寧日 †浪漫飛行 4.5†




 息を潜めてスパナを回す。念入りに一回しふた回し、最後にグッと力を込め、長年の手練で最上のタイミングは分かってはいるものの回し過ぎないよう注意して。ここだと確信したところでフッと肩から力を抜いた。
 恐らくしばらく前からタイミングを計っていたのだろう。エドガーがスパナを作業台に置いたのと、マッシュが声を掛けてきたのはほとんど同じ頃だった。
「兄貴、晩飯だよ」
 夢から覚めたかのように数回瞬きをして、エドガーは眼鏡を外しながら窓に顔を向ける。それから振り返り、静かな笑みを唇に乗せて肩を壁に凭れさせているマッシュに苦笑いを見せた。
「もう暗くなっていたのか。いつランプをつけた? 気付かなかった」
「集中してたからな」
 戯けて返すマッシュの前でエドガーが肩を竦めると骨がパキッと音を立てた。疲れ目を感じるのか目頭の辺りを指で押さえ、エドガーは立ち上がって腕を天に伸ばす。
「確かに腹が減ってるな。肩も凝った。いいタイミングで呼びに来てくれたぞ」
 いそいそと椅子を机の下に押し込むエドガーを先導し、マッシュは飽くまで穏やかに笑った。
「そいつは良かった。ワインを持って行くから、先に座っててくれ」
「ワイン? 今日は奮発するんだな」
 作業中は全く感じなかったが、肉の焼けた香ばしい匂いが漂っている。まるで匂いを辿るようにキッチンと続き部屋になっているダイニングへ向かい、テーブルに並んだ料理を見てエドガーは目を丸くした。
 野菜のテリーヌに魚介のマリネ、チーズとナッツを乗せたカナッペは普段もメニューに取り入れられることはあるが、ソースやピュレでいつになく洒落た盛り付けになっていた。ミートパイの周りには何処で調達して来たのか青い花弁が散らされ、テーブルのど真ん中にはチキンが丸ごと焼かれて鎮座している。
 極め付けはケーキだった。小ぶりとはいえホールサイズのケーキは木苺で可愛らしく彩られて、思わず口元が綻ぶが頭の中は疑問符でいっぱいになる。
「座っててって言ったのに」
 追いついたマッシュは先の言葉通りワインを右手に、左手にはグラスを二脚ぶら下げていた。
 背中を押されて着席するものの、エドガーの呆けた表情は戻らない。
「なんだこれは、何かの祝いか?」
 エドガーの問いに驚く素振りも見せず、それどころか尋ねられるのが分かっていたかのように悠然と、マッシュは立てた人差し指で壁に掛かった暦を示した。
「今日。八月十六日だよ」
「……、あっ……」
 エドガーはほとんど銀色に変わった長い睫毛をぱちぱちと揺らし、心底驚いた様子で絶句する。
 忘れていた、とようやく絞り出された呟きで、ようやくマッシュが大きく吹き出した。
「だと思った。まるきり意識してなかったもんな」
「すっかり頭から抜けていたな……。まさか今日だとは」
「今までなら、今日になるまでいろんな衣装仮合わせしたり、挨拶考えたり、招待客のリストチェックしたり、当日も朝から準備だ式典だ夜会だって忙しなかったからな」
「確かにな。……そうか、誕生日か……」
 まるで自分に言い聞かせるかのように、エドガーは何度か誕生日、と呟き続ける。マッシュはその横でグラスにワインを二人分注ぎ、トプトプと耳に優しい音が静かな室内に響いた。
 二人が口を噤めば他に話す者は誰もいない。シンとした空間の中で、マッシュがエドガーの向かいに座るため椅子を引く音が際立つ。エドガー自作のからくり仕掛けの壁掛け時計から、普段は気にも留めない秒針の音がこの部屋の無音を強調した。
 エドガーはワイングラスを手に取って、夢でも見ているかのように揺れる葡萄色の液体をぼんやり見つめていた。その虚ろとも取れる芯のない表情を見て、マッシュが優しい声色で尋ねる。
「どうかした?」
「……いや……、静かだな、と思って、な……」
 言葉を取り繕った様子はなく、エドガーの心底本音なのだろう。静かだった。これまで当たり前に傍にあった、城の喧騒はここにはひとつもない。
 ずらりと控える臣下たちも、髪や衣装を整えるために群がる女官たちも、バルコニーから望む数多の民衆と彼らによる歓声も、何もない小さな飛空艇の中。
「淋しい?」
 問いかけたマッシュの目は穏やかに細められていた。
 エドガーは数秒考えるように顎を上げた。今のこの空気を身体に馴染ませているのか軽く辺りを見渡して、それからマッシュと向き合いたおやかに微笑んで、首を横に振る。
「いや。……これも、存外悪くない……」
 マッシュが微笑み返した。
 二人は腕を伸ばしてグラスを重ねる。祝いの言葉を贈り合うとすっかり空気は柔らかくなった。
 冷めないうちにとマッシュが料理を取り分け始める。エドガーが武器の調整にのめり込んでいる間、マッシュが腕によりをかけたささやかでありながら華やかなメニューは、エドガーの舌に馴染んで目尻を蕩けさせた。
 堰を切ったように昔語りに花が咲く。かつて過ごした砂の土地で、誕生日のこの日はあんなことやこんなことがあったものだと笑い皺の目立つ笑顔を突き合わせ、二人だけのパーティーは夜半まで続いた。
 過ぎ行く日々に溶け込んだ、今日この日は特別で平凡な寧日。