談話スペースに備え付けられたカウンターの上で、飲みかけのグラスはそのままに、両腕を枕にしてうつ伏せになったエドガーの背中が緩やかに上下している。
 小さな窓の外では時折風が唸るような音を立て、ぶら下げられたランプが小刻みに揺れた。その都度控えめな灯りが部屋の隅を仄かに照らす。
 眠る兄の傍らに控えるマッシュは優しい眼差しで、エドガーの肩に蹲る銀色がかった髪の束を背中に落とした。そこから一人分空けた位置に腰掛けていたセッツァーは、二人を避けるように顔を横に向けて煙草の煙を吐き出した。
「そいつが潰れたところ、初めて見るな」
 セッツァーの呟きに軽く顔を上げたマッシュは、唇に小さく笑みを乗せて目を細める。
「最近は随分弱くなったよ。それに……セッツァーだからな」
「あん?」
「警戒してないんだ。気の置けない相手ってことだろ」
 そう口にしながらマッシュは羽織っていたフード付きのマントを外し、エドガーの背中にそっとかける。セッツァーと言えば、マントがなくなったことで露わになったマッシュの昔と変わらない太く逞しい首や二の腕を目にして眉を上げ、大したもんだな、と独り言のように呟いた。
 最後に会ったのはいつだっただろうか。確か、四十になるかならないかの頃だった気がする。
 ふらりと立ち寄ったフィガロ城にて、その当時でさえ数年ぶりに顔を合わせたエドガーはあいも変わらず忙しそうで、マッシュはマッシュで自己鍛錬に精を出し、穏やか且つ彼らにとっての平凡な日常を目の当たりにした。
 ああそうだ、とセッツァーは手にしたグラスの中に浮かぶ氷をカランと鳴らした。それで、訪ねるのをやめてしまったのだ。
 エドガーとマッシュだけではない、以前は時折訪れていたモブリズにも、サマサにもドマにもコーリンゲンにも、あれから一度も寄ったことはない。散らばった仲間たちは平穏を手に入れ、次なる世代が生きる世界を作るための新たなステージへ進んでいた。
 漠然と思ったのだ。ここにいるべき人間ではないな、と。
 土地に根付く者と空を流す者、住む場所が違うことを思い知らされたかのようだった。
 だからあのニュースは純粋に驚いた。
 二百年以上続いたフィガロ王家の王政が廃止され、新たな議会が発足する──
 妃を娶らず自分の血を引いた後継者を作らなかったエドガーが、生涯をかけて基盤を築いた共和制共和国の誕生は、世界中で賛否を巻き起こした。
 混乱冷めやらぬ中、エドガーとマッシュの二人がフィガロを出たとの噂は風の便りで耳にはしていたが、まさか空で遭遇するとは夢にも思っていなかった。
 ファルコン号よりふた回りほど小さなこの飛空艇は、必要最低限のものだけが揃えられた質素な造りになっていた。部屋数は片手の指以下、キッチンもバスルームも小振りで、企業秘密だと嘯きながらもエドガーに案内された機関室に据えられた最新式のエンジンはファルコンと同じく八基だが、セッツァーが予想した以上に小さいものだった。
 とことん軽量化に拘った機体は風の抵抗を受けにくい曲線的なフォルムで、馬力に重きを置くファルコンとは根本的な造りが違っていた。どうだと感想を尋ねられても、負け惜しみのひとつも出てきやしない。
 全てをコンパクトに纏めた理由は、スピードを重視したためだけではないのだろう。彼ら以外にクルーの見当たらないこの飛空艇は、二人だけで管理できるギリギリの大きさだとセッツァーは勘付いていた。人は雇わないのか問うと、マッシュは大掛かりな修理でもあればひょっとしたらな、とだけ答えた。恒久的に他人を乗せる気はないらしい。
 セッツァーとマッシュが黙ってグラスに口をつける間で、エドガーの寝息が静かに響く。顔はマッシュの方に向けているためセッツァーには伺えないが、丸まった背中はかつて自信に満ち溢れていた一国の王であった姿に比べて小ぢんまりとして見えた。
 魔導師を討ち取った後、実質世界を統治したのはこの男だ。指導者を失った国も多い中、国王自ら戦いの前線に立ち勝利を収めたものだから、民衆の期待も相当なものだった。
 それから大きな戦乱もなく治世を終え、よくぞ荒波を乗り切ったものだと素直に感心する。だからこそ、この王族の兄弟がフィガロを捨てたと聞いた時は耳を疑った。
 マッシュは穏やかにグラスを傾ける。昔に比べて雰囲気は随分と落ち着いて感じられた。エドガーの身の回りの世話は全てこの男が担っているのだろう。眠ってしまったエドガーをさり気なく気遣う様子は彼らの日常を想起させた。
「……これからどうすんだ。当てはあんのか」
 ボソリと口にしたセッツァーに対し、マッシュは軽く口角を上げて懐かしいものを見るように目尻を下げた。セッツァーが訝しげに眉を顰めると、いや、と前置きしたマッシュが軽く手を上げてひらひらと振る。
「リルムもおんなじこと言ってたなって」
 その言葉に、セッツァーは思わず壁に小さなピンで無造作に止められている画用紙を仰ぎ見た。
 鉛筆で描かれた一枚の絵。隣り合って微笑みを交わす男性二人は、エドガーとマッシュに他ならない。
 この談話室に通されて最初に目に付いたのがこの絵だった。口には出さなかったが、リルムが描いたものだとすぐ分かった。黒一色の線が醸し出す人肌の暖かさと息遣いの生々しさ、こんな絵を描けるのはリルムしかいない。
「リルムに会ったのか」
「ああ。サマサで偶然な。元気そうだったよ、そっくりの子供がいた」
「へえ、あいつがねえ……」
 短くなった煙草を灰皿に押し付け、新しいものを取り出そうか迷って、セッツァーは懐に入れかけた手を引っ込める。代わりにもう一口グラスを傾け、唇を湿らせて軽く息をついた。中身はすでに氷が溶けて味も色も薄くなっているが、今の気分には丁度良いぼやけ具合だった。
 マッシュもグラスに口をつけ、数分無言の時が流れる。この無音の時間を心地よいと感じる程、今の二人は馴染んではいなかった。少なくともセッツァーは多少の気まずさを感じていた。募る話も案外ないものだと、顔を合わせなかった十数年の薄っぺらさに自嘲の笑みが零れる。
「リルムがさ。やたら不安そうな顔してた」
 若い時と変わらず張りのある低い声で、マッシュがぽつりと呟いた。
 セッツァーはマッシュに顔を向け、それからマッシュの目線を追って眠るエドガーの背中を見た。上下する背の動きに乱れはない。
「もう二度と会えないって思ったみたいだ」
「……そりゃあな。今まではフィガロに行きゃお前らがいるって思ってたからな」
「うん。でも俺たち、あちこちを見て回るつもりではいるけど、フィガロを捨てた訳じゃないよ」
 マッシュがグラスを煽って底に残った液体をぐっと飲み干し、コトンと音を立ててカウンターに置いた。
「何匹か伝書鳥も連れて来てる。フィガロに有益な情報があれば優先的に飛ばすし、万が一の有事の際は力を尽くすことになってる」
「そうなのか」
「ああ。俺たちだって故郷は大事だ」
 完全にグラスから手を離したマッシュを見て、セッツァーは久方ぶりの夜の語らいに終わりが近づいていることを悟る。
 同時に沸々と焦りの気持ちも沸き始めた。話すべきことを話し終えられただろうかと、らしくなく目線をうろつかせて今までの会話を振り返る。
 悔しいが、自分もまたリルムと同じ──いつまでも変わらずそこに在ると思っていた存在がいなくなることに焦燥を感じている。十数年顔を出しすらしなかったというのに。
「見たいものを見て、やりたいことをやる。自分のために時間を使うことにしたんだ。兄貴はガキの頃からずっと、自分の意思を後回しにしてた人だったから」
 軽く瞼を伏せて瞬きをしたマッシュの表情が、過去のエドガーの仕草と重なって見えた。いつの間にかグラスを握る指に力がこもっていることに気づき、セッツァーは戸惑いに指を離す。
「この生活がこの先何年も続くのか、……ほんの少しで終わるのか、分からないけど。兄貴はやりたいようにやって、俺はそれを支える。最後までそれは変わらない」
 はっきりとした声でそう告げたマッシュは、穏やかな笑みを浮かべたままセッツァーを促すように小首を傾げた。もう酒は良いか、と尋ねていることを察したセッツァーは、頷きかけて一瞬口籠る。
「あー……、お前、よ。」
「ん?」
 先程と反対側に首を倒し、笑みはそのままで不思議そうにセッツァーを見るマッシュに対し、セッツァーは乗り気ではないながらも懸念をぶつけることにした。
 この先彼らが二人だけで旅を続けるのなら、確かめなければならないことがある。次にいつ会えるのか、会うことができるかの保証はない。ならばここで尋ねておくべきかと、セッツァーは意を決してかつて旅を共にしていた頃から案じていたことを口にし始めた。
「その……、物騒な技、あったろ。……スパイラルなんとか……って」
「ああ」
 マッシュが眉を持ち上げ、小さく頷いた。同時に僅かに細められた目は、セッツァーの言わんとすることを少なからず嗅ぎ取った結果であるのだろう。深みを増した瞳の青にセッツァーの背中が微かに汗ばんだ。
「お前、あの技は……、……」
「あれは、もう使わない」
 言い淀むセッツァーに代わってきっぱりと言葉を被せたマッシュは、真っ直ぐな目を向けてくる。揺るぎなさに怯みつつ、セッツァーは自然と身体に入っていた力が安堵で抜けていくのを実感した。
 マッシュが繰り出す必殺技の中に、自身の生気を利用して仲間の傷を癒すチャクラという技があった。回復魔法と効果は似ているが、違うのはマッシュ本人の気を使うために自分自身を癒すことは出来ないという点だった。
 そのチャクラを究極まで昇華させた技、スパイラルソウルをセッツァーは旅の最中に一度だけ目にしたことがある。エドガーが瀕死の重傷を負った時だった。自らの生気を引き換えにエドガーを回復させたマッシュは、消え入るように倒れて動かなくなった。生命力そのものをエネルギーとして他人に全て引き渡し、空っぽになったのだと後からセッツァーは理解した。
 半死の状態から蘇生魔法で救い上げることはできたが、命を燃やし尽くした後であれば魔法でも助けることは不可能である。ましてや今は魔法が存在しない。あの時のエドガーの青白い無の表情を、セッツァーは未だに忘れることが出来なかった。
 マッシュはセッツァーからゆっくりと視線を逸らし、安らかな寝息を立てているエドガーの顔で留め、柔らかく瞼を伏せた。
「……あの頃の俺は、兄貴を「生かす」ことばかり考えてた。俺が強くなったのは兄貴のため。何があっても、この身に代えてでも、兄貴を守り抜くって……それが一番正しいことだと信じてた。だからあの技は、兄貴のために作ったんだよ」
 そして僅かに眉を下げ、苦々しく口角を上げる。
「でもこの数十年、兄貴の傍にいて……兄貴が本当に望んでいることの意味がやっと分かった。兄貴は城を出るのに俺を選んでくれたんだ。だから俺も、兄貴を「生かす」んじゃなくて、兄貴と「生きる」ことにした」
 はっきりとした声で告げてから、顔を上げたマッシュは力強い眼差しでセッツァーを見据える。旅をしていた頃と変わらないどころか強さを増したその瞳が物語る想いの量に、よくぞ貫き通したとセッツァーの口から感嘆の苦笑いが零れた。
「俺は最後まで兄貴と生きて兄貴を守る。それが俺の夢だ。叶えてみせるさ」
「……そいつを聞いて安心した」
 長年の胸のつかえが取れたかのような気分だった。
 肩から力を抜いたセッツァーは、水に近くなった液体が薄く残ったグラスを手にして一気に喉に流し込んだ。温さが身体に沁み渡り、自然と大きな溜息が漏れる。緩んだ口は笑みの形から戻ることはなかった。
 日付が変わってしばらく経ち、おもむろに腰を上げたマッシュがグラスを片付け始める。マッシュに空のグラスを手渡したセッツァーは、短い邂逅の終わりに晴れやかな気分で立ち上がった。
「お前ら、この後何処行くんだ?」
「朝になったらモブリズの方に向かう予定だ。ティナの孤児院に届ける本をたくさん積んできた」
「モブリズか。それなら近くの海で面白い話があるぜ」
「面白い話?」
 グラスを脇に置いて眠る兄の背に手を掛けていたマッシュが足を止めて瞬きをすると、ニヤリと口を歪めたセッツァーはカウンターの上に指を滑らせ、簡易的な世界地図を描いてその場所を指し示した。





 夜明けを迎えて白んだ空に、澄んだ群青色の外板に光を受けた飛空艇が浮かび上がる。
 ブラボー、フィガロ! と声高に唱え、層雲に溶けるように飛び立ったそのシルエットが完全に見えなくなるまで、顎を上げて空を睨み続けた。
 ──まさかこの自分が、空に消える友を地上から見送ることになろうとは! ──セッツァーは自嘲に歪む唇を噛み締め、握った拳の内側で食い込む爪の痛みを堪える。
 最新式のエンジンを惜しげもなく見せて来たあの男に、空で大きい顔をさせる訳にはいかない。何しろ年季の入り方が違う。すでに頭は改良後の図面を引き始めた。まだまだ余地はあるはずだ。
 こうしてはいられないと、一人残された大地を踏み締め旧友から受け継いだ船へと急ぐ。取り掛かるなら早い方がいい。必要なものも揃えねばならない。胸の奥から沸き立つような興奮が指の先まで熱くする。
 ──俺にもまだ夢はある。


 なあ、ダリルよ。
 まだ迎えに来るのは先でいい。
 土産話は多い方がいいだろう? お前の世界最速の船が、本物だってことを証明してやるから、もうちょっとそっちで待っててくれよ──


 見開いた瞳に受ける風が心地良い。
 朝の光を全身に浴びて前を向くのは久方振りのことだった。






 ***






「兄貴」
 双眼鏡を手にしていたマッシュが、甲板に据えた小さなテーブルで地図にペンを走らせているエドガーを呼ぶ。
 風に攫われないようペンを懐にしまい、地図を手に取ったエドガーがマッシュの元へ近付くと、マッシュは双眼鏡を差し出しながらある方角を指差した。
「あっち、黒い靄がかかってる。セッツァーから聞いたのと方角もピッタリだ」
 エドガーはマッシュに地図を手渡し、引き換えに手にした双眼鏡を目に当てて覗き込む。丸いレンズの向こう側、薄っすら霞んだ黒っぽい煙のようなものが立ち込めている箇所を認めてエドガーは口角を上げた。
「ほう」
 双眼鏡を外して同じ方向を見据えるが、肉眼ではまだ確認できないのか、地平線を細目で睨んだエドガーは風が巻き上げる前髪を撫で付けた。
「随分と高い位置まで霞んでいるな。相当に波が荒いと聞いている。海から行くのは不可能だと」
「あそこ、調査してたのか?」
「ああ、二十年ほど前だな、世界地図を作り直すために数年かけて調査団を送り込んで世界中を調べさせた。しかしある一帯に差し掛かると海が荒れ雷鳴が轟き、進むことができなくなったと報告を受けた箇所があってな。何度か行かせたが、同じ結果だった。モブリズとかつての狂信者の塔を直線で結んだ中間点の海だ」
 マッシュは風にはためく地図の両端をしっかり握り、大きく広げてエドガーが告げた場所を目で追う。高度は下げているが快晴の陽の光が眩しく、掲げた地図を目指す方向に向け、空に重ねて太陽を隠した。


 ──巨大な影を見たという船夫が何人もいるらしい。

 黒い靄に包まれた『魔物の海域』は、遠くからはぼんやりと煙が燻っているようにしか見えないが、近付くにつれて船をひっくり返すほどの荒波となり、空には分厚い黒雲が立ち込め豪雨と霹靂が襲い来る──まるで意思を持って寄るものを拒むかのような、船乗りが避けるべき海として伝えられているんだそうだ、とセッツァーは告げた。
『ここ最近、命知らずが近づいては何人も行方不明になってるんだってよ。生き残った連中が靄の中に怪物の影を見たとか、不気味な咆哮を聴いたとか何とか。……取り残された幻獣がいるって噂もある』
 飛空艇で行ってみたことはないのかとマッシュが問うと、セッツァーは鼻で笑って首を横に振ってみせた。
『賭けの相手もいねえのに、てめぇに命を賭けるほど若かねぇよ』


「間違いないな。あそこが『魔物の海域』だ」
 エドガーが地平線を見下ろして口にする。マッシュは地図を下ろし、丸めて片手に握り込んだ。
「招かれざる客、か……。空からの来訪者も等しく拒まれるだろうか」
 呟きにマッシュが目を向けると、エドガーの口元には誇らかな微笑が浮かんでいる。横顔に揺れる睫毛の下で、青い瞳が中枢に光を据えて標的を睨んでいた。飛空艇は前進を続け、エドガーは舵を切るつもりはないようだった。
 静かに燃える兄の炎が伝わったマッシュもまたにやりと笑い、エドガーの視線の先を見据えて目を凝らす。青い空にぼんやりと混じる墨色の靄が遠くに霞んで見え始めていた。立ち昇る黒い気配は遠目でも分かる不吉な高さがあるが、天を突く邪悪な塔ほどではない。
「行くかい?」
 まだ見ぬ地へ。
 軽やかに尋ねたマッシュへ、エドガーはグッと両の口角を上げ、「無論」と答えて遥か前方に力強く、伸ばした人差し指を突き付けた。

「全速前進だ」














 この年を境に、機械城を統べた砂漠の王エドガー・ロニ・フィガロとその弟マッシュ・レネ・フィガロの双子の兄弟の名前は、歴史の表舞台から姿を消す。
 歴史書に記されることのない彼らのその後の人生は、関わった人々によって記憶に刻まれ、名もなき旅人のさり気ない振る舞いとして人から人へ語り伝えられるのだろう。
 彼らと同じ時代を駆け抜けた仲間たちもまた、誰かの胸に生きた証を残して行く。命は巡り出逢いと別れは尽きることなく、人は明日を迎えるために営みを繰り返す。
 先を行く者が拓いた道を辿りながら、自身もまた誰かの道標となって、知らず受け継がれた志は誰かの胸に宿り行く。
 この世を回すささやかな歯車のひとつとして、笑い、泣き、争い、愛し合い、夢を見て、与えられた限りある時間を懸命に生きるのだ。

 砂に還るその日まで。