スパイラルソウル




 目の前で揺れていた二つの青いリボンが地面に沈んでいく。
 柔らかな金髪もまた次いで地に伏せたのを認めた瞬間、見開いた青い瞳から火花が散るような痛みと熱と怒気と恐怖を感じた。
 気づけばもう使うなとかつて師に諌められた技の構えを自然と取っていた。
 何も考えられなかった。ただただあの笑顔が見たかった、それだけだった。





 目覚めた直後のぼんやりした頭で、少しずつ周りの景色を噛み砕いていく。この壁と天井は見覚えがある。ファルコンの中だと少し遅れて思い当たり、それならとほんの少し動かしてみた指がやけに気怠くて力が入らない。
 仰向けに横たえた体と投げ出された手足には、きちんと毛布がかけられていた。ゆっくりと二度瞬きをする。少し肩が肌寒い。裸で寝かされていると気づいたのはその時だった。
 ずず、と頭を動かすと、ふいにすぐそばにある気配の塊が身動ぎした。まだ完全に開ききれていない瞼の隙間から懸命にその姿を捉える──粗末な木の椅子に浅く腰掛け、広げた足の膝の上で体を支えるように肘を置き、両手を組んで項垂れていたつむじが持ち上がる。そのうなじに青いリボンが揺れるのを見つけて、ほっと安堵の溜息が漏れた。
 ──無事で良かった。
 マッシュは心の中でだけそう呟いた。口に出せなかったのはベッドのすぐ傍に腰を下ろすその人が、青ざめて張り詰めた表情をしていたからだ。
 思わず苦笑いが零れる。ファルコンの船室、ベッドの上、戦いの汚れを綺麗に清められて横たえられた自分の体。手足には少しずつ感覚が戻りつつあるが、あの全身から生気が抜けるような技の後では治癒魔法もうまく働かなかったのかもしれない。毛布から少しはみ出た肩に触れる空気がやけに冷えて感じた。
 マッシュに対して目の前の人は厳しい表情を崩さず、意識を取り戻したマッシュを睨みつける。マッシュはますます苦々しく目を細めた。あにき、と小さく漏らした声は少しだけ掠れていたが充分音になっていたようだ。
 兄貴と呼ばれたエドガーの眉がぴくりと動く。マッシュを見据えるエドガーの青い瞳は、赤い絵具で縁取られたように血走っている。眉間に刻まれた皺は深く、普段感情をあまり表情に出さない彼らしからぬ分かりやすい怒りの主張にマッシュはただ笑うことしかできなかった。
 それがエドガーにとって気持ちを収めるどころか逆撫でする行為だと分かっていても、マッシュは苦笑を隠せない。エドガーのこめかみが青白い。どのくらい傍にいてくれたのか、兄の表情には疲れも滲んで見えた。穏やかな水面のような青い目が赤に侵食される様に、申し訳ないという気持ちと綺麗だ、という呑気な思いが生まれては混じる。
 きれいな人だ。これまで何度となく噛み締めた感情を改めて思い知る。
 無事で良かった。その瞳が閉じたままにならなくて良かった。美しい蜂蜜色の長い髪が地面に蹲ったままにならなくて良かった。青いリボンがいつまでも揺れていて欲しかった。
 溢れそうな言葉を決して口から零すことなく、ただマッシュは苦く微笑んだ。
「……あれは」
 ふとエドガーがぽつりと静寂を切る。唇が乾いていたためか、エドガーの声もまた若干の掠れを伴っていた。
「ダンカン師匠から継いだ技か」
 低い問いかけにははっきりと怒気が孕んでいた。マッシュは微笑したまま首を横に振る。
「あれは……俺が、作った。師匠には……もう、使うなと……止められていた」
 掠れた声で言葉を繋ぐと、はー、とエドガーが深く息をついた。溜息と言うよりは、彼の中に生まれたやり場のない熱をどうにか逃がすための必須作業のようであった。
「あれを……あの技を目の前で使われた俺の気持ちが分かるか」
 エドガーの声は怒りを隠さない。
 マッシュはへらと笑った。逆撫ですると分かっていてもそれしかできなかった。
「ごめん」
「……マッシュ!」
 椅子から立ち上がらんばかりに身を乗り出し、声を荒げたエドガーの髪が逆立って見える。この威圧で凄まれれば大抵の人間は腰を抜かすだろう。
 こんな兄の顔を見るのはいつ振りだろう。記憶は子供の頃に遡る。張り合って高い塀によじ登り、まんまと落ちたあの時だろうか。思い悩む兄に良かれと思ってお節介をしたあれ以来だろうか。いつだって兄は正しくその言葉に間違いはない。だから兄が怒るのは自分が悪いのだ。
 分かっていても尚、マッシュは情けなく笑うこと、同じ言葉を告げることしかできなかった。
「ごめん」
 エドガーがコツコツと爪先を鳴らす。珍しい、怒りを抑えきれない時の癖だ。マッシュのふわふわとした態度に焦れているのがよく分かる。
 エドガーはついに、マッシュにかけられている毛布をやや乱暴に半分めくり、体に添えられている片手を取って握り締めた。素肌に触れる外気が体を刺すが、マッシュはそれを不快だとは思わなかった。握り込まれた甲が指がエドガーの手の中で潰れても、その痛みは心地良ささえ与えてくれた。
 エドガーの震える睫毛の下で、ゆらゆら波立つ血走った瞳がマッシュの青い瞳を捉えた。屈服させるように、宥めるように、懇願するように、様々な色を持つその瞳をマッシュは恍惚の表情で眺めた。
「約束しろ、マッシュ。──俺の前で二度とあの技を使うな」
 ああ、きれいだ。
 マッシュは苦味が広がる笑みを浮かべ続ける。そして壊れた機械のように同じ言葉を繰り返す。
「ごめん」


 最後までイエスが言えなかった。
 ただただあの笑顔が消えなければそれで良かった。