七夕




 夕間暮れの空にぼんやり白い月が浮かぶ頃。

 部屋にも談話室にもキッチンにも見当たらなかった姿をようやく甲板で見つけ、エドガーはほっとすると同時に首を傾げる。
 探し人のマッシュは、何やら葉が鈴なりになった枝を船体と甲板を繋ぐ柱に括り付けていた。
「マッシュ」
 名前を呼ばれて振り向いたマッシュは、手早く巻きつけた紐を縛り枝を固定させて立ち上がった。エドガーが近づいてくる間に強度を確認しているのかゆさゆさと枝を揺らす。
「何だそれは?」
「ああ、七夕なんだって」
「タナバタ?」
「カイエンに教えてもらったんだよ」
 マッシュは枝が動かないことに満足したのか、使っていたハサミや紐の残りを拾い上げ腰紐に突っ込んだ。どうやら作業は終わったようだ。
「年に一度、空でデートするんだってさ。遊んでばっかりで怒られた夫婦のお星様が、七夕の日には会えるんだって」
 エドガーがああと頷く。
「織女と牽牛か。城の図書館に本があったな」
「そうだっけ?」
「で、それとこの不思議な儀式と何の関係があるんだ」
 エドガーが見下ろすそれは何処にでも生えている木の枝だったが、生い茂るのは葉ばかりで花の一つもない。飾るにしては色気がなさすぎる。
 マッシュは空の色に合わせて薄暗くくすんだ葉先を指で弄りながら答えた。
「これに願い事を吊るすんだって」
「願い事?」
「ドマの方では毎年七夕の日にササとか言う木の枝を立てて、そこに願い事を書いてぶら下げるんだってさ。そうしたらお星様が願い事を叶えてくれるとか」
「へえ、年に一度のデートだと言うのに酔狂なご夫婦だ」
 エドガーが真面目に呟くのでマッシュは思わず声を出して笑う。
「ササってのはこの辺りじゃ見つからなかったから、そこらの枝だけどな。カイエンの話を聞いてガウとリルムがやるーって盛り上がっちまって、それでこれ」
「成程」
 それでは今頃お子様たちが必死で願い事を書いている最中という訳か──納得したエドガーも葉っぱを一枚摘み、手前に引いて離すと枝は小さく揺れた。
「もう少しで空も真っ暗になるから、セッツァーに頼んで高度を上げてもらおうかと思って。今日の天気なら七夕の星も見えるかもしれない」
「ふふ、あの男がぶつぶつ言うのが目に浮かぶなあ」
「あれで結構面倒見いいよな」
 今頃くしゃみをしているだろうと笑い合い、そろそろ下へ戻ろうと促すエドガーにマッシュも続く。甲板から室内へ繋がる階段を降りかけて、ふとエドガーが先に続く自分の長い影に気づいて振り向いた。
 少し離れて後ろにいたマッシュも釣られるように振り向き、頭上の空を見て眉を上げる。
「ああ、月が」
「かなり暗くなったな。その夫婦の星とやらは見えそうかな?」
「どうだろう?」
 二人は踵を返し、甲板の先端まで来ると縁に手をかけて天を仰いだ。先ほどよりは色濃くなった空に月明かりが輝き、ぽつぽつと星の光も主張し始めているのが見える。しかし目当ての星がどれなのか、今肉眼で確認できるのかはエドガーにもマッシュにもよく分からなかった。
 ふと、マッシュは顎を上げて空を見澄ますエドガーの横顔に目をやった。時折瞬きで青い瞳が隠れるのを少しの間見つめてから、おもむろに尋ねる。
「兄貴なら……願い事、なんて書く?」
「ん?」
「七夕のお願い事」
 マッシュの問いにエドガーは少し考える素振りを見せて、困ったように軽く笑った。
「叶えて欲しい願いはたくさんあるが、そうだな、今ならやはり『世界に平和を』かな」
「さすが」
「俺にとってもフィガロの民にとっても、一番効率の良いお願いだ」
 人差し指をそよがせて得意げに説くエドガーの言葉を、マッシュはうんうんと黙って聞く。エドガーを誇らしそうに見つめるマッシュがその後の会話を続けないのに肩を竦め、エドガーもまた「お前は?」と質した。
 するとマッシュは微笑んだまま首を横に振る。
「俺は願い事は書けない」
 エドガーが眉を顰める。
「何故?」
「お星様じゃ叶えられない願いだから」
 エドガーは短く笑った。
「馬鹿だな、そんなこと皆分かって──」
「そうじゃないんだ。……俺の願いは、兄貴が幸せになること、だから」
 エドガーの笑顔が消えた。
 改めて隣のマッシュを振り向くと、マッシュは少し細めた青い目をしっかりエドガーに向けて、その引き締めた唇に優しい笑みを乗せていた。
「お星様には任せられない。俺じゃないと、叶えられないだろう?」
 エドガーは言葉を詰まらせ、平静を装おうとしたのか少し視線を泳がせたが、裏腹に頬が僅かに紅潮してしまい観念して照れ臭そうに微笑んだ。
「……そう、だな。お星様には、無理だな」
「だろ」
「……叶えてくれるのか? お前が……」
「叶えるよ、絶対」
 軽く握った拳をそっと自分の胸に当てたエドガーは、そのまま頭を傾けてすぐ隣のマッシュの肩にぶつけた。マッシュはその頭を大きな手で撫で、柔らかい髪にそっと唇を寄せた。
 火点し頃も過ぎて宵の口、月明かりと薄っすら走る天の川の下、二人の影はしばらく動かなかった。





「ねー、いつになったらお願い事吊るしに行けるの!?」
「ガウ、もう待てない! 待てないぞ!」
「もーーーちょっとだけ待て! もーーーちょっと!!」
 甲板に繋がる階段の下、ガウとリルムに詰め寄られたセッツァーがかれこれ数十分も二人を押し留めるのに汗だくになっていた。
(あのバカップル双子、早く降りて来やがれ……!)
 セッツァーの願い事がお星様に聞き入れられるまで更にあと三十分は必要だと言うことを知る由もなく、孤独な戦いは続くのだった。