醜態




 昨日は飲み過ぎた。久しぶりに朝全く起きられなかった。頭は重く胃はムカつき、込み上げるものを堪えながらなんとか水を口にして、酔い潰れて飛んだ記憶の糸を手繰り寄せる。食堂で兄貴とセッツァーと飲んで、兄貴の部屋でまた兄貴と飲み直した。それから何とかして自分の部屋まで戻ってきてシャワーを浴びてベッドに転がったらしい痕跡はあるが、何時頃戻ってきたのかさっぱり覚えていない。
 どろどろの意識の中で兄貴の夢を見た。それまでずっと我慢してきた衝動を抑え切れずに無理矢理抱き締める夢だ。兄貴は最初は抵抗したけど強引に口付けてベッドに押し倒したらだんだん大人しくなった。最後は目を潤ませて俺に縋り付いてか細い声で俺の名前を呼び、そんな兄貴の中でイッてしまった生々しい夢だった。
 いくら夢とは言えこれは兄貴と顔を合わせづらいなと思っていたら、談話室に現れたどんよりした表情の兄貴が俺を見て顔を真っ赤に染めて目を逸らした。様子がおかしくて尋ねると、兄貴は気まずそうに目を泳がせながらなんであんなことをした、とぼそりと呟いた。
 ──もしや、あれは。
 夢じゃなかった……!?


 *


 腰が痛くて起き上がるのにいつもの五倍は時間がかかった。申し訳程度に体に纏わりついている乱れに乱れた衣類の残骸と、上半身を起こした途端に体の奥からどろりと流れてきた液体の感触に目眩を覚え、這うようにベッドを降りてシャワーを浴びた。
 夕べマッシュに犯された。夢じゃない。体はべたべたで胸は赤い斑点だらけ。何よりあの場所がヒリヒリ痛い。あんなデカイもの無理矢理突っ込まれたんだから当たり前だ。
 あいつは相当酔っていた。にしても酷い。いきなりキスしてきた時は酔っ払いのおふざけかと思ったが、そのまま押し倒されてあっという間にひん剥かれた。抵抗したが力では全く敵わない。後ろから突っ込まれて何年かぶりに痛みで泣いた。乱暴な癖にやけに優しいキスをするものだから、何だか絆されて最後はあいつにしがみつきながらみっともない声を上げてしまった。思い出すだけで卒倒しそうなくらい恥ずかしい。
 どんな顔であいつに会えばいいんだ、どんな言い訳をしてくる気だとドキドキしながら向かった談話室で、あいつは実に間の抜けた二日酔いの表情でぼーっと立っていた。何か用かと言いたげな阿呆面を前に思わず拳を握り締めた。


 *


 恥ずかしそうに目の縁を赤く染めながらチラチラとこちらを睨む兄貴を前に、一気に血の気が引いて胃の不調がぶり返す。迫り上がってきたものを堪えるために口を手で覆うと兄貴がギョッとして洗面所に誘導しようとしてくれるが、兄貴の動きがぎこちなくてやけにガニ股なのを見てやはり夢ではないと思い知った瞬間、洗面所に一歩届かず廊下でリバースした。
 頭を抱える兄貴の背後でセッツァーがこの世の終わりみたいな悲鳴を上げていたが、どちらにも気遣う余裕がなく壁に背中を預けてへたり込む。
 何てことしてしまったんだ。ずっと大切にしてきたのに。このまま一生大事に抱えて行こうと思ってたのに、酔った勢いで手を出してしまうなんて。
 酔ってたせいで全然覚えてない。細かいとこが思い出せない。どうせなら、もうちょっとこう……表情とか、声とか、感触とか、ちゃんと心に刻みつけておきたかったのに! 俺の馬鹿! もう一回やり直したい!
 心の声がどうやら口に出ていたようで、わなわな震える兄貴が握り締めた拳を俺の脳天に繰り出した。その衝撃で再びリバースしてしまい、飛ぶように駆けてきたセッツァーにまで脇腹に蹴りを喰らってそのまま意識が遠くなった。


 *


 分かってない様子のマッシュに腹が立つものの、夕べの情欲に揺れる真剣な眼差しを思い出してしまってまともに顔が見られない。我ながら情けないほど小さな声でなんであんなことをした、と問い詰めると、呆けていたマッシュの目が点になった。それからみるみる青くなり、うっと呻いて口を手で押さえる仕草に仰天して慌ててデカイ図体を洗面所へと引っ張るが、腰もアソコも痛くて素早くは動けない。
 もう少しで辿り着くというところで一歩間に合わず嘔吐したマッシュのゲロがマントについて頭を抱える。おまけにセッツァーの蛙が潰れたみたいな悲鳴が後ろから聞こえてきた。嫌なところを見られてしまった。
 へたり込んだマッシュがゲロを垂らしながらもう一回やり直したいなどとほざくので、プツンと頭の中で何かが音を立てたと思った瞬間拳をマッシュの脳天に叩き込んでいた。それが引き金になったのか更に嘔吐したマッシュにセッツァーが飛び蹴りを食らわし、気絶した巨体を前に血走った目でこちらを睨みつけてくる。
 てめえの弟の始末はてめえがつけろと詰め寄られ、涙目でマッシュのゲロを掃除した。絶対に許さん。どれだけ謝られようが絶対に!!


 *


 胃が重苦しい。頭が痛い。鈍痛の他に頭頂部と脇腹もズキズキ痛い。
 口の中が気持ち悪くて水が欲しい。やはり昨日は完全に飲み過ぎた。普段あんなに酷い酔い方をすることはなかったのに、どうして昨日に限ってあんなことになってしまったんだろう。
『お前は真面目すぎるな。少しくらい遊んだ方が男が上がるぞ』
 ああ、兄貴の声が甦る。
『今時流行らんぞ、相手だって遊んでるかもしれないのに』
 ずっとずっと好きだった人が目の前で遊べだなんてとんでもないことを言い出したんだった。遊びで誰かに手を出すなんて考えられない。だって貴方が好きなのに。他の人なんか目に入らないのに。貴方を抱き締められたら他には何にもいらないのに、その口で俺に遊べと言うなんて。
『じゃあとっととモノにしちまえ』
 その一言でぷつりと俺の理性の糸が切れてしまった。大事に守ってきた想いが悪い形で暴走するのを止められなかった。
 初めて触れた唇、初めて触れた素肌。無茶をさせて泣かせてしまった。あんな辛い思いをさせたかったわけじゃないのに。


 *


 魘されながらベッドで身動ぎするマッシュの傍に腰を下ろして溜息をつく。全く人の気も知らないで。嘔吐の世話もここまで運ぶのも一苦労どころじゃなかったというのに。
 それでも眉間に皺を寄せて苦しそうに眠るマッシュを見ていると少し心配になってしまうのだから自分は甘いのだろうか。大体夕べは飲み過ぎだ。普段あそこまで前後不覚になるほど酔っ払うことはないのに、どうしてこんなことになったのか。
 昨夜の会話を思い出してみる。大した話はしていなかった。そういえばマッシュの女っ気がないのをからかった記憶はある。
『お前は真面目すぎるな。少しくらい遊んだ方が男が上がるぞ』
『嫌だよ、遊びなんて』
『どうして。いざという時困るぞ』
『困らないよ。それに、……好きな人に失礼だ』
『今時流行らんぞ、相手だって遊んでるかもしれないのに』
『……俺は好きな人としかしたくない』
『じゃあとっととモノにしちまえ』
 そこまで話した途端、無理矢理抱き竦められてキスされた。つまり、……どういうことだ。


 *


 ぼんやり目を開けると天井が波打って見えた。まだ頭がグラグラする。水、と呟くと頬に冷たい感触があり、振り向けば仏頂面の兄貴が水の入ったコップを頬に押し当てていた。
 無言で突き出されるコップを受け取りながら体を起こし、一口含む。口の中の不快感が少しずつ抜けていく。ああ、そういや廊下で派手にやらかしたんだった。セッツァー怒ってるだろうな。
「……昨日のこと、覚えてるのか」
 ふと兄貴が口を開いて心臓がキュッと縮む。覚えてるような、覚えてないような。気まずく顔を歪めて背中を丸めた俺に、少し頬を赤らめた兄貴が目線をあさっての方向に向けながら続けた。
「その、なんだ。夕べ、からかったのは……悪かった」
 思いがけない謝罪に驚いて目を見開くと、兄貴は相変わらずこちらに見ないようにそっぽを向いて、尖らせた口でぼそりと尋ねてきた。
「お前。……なんであんなことした」
 態度と裏腹にストレートな問いに、もう隠し切れないと悟って諦めて口を開いた。
「……兄貴に言われた通りにした」
 兄貴は赤い顔のまま青い目を落ち着きなく彷徨わせる。俺の言葉の意味が分かったのだろうか。


 *


 唸り声の後にマッシュが薄っすら目を開けた。まだ夢から覚めきらない顔で水、と呟いたので、用意していたコップを頬に押し付けてやった。
 驚いて振り向いたマッシュと向き合うのが気恥ずかしく、無愛想な顔になっている自覚はある。上目遣いでコップを受け取る目の焦点が定まらないマッシュに何と声をかけるべきか迷った。
 さっきは昨日の記憶も怪しい雰囲気だった。自分がしたことを覚えているだろうか? ……その前の会話も覚えているのだろうか?
「……昨日のこと、覚えてるのか」
 呟きにマッシュが体を竦ませる。この様子なら覚えているのかもしれない。弟の背中にしがみ付いて嬌声を上げた自分の醜態が甦り顔が熱くなる。まともにマッシュを見ることができない。
「その、なんだ。夕べ、からかったのは……悪かった」
 ひとまず自分の失言は詫びた。真面目な弟をからかうにしても度が過ぎたのは事実だ。
「お前。……なんであんなことした」
 マッシュが倒れる前に尋ねた言葉を繰り返す。マッシュは少し迷い、それでも観念した様子で、
「……兄貴に言われた通りにした」
 そう、告げた。ああ、それはつまり……


 *


 兄貴が明らかに狼狽えている。兄貴に言われた言葉、『とっととモノにしちまえ』。それでカッとなって無理やりした。ずっと好きだった気持ちを馬鹿にされた気がした。でもそれは俺の勝手な解釈で、勝手に好きになって勝手に抱えて勝手に爆発した俺が全部悪い。どんな理由があってもあんな乱暴はしてはいけなかった。
 兄貴は相変わらず視線を泳がせて、何か口の中でブツブツ言っている。理解できないことを自分なりに整理して飲み込もうとする時の兄貴の癖だ。要するに俺の想いは兄貴には理解不能な事柄で、昨日のことは兄貴に苦痛を与えただけの無意味な行為だったということだ。
「酷いことして……本当に、ごめん……」
 酒のせいにするのは簡単だが、果たして酒が入っていなかった時にあの衝動を抑えることができたのか。太腿に絡みつく毛布を握り締めて俯くと、兄貴が上擦った声でぶっきら棒に呟いた。
「……め、めちゃくちゃ……痛かったぞ」
 責めるというよりは茶化してごまかそうとする兄貴の様子に胸が痛み、このまま自分の想いが有耶無耶に葬られる可能性に怖れを感じた。顔を上げて兄貴を見ると、兄貴は首まで真っ赤になって情けなく眉を下げ、俺は思わず目を疑った。


 *


 俺の言われた通りにした、とマッシュが言った。俺が言ったのは好きな人をモノにしろ、とそんな感じだ。それで俺に飛びかかってきたということは、つまり、ええと、多分、それは、まさか、でも。あれっでもマッシュは弟だよな? それ以前にどう見ても男だもんな? お、俺も男……だな。お互い間違っちゃいないよな。
「酷いことして……本当に、ごめん……」
 沈んだ声にはっと顔を上げると、マッシュが俯いている。まあ、確かに酷かった。痛くて死ぬかと思った。でもまあ乱暴だったのは最初だけで、後の方は結構優しかったなー、なんて……
 思い出したら熱が出そうだ。あんなふうに抱き締められたのは初めてだった。泣きながら縋り付く俺の目尻の涙を唇で吸われてぼーっとしてしまっただなんて。あの子供だったマッシュが体もアソコも大人になってて、ギラつく瞳に射抜かれたら腰から力が抜けてしまっただなんて……
 いかん、恥ずかしくてたまらん。どうにかごまかさないと顔がきっと真っ赤だ。
「……め、めちゃくちゃ……痛かったぞ」
 ダメだ、声が上擦ってる。絶対変な顔をしてる。見ないでくれ、と願った瞬間顔を上げたマッシュと目が合った。


 *


 兄貴の困ったような顔が可愛くて、らしくなく耳から首から肌の見えるところが全部真っ赤になって、ああ、抱き締めたいと不埒な感情がまた頭を擡げる。兄貴が好きでたまらない。ただ力任せに征服したかったんじゃない。
「……痛くしてごめん」
「い、いや、その、そこまででは」
「本当は優しくしたかった」
「う、ん、まあ、結構、優しかった、ぞ?」
 何だか噛み合わない。兄貴が思ったより俺を拒絶する風ではないことに変な期待を持ってはいけないと分かっているが、それにしたってこんなに赤い顔でもじもじされたら諦められなくなる。
「……俺、兄貴が好きだよ」
 とうとう言ってしまった。墓まで持っていこうと思っていた俺の気持ち。どうせ叶わない、せめて生涯隣にいたくて封印するつもりだった想いを伝えると、兄貴はまた目をうろうろと迷わせて、辿々しく言葉を繋いだ。
「その、正直、よく分からんのだ」
「……うん」
「……よく分からんから、うーんと……もう一回、やり直して、みるか?」
 ……ついに幻聴が聴こえるようになったのか?


 *


 マッシュがなんだか酷くいじらしい目で見つめてくる。やめてくれ、そんなふうに見られたら何だか胸が……元々マッシュの子犬みたいな目には弱いんだ。おまけに夕べの雄々しい一面を見てしまったから、ギャップで息が詰まりそうに苦しい。
「……痛くしてごめん」
「い、いや、その、そこまででは」
 今も尻の奥に鈍痛が走るのについ取り繕う。
「本当は優しくしたかった」
「う、ん、まあ、結構、優しかった、ぞ?」
 優しかった、これは嘘ではないが、最初は野獣みたいだったのも本当だ。なのにマッシュを責められない自分がいる。
「……俺、兄貴が好きだよ」
 切なげに純粋な愛の言葉を囁かれたら、笑って誤魔化すどころか頬が緩むのを抑えるのに必死だ。何だこれは? かつてここまで人からの告白で胸を揺さぶられたことがあっただろうか?
「その、正直、よく分からんのだ」
 本音を漏らすとマッシュが真摯に頷いた。
「……よく分からんから、うーんと……もう一回、やり直して、みるか?」
 倒れる前にマッシュが呟いた言葉を汲んで口に出すと、マッシュの体が固まった。


 *


 ──やり直す、とは。どこからだろう。酒を飲むところから? そんなまさか。では、では。
「そ、それって……」
「きょ、今日は無理だ!」
 思わず身を乗り出した俺を制するように兄貴が両手を突き出す。その様子から自分の想像が間違っていないと察した俺は、呆然と口を開けた。
「……嫌われたと思ってた」
「嫌いに、なれるはずがないだろう……」
 か細い声で零す兄貴が無性に愛しくて、あれだけのことをしたのに拒まずにいてくれることが嬉しくて、何だか視界がぼやけてしまう。兄貴はまだ真っ赤な顔のままほんの少し眉を吊り上げた。
「……でも、お前が吐いた後の処理させられたのは許さん」
「ご、ごめん」
「マントも汚れた」
「……ごめんなさい」
「……なのに嫌いになれない。……どうしてくれるんだ」
 苦しそうに細められた目を覆う睫毛が艶っぽくて、喉がごくりと音を立てる。
「……責任、取る」
 思わず口走ると兄貴の目尻が少し下がった。


 *


「そ、それって……」
「きょ、今日は無理だ!」
 急に鼻息が荒くなったマッシュを押し留めるように腕を突き出す。まだ痛む場所が癒えてない。自分でもどうかしてると思うが、最初から優しくされていたらあんなに辛くなかったんじゃ、なんて、すっかり絆されてしまったのだろうか。
「……嫌われたと思ってた」
 マッシュがぽつりと零した呟きが胸に刺さる。
「嫌いに、なれるはずがないだろう……」
 見るのも嫌だと拒絶できたらいっそ楽だったかもしれない。酷い目に遭ったのは事実だし、おまけにゲロの後始末までさせられて、そこは本当に腹が立つのだけれど。
「……でも、お前が吐いた後の処理させられたのは許さん」
「ご、ごめん」
「マントも汚れた」
「……ごめんなさい」
「……なのに嫌いになれない。……どうしてくれるんだ」
 胸の痛みを声にして吐き出すと、
「……責任、取る」
 弟の男らしい宣言に痛みが疼きへと変わった。


 *


 マッシュの胃の不調はその日の午後には落ち着いたが、頭にできた大きなたんこぶと脇腹に酷い青痣が消えるまでは何日もかかり、それでも妙に晴れやかな表情でエドガーのマントを洗って干す姿が目撃された。
 それから数日間体調不良だと言って歩きにくそうにしていたエドガーだったが、やがて復調した時にはいつも通り背筋を伸ばして戦闘にも参加し、しかし時折切なそうにため息をついて遠くを見ている様子を女性陣に追求されて顔を赤らめたりして、珍しいこともあるものだと仲間たちに首を傾げられたりしていた。
 さらに数日後、人目を偲ぶように夜半エドガーの部屋のドアをノックしたマッシュが室内に入ったまま朝を迎え、次の日のエドガーもマッシュもやけにぼんやりと気もそぞろで、床にコーヒーをぶちまけたり、壁に頭を打ち付けて壁板にヒビを入れたり、洗面所の鏡を殴りつけて粉々に割ったり、突然奇声を上げてその声にびっくりしたウーマロが柱をへし折ったりして、セッツァーの悲鳴が響き渡る一日となった。
 それまでも仲睦まじかったフィガロの双子の距離がその日を境に更にぐぐっと近づいたことに気づいたものは、幸い誰もいなかった。