袖に腕を差し入れた瞬間、まずいと直感した。しかし勢いを止めることができず、指先が袖口から出ると同時に、思った通り肩の辺りで布が裂ける嫌な音がした。 数本の糸が申し訳程度にしがみ付きながらもほぼ完全に抜けてしまった袖に腕を入れたまま、マッシュは向かいで試着の介助をしていた年若い侍女と顔を見合わせる。苦笑いが色濃く出たマッシュの表情に対し、侍女はみるみるその薔薇色の頬を青く変化させた。 ぎょっとしたマッシュは慌てて場を取り繕おうと、無残に裂けた袖が完全に取れてしまわないよう注意深く腕を抜き、引き攣った笑顔でわざとらしく明るい声を出した。 「あ、あれ? ちょっと小さかった、かな?」 顔を強張らせてぶるぶる震える侍女を横目で気にしながら、脱いだシャツを手元に引き寄せる。そこで襟に施された刺繍に気づき、記してあるEdgarの文字を見て、マッシュはやはり、と大きく頷いた。 「これ、兄貴のだな。デザインが同じだから、間違えるのも無理ないよ」 フォローのつもりで告げた言葉は、侍女にとっては死刑宣告に等しかったらしい。青ざめるを通り越して真っ白な顔色になった侍女が、掠れた声で申し訳ありませんと壊れた機械のように繰り返し始めたのを、弱り切ったマッシュは必死で宥める。 「大丈夫だよ、まだ祝賀会には日があるし、大体破いちまったの俺だから俺が悪いんだよ。腕突っ込む前に気づけば良かったんだ」 生気がなくガラス玉のようだった侍女の目が潤み始め、ぼたぼたと大粒の涙を零す様を前に、マッシュは頭をがりがり掻いて下着姿のまましばし彼女を宥めすかした。こんな時兄であれば、気の利いた言葉の一つや二つ簡単に用意できるのだろうななどと考えながら。 別件で現れた侍女に訝しげな目を向けられながらも神官長フランセスカを呼んでもらうことに成功し、気心の知れた乳母が泣きじゃくる侍女をやや呆れ気味に優しく落ち着かせたのを見て、マッシュはようやく安堵の息をつく。 「何事かと思いましたよ。貴方が女の子を泣かせたと言うから」 侍女を下がらせた室内で、新しいシャツを手にしたフランセスカが着衣を手伝おうとするのを手でやんわり制し、マッシュはそのシャツを片手で掬い取った。 「そんなつもりなかったんだけどなあ。俺が破いたのが悪かったんだし」 「祝賀記念会に向けて特別に作らせた衣装ですからね。それも破れたのは国王陛下のお召し物ですし」 フランセスカの皮肉を込めた口振りにマッシュは苦笑し、改めて用意されたシャツを自ら羽織って着心地の良さに肩の力を抜く。 今度こそ紛れもなく自分の寸法で作られた衣装を身につけ、襟に施されたMaciasの刺繍に指で触れた。 「まあ、まだ日にちはありますから。陛下の衣装は作り直しても間に合うでしょう」 「頼むよ。俺がもっと早く気づいてたら良かったな。腕入れた瞬間、小さいって分かったけど止められなかったんだよ」 眉を垂らして申し訳なさそうに笑うマッシュが着ているシャツの裾や袖の長さを手早く確認しながら、フランセスカは僅かに眉間を狭めて溜息混じりに呟く。 「全く、こんなことで泣いて立ち往生するだなんて情け無い。後で注意しておかなくては」 「あんまりきつく言わないでやってくれよな。まだ若いし慣れてなかったんだろ。何度も言うけど、破いたの俺だからさ。ビックリさせて悪かったって謝っといてくれよ」 フランセスカは小さく微笑み、分かりましたと小声で囁く。そしてマッシュが着たばかりのシャツのボタンを外し始めた。 「ぴったりですわね。では、当日はこちらの衣装で」 「うん、分かった。それにしても焦ったよ、きっちり全身測ってもらったはずなのに破けちまったからさ」 マッシュが脱いだシャツの皺を手早く伸ばし、フランセスカはまた微かに笑って、遠くを見つめるように目を細めてしみじみと口を開いた。 「昔は逆でしたね」 その言葉に一瞬ハッと目を見開いたマッシュは、すぐに表情を和らげてああ、と懐かしげに頷く。 窓から吹き込む風のように、幼い面立ちの二人の少年がマッシュの脳裏を並んで駆け抜けて行った。 *** 「あっ……」 ビリッという耳障りな音から遅れること一秒、エドガーが上げた声に隣のマッシュが振り返る。そして無残に破れて裂けてしまったシャツの肩口を見て、マッシュも同じ形に口を開けた。 驚くほど同じ顔をした少年二人は、しかし若干身長に差があった。エドガーを見上げる形で目を丸くしたマッシュへ、エドガーもバツが悪そうな視線を下ろす。 「まあまあ、大変。寸法が間違っていたのかしら」 驚いた乳母がエドガーのシャツを確かめる前に、まだ試着を始めていなかったマッシュはエドガーの襟に施されたMaciasのスペルに気づいてしまった。後ろでマッシュにシャツを着せようと構えていた侍女を振り返り、その襟を見ればEdgarとある。 乳母もすぐ事実に気づき、取り違えた侍女をやんわりと叱責した。平謝りする侍女たちを背に、複雑な表情を見合わせた双子の少年は肩を竦める。 乳母に頭を下げる侍女を待たずに破れてしまったシャツを自ら脱いだエドガーは、もう一人の侍女から本来自分が袖を通すはずだったシャツを奪って腕を差し込む。 「こっちはぴったりだ」 悪戯っぽく歯を見せて笑った兄のエドガーへ、マッシュは笑い返そうとして下がった眉尻を隠し切れなかった。マッシュの寂しげな笑みを察知したエドガーが、周りに気取られずに何事かと尋ねるため一歩歩みを寄せて顔を近づける。 「……双子なのに、どうして体が違うのかなって」 エドガーが真顔で瞬きをする。 毎年催される双子の王子の誕生を祝うパーティーに合わせて、エドガーもマッシュも同じデザインの特別な衣装を仕立てられることが常だった。 二人が不安なく一人歩き出来るようになった頃には全く同じサイズだった衣装は、しかし年々大きさに差が出るようになり、齢が十を迎える今年は遂にマッシュのシャツをエドガーが破るほどに体格に違いが出てしまったのだ。 同日に産まれた兄弟でありながら、滅多に風邪すら引かない兄に比べて頻繁に寝込む弟の身体は小さかった。身長だけでなく、近頃は肩幅や胸の厚みの違いも目立つ。 エドガーがそれを鼻にかける性格ではなかったことでマッシュは卑屈にならずに済んだのだが、全く気にせずにいられるほど楽天家でもなかった。 エドガーは暫し唇を真一文字に結び、負の感情を表に出せずに力なく笑うマッシュを見つめ、薄い肩に手を置いた。 「……大丈夫だよ。お前は大器晩成なんだ。必ず俺よりもデカくなるさ。そして俺よりも強くなる」 軽い口調でありながら、エドガーは冗談めかしてはその言葉を告げなかった。兄の気遣いだと理解していたマッシュが、思わず一縷の望みを感じてしまうほどには。 だから、ついマッシュは聞き返してしまった。 「……いつ頃?」 分かるはずもない、寧ろ叶うこともないだろうその問いに、エドガーは真剣な眼差しで考え込んで、まるで頭の中で何かの数式を解いたかのようにきっぱりと、 「二十年後くらいかな」 そう、答えた。 真っ直ぐな青い瞳の輝きを受けたマッシュは微かに頬を紅潮させ、口の中でにじゅうねんご、と小さく繰り返す。まだ想像もつかない、想像しようとすら思いつかなかった遥か未来の姿だった。 薄い胸の奥がどくどくと音を立てて活気付き、マッシュは言い知れぬ気分の高揚を感じて思わず胸に手を当てる。 二十年後の二人はどんな大人になっているのだろう。 果たしてこの身は大きくなっているだろうか、兄もまたどれほど凛々しく聡明に成長しているのだろうか──…… *** 丸一日気を張り続けた祝賀行事を粛々と終えた後の夜更け、侍女たちの世話を全て断り人払いした兄の私室に引きずり込まれ、この日のために揃いで拵えた衣装を二人共にぞんざいに脱ぎ捨てて、心身の疲労に反したのか乗じたのか、気付けば窓の外が薄っすら朝焼けの菫色を滲ませる頃までエドガーと裸で絡み合っていたマッシュは、生理的欲求に抗えず気怠い身体を渋々と起こした。 隣で意識を飛ばしかけているエドガーを刺激しないよう、そっとベッドを下りて手洗いに向かったマッシュが肌のベタつきを気にしながら戻ってきた時、ほとんど眠りに落ちていたはずのエドガーはベッドの上で身体を起こして衣服を身につけていた。 まだ朝と呼ぶには早い時間にすでに身支度を整え始めたのかと驚いて見ると、どうやら様子が違っている。 エドガーが羽織っているシャツは昨夜祝賀式典で着ていたそれであるが、兄の身体に合わせて作られたはずのシャツの肩幅がエドガーの肩に比べて大きく、継ぎ目が両の二の腕に垂れていた。訝しげに眉を顰めたマッシュは、床に蹲っていたもう一枚のシャツを拾い上げ、その襟にEdgarの文字を確認して納得する。 指先がはみ出た袖口を握ってまじまじと見つめるエドガーの背後に歩み寄り、マッシュは穏やかに呼びかけた。 「兄貴」 マッシュが近づいていたのを分かっていたようで、エドガーは驚く素振りもなく振り返る。素肌に両腕を通しただけのシャツはボタンを留められておらず、その合わせの隙間から覗く肌に自らがつけた赤紫の斑点を見つけて、マッシュは僅かに目を泳がせた。 「なんで俺の着てるの」 平静を装ってベッド端に腰を下ろすと、エドガーは軽く瞼を伏せて小さく上唇を尖らせた。 「随分育ったなあ」 何が、と聞きかけたマッシュは、すぐにエドガーが一回り大きなシャツを睨め付けている様を悟って苦笑した。昔は逆でしたね、と少し前の仮合わせで呟いたフランセスカの言葉が蘇る。 「お前、俺の服破ったんだってな」 四つん這いに手をつき、裸体にシャツ一枚を引っ掛けた格好でマッシュの元へ下肢を引きずるようににじり寄ったエドガーに手を伸ばして、マッシュは長い髪が乱れた頭を抱き寄せた。 「ばあやに口止めしてたのに」 「仮合わせの予定が遅れた理由を尋ねるのは当然だろう?」 「不可抗力だったんだよ」 低く笑いながら絡まったエドガーの髪を指で梳き、こめかみに唇を当てる。マッシュからの小さな口づけで反射的に目を閉じたエドガーは、下ろした瞼をゆっくりと開いて溜息混じりに呟いた。 「本当に追い越されるとはなあ。……二十年後くらい、か。我ながら先見の明があったもんだ」 小さくはあったがはっきりと聞こえたエドガーの言葉を拾い、マッシュは驚いて瞬きをする。──エドガーもまた、子供の頃のあのやり取りを覚えていたとは。 緩んだ唇で大きく笑みの弧を描き、マッシュは自分のシャツを着たエドガーの身体を両腕に囲って胸へと引き寄せた。 「兄貴の言うことに間違いはないからな」 悪戯っぽく返すと、エドガーが笑って揺れた身体の振動が胸から伝わってくる。 あの日エドガーが恐らくは何の根拠もなしに告げた言葉が、幼いマッシュに目標を与えた。兄の言葉通りに強く大きく成長した二十年後を目指して、今度は自分が兄を守る存在になれたらと。 将来の姿など想像も出来なかった子供時代から時を経て、こうして傍にいられる今に、一緒に歳を取ることが出来る日々に感謝を込めて、産まれた日から日付が変わった黎明の時にマッシュは改めて誕生日おめでとうとエドガーに囁いた。 顔を上げたエドガーが、二十年前と同じ色の青い瞳を優しく細めて微笑み、お前もおめでとうと応えてくれる。そのままもう一度頭を胸に預けて来たエドガーを、マッシュは力強く抱き締めた。 互いの姿が想像できなくなるほどの未来の世界でも、隣にいられますようにと願いを込めて。 |