特別な日




 うららかな昼下がり、遅い昼食を兼ねたティータイムとしてマッシュと共に私室のソファで寛いでいた時、紅茶が満たされるカップを見下ろしていたエドガーはコンコンと柔らかいノックの音で顔を上げた。
 速過ぎず遅過ぎずのノック音から急ぎの案件ではないだろうと、背もたれに預けた背中を浮かすことなくエドガーはのんびりと返事をする。向かいのソファに腰を下ろし、広げた足の両膝の上にどっかりと肘を乗せていたマッシュも、驚いた様子もなく顔だけをドアに向けた。
 開いたドアの向こう側から姿を現した大臣は、失礼致しますと恭しく頭を下げてから室内へ足を踏み入れた。
「お寛ぎのところ申し訳ありません。マシアス様もご一緒の時の方が良いかと存じまして」
 思いがけなく自分の名前を耳にしてきょとんと眉を上げたマッシュに対し、特に表情を変えることがなかったエドガーは続きを促すように小首を傾げてみせた。
「祝賀式典の式次第です。ご確認を」
 大臣はそう告げながら足を進め、座ったままのエドガーの真横で、手にしていた一枚の書類を王の目線より下の高さへ差し出した。
 横目で記されている内容を一瞥し、成程と言いたげに軽く頷いたエドガーは、指先に挟んだ用紙を鋭く顔の真下へ据えた。
 伏せた瞼の下で青い目を上下左右に動かすこと数秒、今度は大きく頷いて「いいだろう」と呟きながら大臣へ書類を戻す。
 両手で用紙を受け取った大臣は深々と頭を下げ、来た時のように迷いのない足取りで真っ直ぐ扉へ向かい、再び戸口できびきびと御辞儀をして部屋から姿を消した。
 何事もなかったかのようにカップを手に取り口元に運ぶエドガーと、狐に摘まれたような顔をしたマッシュが残される。
「どうした、間の抜けた顔をして」
 紅茶で唇を湿らせたエドガーが尋ねると、マッシュは不服そうに肩を竦めてみせた。
「俺と一緒の時の方がいいって、どういう意味だったんだよ」
「ああ」
 苦笑で小さく吹き出したエドガーは、カップをテーブルに下ろして大臣の言葉の補足を始めた。
「祝賀式典がいつ行われるか知っているか?」
「んん? 知ってるかって言われても……、何のお祝いするのかも分かんないよ」
 マッシュの返答を予想していたかのようにエドガーが口角を上げる。
「期日は八月十六日。主役は俺とお前だ」
「え? ……、ああ……」
「年に一度の国王誕生日だからな。……お前が式典に参加するのは初めてになるが」
「そうか、そういや毎年サウスフィガロでも祭りやってたな」
 瞬きを二、三度繰り返したマッシュは、ようやく兄が言わんとすることを理解したのか大きく頷いた。
 しかしすぐに眉間を寄せて首を傾げたマッシュは、無精髭が散らばる顎を撫でる。
「それで、なんで俺が一緒の方がいいって?」
「そりゃあお前も当事者だからだろう」
「じゃあどうして俺には式次第見せてくれなかったんだよ」
「諸侯たちの祝辞の順をお前がチェックしてくれるのか?」
 マッシュの表情が苦々しく歪む。エドガーは再び優雅にカップを口に運び、心地好さそうに息を吐きながらしれっと続けた。
「国民に向けての挨拶の文面を考えねばな」
「ま、まさか俺も?」
 今度は不安そうに眉を垂らすマッシュをカップ越しにチラリと眺めたエドガーは、先程からくるくるとよく表情が変わる同じ顔の弟の賑やかさに苦笑して、戯けたように眉を持ち上げてからにんまりと笑ってみせた。
「お望みなら今すぐ大臣を呼び戻して式次第に書き加えようか」
 エドガーの言葉をきょとんと聞いたマッシュは、一呼吸置いてから分かりやすく肩の力を抜き、どっかりソファの背凭れへ体重を預けた。
「……なんだ、よかった〜……、アイサツなんて柄じゃねえもんな」
「はは、お前は俺の隣でいつものようにニコニコしていればいいさ。とは言え来賓も多い。窮屈だろうが一日大人しくしていてくれよ。ああ、衣装も新調しなければな」
 エドガーがカップを置くのと入れ違いにカップに手を伸ばしたマッシュは、湯気がほとんど立たなくなった紅茶をがぶりと多めに口に含み、不貞腐れたように尖らせた唇から細い溜息を漏らす。
「誕生日だってのに大人しくかあ。城下ではお祭り騒ぎなのになあ」
「ふふふ、残念ながら主役は一日缶詰めだ。まあ少し規模の大きなパーティーのようなものだ、特別なものじゃない」
 さらりと告げたエドガーが茶請けのチョコレートを摘んで口に放り込む。カップが空になって手持ち無沙汰故の行動と気づいたマッシュが、新しい紅茶をエドガーのカップに注ぎながら尋ねた。
「それ、毎年やってるんだよな」
「ああ、即位してからはな。親父の誕生日も同じだっただろう」
「うん、でも何となくしか覚えてねえな」
 自分のカップをぐいっと煽り、残りを飲み干したマッシュもまたお代わりを空のカップに注ぐ。
 無骨な指で品良く紅茶を注ぐマッシュの姿を対面で眺めながら、エドガーはふと目を細めた。
「……ダンカン氏のところでは、何か特別な祝いでもしていたか」
 エドガーの囁くような問いに顔を上げたマッシュは、少しの間考えるように動きを止めてから控えめな笑顔を見せる。
「……おかみさんが、いつもより豪華な食事作ってくれたよ。俺が好きな胡桃のケーキも焼いてくれた。直接おめでとうって言われた訳じゃなかったけど、……バルガスは俺の素性を知らなかったから」
 手元の紅茶に目線を下げて、穏やかに笑みを浮かべるマッシュの表情に悲愴感はない。それでも過去形の言葉の端々から伝わる物淋しさにエドガーが僅かに眉を揺らした時、視線を正面の兄に向けたマッシュが一転歯を見せて笑った。
「でも、おっしょうさまもおかみさんも祝ってくれたのはよく分かった! おっしょうさまが初めて俺に酒注いでくれたのが誕生日の夜だったんだ。あれは……嬉しかったなあ」
 破顔したマッシュに釣られて微笑んだエドガーは、そうか、と一言だけ返した。
 十年ぶりにコルツ山で再会した時のマッシュの朗らか且つ真摯な目を思い出し、エドガーは目を伏せる。離れている間に弟が一人の男性として大切に扱われて来たことは、あの時充分理解できた。
 一年に一度の歳を重ねる日が、マッシュにとって良い思い出になっているのは喜ばしく有難いことだ──鮮やかな紅色の液体が満たされたカップを持ち唇に寄せ、予想よりも熱いことに軽く顎を引きつつエドガーはしみじみ目を閉じた。
「兄貴は? 毎年式典で大変だったのか?」
 チョコレートに手を伸ばしたマッシュはそう尋ねて、一粒口に入れてから指先を舐めた。熱で若干溶け気味だったのか、マッシュが紅茶のポットから少し離した菓子鉢から、エドガーも二粒目のチョコレートを攫う。
「執務室に籠らない仕事、だな。祝いの儀を粛々とこなすだけで、普段と変わらない一日だ」
「誕生日なのに?」
「いつもより会う人間の数が多いくらいかな。やるべきことは決まっているし、特別なことは何も……」
 言いかけて、エドガーは不意に言葉を区切った。
 マッシュの目に憂いを伴う気遣いが見えたからと言う訳ではないが、誕生日が特別ではないと言い切った兄を心配そうに見つめる弟へ、エドガーは安堵を誘う柔らかな眼差しを向けた。
「……いや、ひとつ特別なことがあった。その日は毎年、式典の前に行くところがある」
「どこ?」
 言葉尻を食い気味に尋ねて来たマッシュを優雅な微笑みで宥めたエドガーは、ゆったりとカップを傾けて唇を湿らせてから続けた。
「親父とお袋の墓だ」
 マッシュの目が一回り大きくなる。
「と言っても王家の墓地の方ではなく、私物化している中庭に作り直した小さな墓だがな。あそこは庭師の他は俺しか立ち入らない」
「……命日じゃなくて、俺たちの誕生日に?」
「勿論命日も弔うさ」
 苦笑いで答えたエドガーは、右手で取っ手を掴んでいたカップの横腹を左手で包み、揺れる波紋を静かに見下ろす。
「それとは別に、そうだな、それまでの一年について報告する日──かな」
 マッシュが続きを問うように瞬きをした。
「それぞれ命日は慌ただしくてゆっくり墓参りするのも厳しくてな。いつか時間のある時に、と先延ばしにするとこれがなかなか難しい。式典が始まる前の早い時間に出向くようにしたら忘れることもないし、俺もひとつ歳を取ることで一年間を振り返ることが出来る。即位して二年目くらいからかな、二人に近況を聞いてもらっていたんだ」
 水面にぼんやり揺れる自分の輪郭から向かいへとエドガーが目線を動かすと、その先にいるマッシュの丸く広がった目が嬉々として震えているのがよく分かった。
 じんわり胸に沁み入る暖かさを感じて口角を上げたエドガーは、カップを静かにテーブルに置く。
「……今年は、お前も来るか?」
 マッシュの目が待ってましたとばかりに輝いた。
「勿論! そういや城に戻ってからバタバタして親父とお袋にちゃんと挨拶してなかったな……、俺も報告したいことたくさんだ!」
「ふふ、十年分では積もる話どころではないな」
 二人で顔を向け笑い合って、綻んだ表情のままティータイムの最後の一口を楽しんだエドガーは、カップから手を離して軽く持ち上げた両肩をストンと下ろした。
「さあ、そろそろ仕事に戻るとするか」
「急に誕生日が楽しみになってきたな!」
 腰を浮かし、カップや菓子鉢を片付けながらそう弾んだ声で告げたマッシュへ、立ち上がったエドガーはウィンクを返す。
「式典でのお前の挨拶、草稿くらいは俺が書いてやろうか」
 トレイにカップとポットを乗せたマッシュもまた立ち上がり、エドガーにぎょっとした顔を見せる。
「ええ!? さっき俺の挨拶はないって……!」
 返答を笑い声で誤魔化し、ドアに向かって身を翻したエドガーを、マッシュが弱り切って眉を垂らして追いかける。


 窓から差し込む陽射しはまだ頭上からそれほど傾かず、室内を明るく照らして二人の足元にくっきりとした影を作った。
 城の外では乾いた風が砂を巻き上げ、鮮やかに造り上げられた砂紋に太陽の光と影が美しく映えている。
 やがて真白の空は徐々に茜色を帯びて、山の向こうに光が沈んだ後は紫黒の闇に星々が瞬く。再び巡る朝の光が不毛の大地を黄金色に照らす。
 この土地にありふれた、いつも通りの掛け替えのない光景。
 その日々を当たり前に享受し、かつては離れていた相手と日没と夜明けを共有できる喜び。
 穏やかな穏やかな、日常と化した兄弟のささやかな語らい。



 毎年、誕生日はよく晴れていたとエドガーは天を仰ぐ。
 中庭では乾いた風にも負けず、庭師が丹精込めて育てた花々が咲き誇っているだろう。
 決して広くはない庭の片隅に据えた小さな墓碑は、久々の来訪者を夏の陽射しと共に暖かく受け入れてくれるに違いない。
 マッシュほどではないにしろ、確かに今年は話すことがたくさんある──エドガーは目を閉じた。




(父上、母上)

(報告が二年ぶりとなって申し訳ありません──昨年は城が砂に埋まっておりまして)

(ええ、そのことも含めてお話ししたいことがとても沢山あるのです、良い事も、そうではない事も、沢山)


(でも、今年は良い報告の方が多くなりそうです)

(一番のニュースは──マッシュが戻って参りました)

(隣にいるでしょう。とても逞しく成長して、名実ともに私の支えになってくれています)

(マッシュが城を出てからどう過ごしていたのかは、本人から直接お聞きください。あいつも話したいことが山ほどあるようです)


(──父上、母上)

(毎年、この世に生を授けてくださったお二人に感謝の念を伝えておりますが)

(今日こそ改めて、強く思います)

(私に、半身を与えてくださって)

(魂の片割れを授けてくださって、深く深く感謝致します)


(当たり前のように彼が傍にいてくれる)

(それがどれほど心強く頼もしいことか)


(弟と共に過ごす何気ない日常に)

(彼と共に歳を重ねられるこの日に)

(何度でも、心からの感謝を)




 生まれ年の葡萄酒を用意して、夜には二人静かにグラスを重ねることができるだろうか。
 胸を高鳴らせてその日を迎えるのは、二人が何の疑問もなく共に過ごしていた子供の頃以来のこと。
 今年はきっと特別な一日になる。