甲板の冷たい床板に何も敷かずに寝っ転がり、両手を枕に脚を組んで、青空の中にゆったりと流れる雲を黙って見上げる。風があまり強くはないようで、雲の流れは遅い。しばらく見ていてもほとんど変わらない景色を、しかしマッシュはじいっと長いこと仰いでいた。 どたどた、と慌ただしく階段を上がってくる音がする。特に振り向きはしなかったが、その人物がぶつぶつ何やら呟きっぱなしで上ってきたため、ロックが来たのだとすぐに分かった。 「あれ、マッシュ何やってんだ? 日向ぼっこ?」 頭上からロックに見下ろされ、マッシュの顔に影が落ちる。マッシュは口角を少しだけ上げた。 「うん、そんなとこ」 「あのさ、セリス来なかったか? ちょーっと怒らしちまったんだよな……」 頭をがりがり掻きながらバツが悪そうに言うロックを見上げ、マッシュは小さく笑いながら答える。 「来てないよ。」 「そっか、もし来たら俺が探してるって……いやいいや、何でもない。じゃな」 「ああ」 足音が遠去かり、また甲板に静けさが戻る。 まだ雲の形はそれほど変わらない。場所もほんの少し動いただけで、マッシュはただ黙って変化の乏しい空を見つめ続ける。 やがて、再びぱたぱたと足音が響いて来た。先程のロックよりもずっと軽くて小さい、子供の足音。 「あれー、筋肉男何やってんの?」 高く通る声が降ってくる。ちらと目線を上げるとひょいとリルムが顔を出した。 「天気いいから、日向ぼっこ」 「暇人だね」 辛辣な言葉に怒るでもなく、マッシュは軽く笑った。リルムはスケッチブックを抱え、きょろきょろと辺りを見渡して怒ったようにマッシュを見下ろす。 「せっかくスケッチしようと思ったのに、邪魔なんだけど」 「ん? 構わず描いてていいぞ」 「そうじゃなくて、描きたい場所にあんたが入っちゃうの! デカい図体でこんなとこ寝っ転がってるんだもん」 「はは、そりゃ悪いな」 悪いと言う割に悪びれないマッシュにリルムは頬を膨らませ、もういい、と踵を返した。 「別の場所探す!」 「できたら見せてくれよ」 「べーだ」 憎らしくも可愛らしい捨て台詞を残し、来た時と同じようにぱたぱた騒がしく階段を下りる音が遠ざかって行く。 マッシュは再び天を睨んだ。まだ雲は僅かに崩れて動いただけ。景色ははっとするほどには変わらない。 そうしてどれだけ過ぎたのか、動かないマッシュの耳にまた靴音が聞こえて来た。 コツ、コツと一歩一歩踏みしめるように階段を上ってくるその音は、他の誰にも分からなくとも自分だけが分かる独特のリズムを持っている。 ──ああ、とうとう来てしまった。今一番会いたくなくて、逢いたかった人が。 足音は階段を上りきり、一度立ち止まった後は迷わずにマッシュに向かって歩いて来た。先程のロックのように上からひょいと顔が覗く。違うのは、肩から垂れた金色の髪の束が太陽に透けてとても綺麗だったこと。 マッシュを見下ろしたエドガーは、優しく目を細めていた。 何か言うべきかと口を開きかけたが、余計なことを零してしまいそうでやはり唇を結ぶ。いつも通りににこりと微笑んだつもりだった。 エドガーはうん、と小さく頷き、その場に膝をついてマッシュの髪に触れる。穏やかな瞳がより近づいて、マッシュの笑顔が凍った。 「……マッシュ。部屋においで。話をしよう、二人で」 低くて暖かい響きが耳から入り込んで胸を包む。やはりこの人は騙されてくれない。マッシュの笑顔が崩れ、口角は下がり眉も垂れる。 「うん……」 伸ばされた手を掴んでしまうともうダメだった。ぐしゃぐしゃに壊れてしまいそうな表情を思わず片手で覆ったまま、起こされて肩を抱かれ、顔を隠すようにエドガーに庇われながら、マッシュはようやく甲板から降りた。 部屋のソファに腰を下ろすと、エドガーがお茶を差し出してくれる。受け取ってすぐに口をつけたが、せっかちなエドガーが淹れたお茶は蒸らしが足りず風味が全くない。色のついた湯を飲んでいるようで、マッシュは苦笑する。 それでも体を温める効果は絶大で、肩から余計な力が抜けていった。独り言のようにマッシュが呟く。 「……俺、余計なことしちまった」 「ガウのことか」 分かりきっていたように返すエドガーに、マッシュは敵わないと肩を竦めた。 「お節介で、かえってアイツを傷つけちまって」 「……マッシュ」 「ダメだな俺、カーッとなると後先考えずに突っ走っちまう。俺があんなこと言い出さなきゃガウは……」 「マッシュ」 やや強めに名前を呼んでマッシュの言葉を遮り、エドガーは隣に腰を下ろした。 自嘲を含んだ苦い笑みで誤魔化そうとしたが、真横に座る人の温かい手が肩に置かれるとまた泣きたくなってしまう。 しかし泣く資格などないと分かっていた。良かれと思ってやったことが、結果として酷い現実を突きつけることになってしまったのだ。無理矢理マナーを叩き込み、言葉を教え、窮屈な格好をさせて……相手は人形ではなく心ある少年だったと言うのに、どうしてもっと気遣ってやれなかったのか。悔やんでも時は戻らず、ガウを傷つけた事実は変わらない。 マッシュの肩に手を置いたエドガーは、その手をぽんぽんと動かしてマッシュを宥める。 「マッシュ。お前はきちんと聞いていたか? あの子は、自分の言葉でしっかりと『幸せ』だと言ったよ。拙い言葉を繋げて、自分の気持ちを伝えてくれたんだ」 「……でも」 「あの子の顔を見てごらん。ガウはちゃんと笑っていたよ。兄のようにお前を慕ってくれているガウと、きちんと向き合わないでどうする」 エドガーの言葉に俯き唇を噛む。そういえば、申し訳なさであれからまともにガウの顔を見ていなかった。 エドガーはマッシュの頭に手を乗せ、らしくなく背中を丸めて座る弟の髪をくしゃくしゃと乱した。 「大丈夫、ガウは強い子だ。ぐじぐじ落ち込んでる暇があるなら、稽古のひとつでも付き合ってやれ。その方がガウもきっと喜ぶ」 「……うん……」 「……お前がいなかったら死ぬまで会えなかったかもしれないんだ。自分を責めるな」 「……兄貴」 堪え切れずに兄の肩口に額を押し当てた。エドガーはされるままにしていてくれる。ぴくぴくと背中が揺れ、震える呼吸が落ち着くまで、エドガーは何も言わずマッシュを受け止めた。 ず、と鼻を大きく啜り、真っ赤になったそれをごしごしと豪快に擦って、ようやくマッシュは作り物ではない笑顔を見せる。そんなマッシュを見てエドガーも安心したように微笑んだ。 「……ありがとな、兄貴」 「なんだ、改まって」 「だって俺、一人で腐ってたから」 ふふっと優雅に笑ったエドガーは、まだ手をつけていなかった自分のカップを手にして口に運ぶ。 「お前のためだけじゃないぞ、お前がいつまでも落ち込んでいたらガウも可哀想だからな。あの子は本当にお前が好きなんだよ、側から見ていると本当の兄弟みたいで」 マッシュは照れ臭そうに微笑んだ。 「う……ん、弟がいたら、あんな感じだったかなあって」 「お前の弟なら、俺にとっても弟なんだから」 「それはダメ」 予想と違う答えだったのか、エドガーが奇妙に眉を顰めてマッシュをまじまじと見る。 マッシュは苦々しく唇を尖らせ、薄っすら頬を赤らめてぼそりと呟いた。 「兄貴は……俺専用」 エドガーがぱちぱちと瞬きをする。 数秒止まった時は、エドガーが吹き出したことでようやく動いた。 「な、なんで笑うんだよ」 「いや、だって、お前、ああもうお前は……」 笑いを堪え切れないエドガーは、目尻に浮かんだ涙を指先で美しく拭って、飲みかけのカップをマッシュに差し出した。 「では愛する弟よ、このお茶をお前の淹れた美味しいお茶に取り替えてくれないか?」 芝居掛かったエドガーの台詞にマッシュも吹き出し、仰せのままにとカップを受け取った。 ふと窓の外を見ると、甲板で転がっていた時に見た空と全く違う色の景色が広がっていることに気づき、マッシュは軽い足取りで新しいお茶の用意をしに立ち上がった。 |