手紙




 走らせていたペンが最後のサインを記し終え、手を止めたエドガーは無意識に溜息を零す。思いの外大きな呼気がペンを飾る羽を揺らし、ようやく自身の疲労を悟ったエドガーは、ペンから手を離して首をぐるりとひと回しした。
 机の端に置かれたままのカップには琥珀色の液体が僅かに残っているが、冷え切ったそれは風味が衰えていることが飲まずとも見て取れた。
 それでも喉の渇きに耐えかねて、渋々手を伸ばしかけたエドガーの耳に軽快なノックの音が届く。思わず目を輝かせて顔を上げたエドガーは、浮かれた気分を声には出さないよう努めて涼しげに返事をした。
「どうぞ」
 開いたドアの向こう側、予想通りにマッシュが現れたことでエドガーの表情が遠慮なく緩む。
 マッシュが手にしたワゴンの上に、ティーコーゼを被せたポットと二客のカップ、そして小ぶりのアップルパイがホールサイズで乗っていることを目敏くチェックして。
「お疲れ様、兄貴。そろそろ休憩かなと思って」
「最高のタイミングだ」
 椅子から腰を上げたエドガーが両手を広げて歓迎のポーズを取った。朗らかな笑顔を見せたマッシュは、ローテーブルにクロスを広げてティータイムの準備を始めようとして、ふとポケットから白い封筒を取り出した。
「ああそうだ、さっき届いたんだ。兄貴、これ」
「手紙? 誰から?」
 ソファに移動しながらマッシュが差し出した封筒を受け取ったエドガーは、送り人のサインを見て眉を持ち上げながら破顔する。
「ティナか。久し振りだ」
「最後に会ったのはいつだったっけな。モブリズに学校を作る話が出たばかりの頃だから……もう一年くらい経ったかね」
「そんなになるか。よし、ペーパーナイフを持ってくるから、お前は早いとこその美味そうなパイを切り分けておいてくれ」
「はいはい」
 執務机に取って返す兄を、ケーキナイフを手にしたマッシュが苦笑いで見送った。



「ふうむ」
 ティーカップから唇を離し、ダージリンが香る吐息まじりに呟いたエドガーは、穏やかな微笑みを浮かべてマッシュに便箋を手渡す。
 エドガーが手紙を読み終わるのをアップルパイを頬張りながら待っていたマッシュは、口の端についたパイの欠片を親指で落としてからそれを受け取った。
「ティナ、何だって?」
 手紙を読みながらその内容を尋ねる弟に、エドガーは穏やかな笑みを見せた。
「元気にやっているようだ。開校準備が進んでいるようだよ。少し前にセッツァーが訪ねて来て、リルムが描いた絵画を届けてくれたらしい」
「へえ!」
 マッシュが眉を持ち上げて便箋に並んだ文字を追う。エドガーが話した内容に追いついたのか、小さく何度か頷きながら目線を左から右へと動かすマッシュの眼差しは柔らかくなっていた。
「リルムが新しい学校に飾る絵を描いたのか。どんな絵だろう、見てみたいな」
「ストラゴスお手製の着ぐるみもたくさん入っていたとあったな。子供たちが喜んだだろうね」
「モブリズまでわざわざ届けるなんて、セッツァーもいいとこあるじゃん」
 同意を求めてマッシュが手紙から顔を上げると、対面のエドガーはしかしつまらなさそうに、目を据わらせて軽く肩を竦めた。
「フィガロには全く寄り付かない癖にな」
 エドガーの毒のある口調にマッシュは苦笑いを見せる。
「そりゃ、やっぱり兄貴が勝手にファルコンのエンジン改造しようとしたからだろ」
「ただの改造じゃない、改良だぞ。間違いなく馬力が上がったろうに」
「弄りたいだけだってバレてるんだよ。あれからずっと来てないもんな、もう兄貴が自分で飛空艇作っちまえよ」
 冗談めいた言い方ではあるが、真っ直ぐなマッシュの眼差しには本気の熱がこもっていた。エドガーは満更でもないように青い目をぐるりと回し、カップの中の波紋に視線を落として無言の微笑みを浮かべる。
 マッシュもまた小さく笑い、再び手紙に目を向けた。
「カイエンからもたくさん手作りの花が届いたみたいだな。教室に飾るって。俺たちも前にもらったよな、ほらこの前、城でドマとの会談があった時」
「ああ、あれか」
 立ち上がったエドガーは、執務机に向かって右側上から二段目の引き出しを開けた。そこから長方形で硬質の薄い紙片のようなものを取り出して、マッシュが囲むローテーブルへと戻って来る。
 エドガーが差し出したそれを見て、マッシュは笑顔で頷いた。
「そう、それ。カイエン手作りの栞」
 マッシュはエドガーから栞を受け取り、小さな造花が施された可愛らしくも品のあるデザインに目を細める。
「兄貴と俺にお揃いでくれたんだよな。俺、今読みかけの本に挟めてるんだ」
「小さなものほど作るのが難しいと力説していたよな。この花びらの細かさは確かに見事だ、カイエン、腕を上げたなあ」
 青い花を携え、ドマの紋が描かれた栞を間に、二人は顔を見合わせて笑った。
 そういえば、とマッシュが何かを思い出したように空を仰ぐ。
「あの時はガウも一緒だったよな。大分身体がデカくなって」
「そうそう、窮屈そうに服を着ていたな。お前が訓練場に連れて行ったらすぐに脱いでしまったんだっけ」
「そうなんだよ、ずっと我慢してたみたいで跳ね回ってなあ。でも帰る時はまたきちんと服を着て、カイエンの隣で大人しくしてたんだ」
 カップに唇をつけたエドガーが目を伏せ、喉が軽く上下に動いた後に開いた瞳は、何処か懐かしい景色を見つめるように遠くに向けられていた。
「まるで本当の親子のようだった」
「うん」
 マッシュは左手に便箋を持ち、右手をフォークに伸ばす。一口分にしてはやや大きめのアップルパイを口に放って咀嚼する様に目を向けたエドガーは、軽く吹き出して自分の右頬を指先でトントンと叩いた。合わせ鏡のように左の頬を触ったマッシュの顔から、パラパラとパイの屑が落ちる。
 膝に落ちたパイ屑を悪びれずに手で払ったマッシュは、まだ口中に残ったパイを紅茶で流し込んだ。
「あの会談ももう半年くらい前だっけ。ドマも少しずつ人が増えて来たって聞いてるし、また行ってみたいもんだな」
「そうだなあ。人が増えたと言えば、ナルシェも随分と様変わりしたらしい。魔物に壊された設備もすっかり新しくなって、以前よりずっと明るい街並みになったそうだよ」
 そこまで話したエドガーが残った紅茶を飲み干しカップを置くと、すかさずマッシュがポットからコーゼを外しておかわりを注いだ。
 新たに立ち上る湯気を囲み、二人は感慨深げに瞬きで睫毛を揺らす。
「かなり荒れ放題になってたもんな。長いこと人が戻らなかったから」
「モグとウーマロが復興の大きな手助けになってくれた。フィガロからも応援の兵を向かわせたが、あの二人がそれぞれ十人分の働きをしていたそうだ」
「ウーマロが折れたパイプを何十本もいっぺんに運んでたって報告が来たんだよな」
 マッシュが肩に荷物を担ぐ仕草をすると、エドガーが小さく声を出して笑った。
「モグはあれから仲間を探す旅に出ると言っていたが、時々ティナのところにも顔を出しているようで安心したよ。皆ティナのことは気にかけていると見える……手紙にはゴゴのことも書いてあったな」
 マッシュは重ねられた便箋を再度一枚目から読み流して、二枚目で該当の箇所を見つけたのか僅かに目を見開いた。
「数ヶ月おきにみんなの物真似してやって来るなんてな。俺や兄貴の物真似もしたのかな」
「そうかもしれんな。ふふ、ティナも驚いただろう。本気を出したゴゴの物真似は本人としか思えなかったからな」
「でも俺、兄貴の物真似してたゴゴを見破ったことあるぜ」
 得意げに顎を撫でるマッシュを前に、当然だろうと言った様子でエドガーがやれやれと首を振る。
 子供っぽく歯を見せて笑ったマッシュだったが、ふと目線を落として眉尻を下げ、口元の笑みを苦く緩めた。
「こうやってみんなの話してると、やっぱりシャドウのことも思い出すな」
 マッシュの言葉で一瞬カップを持つ手の動きを止めたエドガーは、持ち上げていたそれをゆっくりと下ろす。
 広げた足の両膝の上にそれぞれ肘を置いて、押し黙った兄を覗き込むように見上げたマッシュは、先ほどまでの朗らかな声から一転、低い声色でエドガーに問いかけた。
「シャドウの捜索……手応えないんだろ?」
 エドガーは返事の代わりにまずは深く細い息を吐く。
 それから軽く肩を竦め、今度はしっかりカップを持ち上げて紅茶を一口含んだ。
「良い報告は来ていないな。各地を探させてはいるが……何しろ我々でさえあの覆面の下の顔を知らないんだ、見つけることは容易ではないさ」
「瓦礫の塔はもう跡形もなくなっちまったしな……」
「なあに」
 薄ら笑みを湛えた唇で高めの声を出したエドガーは、神妙な顔つきの弟に優しくも力強い眼差しを贈る。
「シャドウのことだ。きっと何処かに逃げ延びているさ。……二年ほど前にストラゴスから聞いた話だが、サマサに連れて来たインターセプターが真夜中に遠吠えをしたことがあったらしい」
「へえ」
 マッシュが瞬きの後にエドガーを瞠った。
「普段は無駄吠えもせず大人しくしているそうだよ。理由もなく吠えたのはただの一度きり、それを聞いた時にもしかしたら……、と、ストラゴスは話していた」
「そうか……。……きっと、そうだな」
 表情から険しさを緩めたマッシュを見て、エドガーもまた安堵に目尻を下げてカップの中身を飲み干す。再びポットに手を伸ばそうとしたマッシュへ、無言で首を横に振りながら手のひらを向けた。そしてカップから手を離し、軽く肩を回してふっと力を抜く。
「懐かしい時間だった。ティナの手紙のお陰で久し振りにゆっくり皆の話が出来たな」
「そうだな! 何だかみんなに会いたくなっちまったよ」
 空になった皿やカップを片付け始めたマッシュがそう言うと、エドガーが何かを思いついたように顎に手を添えた。それからニヤリと口の端を持ち上げて、「良い提案だ」と呟く。
 驚いて顔を上げたマッシュに意味ありげな流し目を寄越したエドガーは、立てた人差し指を左右に小さく振ってみせた。
「ティナの創立する学校に本を寄贈する予定なんだが、積荷が届くのと俺たちが直接渡しに行くの、ティナはどちらが喜ぶかな?」
 マッシュの顔がぱっと輝く。
「どうせならドマやサマサやナルシェにも立ち寄って皆の顔を見て来ようじゃないか。なーに、情勢も大分落ち着いているし、うちの臣下は大臣筆頭に皆優秀だ。しばらく漫遊しても何とかなるだろう」
 大臣のくだりでマッシュの笑顔が苦笑いに変わったものの、それは大いに同意を示す晴れやかな顔だった。
 ワゴンに食器を全て乗せたマッシュは、鼻歌交じりにクロスを畳んだところで出しっ放しだったティナの手紙に目を留める。便箋を封筒に仕舞おうとして、マッシュが何かに気づいて瞬きをした。
「どうした?」
 キョトンとしているマッシュに声をかけたエドガーは、マッシュが封筒の中からもう一枚の便箋を取り出したのを見て全く同じ顔になった。
「まだ手紙があったのか」
「どれどれ……、追伸? コーリンゲンのセリスから、つい昨日手紙が届きました……?」
 マッシュが広げた便箋を、隣に並んだエドガーも一緒に覗き込む。二人はほぼ同じペースで左から右に目を走らせて、そして同じタイミングであっと口を開けて顔を見合わせた。
「これは……、ロックとセリスにも祝いの品が必要だぞ」
「慌てるなよ兄貴、予定まで半年近くあるぜ」
「産まれたら改めて贈ればいいだろう。しばらく遠出は厳禁だとロックに釘を刺しに行かなければ。善は急げだ、早速大臣とスケジュールの相談をしよう」


 ワゴンの上でカチャカチャと食器の揺れる音に混じった二人の笑い声が、窓から照らす穏やかな日差しに溶け込んで行く。
 黄金の砂を巻き上げる風からはいつしか冬の冷気が和らいで、新しい季節を乗せて世界を巡り行く。