取り越し苦労




 机に向かってペンを握り、何やら書き物をしていながらも格好は寝間着のそれであるエドガーは、下を向いているために下がって来た眼鏡のつるを軽く押し戻した。
 それを合図に横目で壁の時計を確認し、小さな溜息をついてペンを置く。両腕を天に突き出して腕と背筋を伸ばし、ふわあと欠伸に口を開いた瞬間、トントンと辺りを憚る音量でドアがノックされた。
 非常事態でもない限り、こんな時間に訪ねて来るのは一人しかいない──ノックの調子から緊急性がないと判断したエドガーは、どうぞと柔らかく声をかけた。
 直後、ドアが静かに開いて隙間から予想に違わぬ人物が顔を出す。
(んっ……?)
 現れたのは思った通りマッシュだったのだが、その顔を注視したエドガーは小さく息を呑んだ。
 ──髭がない。
 頬から顎にかけて剃り残しなく、つるつる。
 昼間会った時は、確かにマッシュの顔の下半分を無精髭が覆っていた。その顔のマッシュと昼食をとり談笑したのだから間違いない。
 その後は忙しさで夕食さえ同席できなかったため、マッシュがいつ綺麗に髭を剃り落としたのかは分からない。
 ただ、マッシュが髭を剃るという行動に、ある意図が紐付けられている──ことを、エドガーはこれまで何度も体感して確信していた。
(……そういえば。……、三週間くらい、……してない、か……)
 風呂場で身体を隅々まで清めて、髭を一本残らず剃り落とす。
 いつの夜だったか、情交の真っ最中に内股に刺さる髭が痛いと苦情を零してから。
 マッシュは夜の誘いのその前に、度々髭を剃って来た。普段面倒臭がって伸ばし放題にしている無精髭を、夜会に出る訳でもなく、深夜にエドガーの部屋を訪ねる前につるつるに剃って来るのだから、その分かりやすいサインにエドガーが気づかないはずがなかった。
(んー……、久し振り……だもんな……)
 エドガーは先ほど確認したばかりの時計を再度振り返る。それほど遅い時間でもない、多少夜更かししたところで明日に響くということもないだろう。
 部屋に入って静かにドアを閉めたマッシュが柔らかく微笑む。髭を剃る前と剃った後とでは、後者の姿が若干幼く見える。
 涼し気な首元に色気を感じ、エドガーは小さく喉を鳴らしつつ、釣られてニコリと微笑み返した。それから若干の落ち着きのなさを伴って、青い目をキョロキョロと動かし始める。
(しまった、今日に限って髪を適当に洗って来た……)
 まさか今夜だとは思っていなかった。こんなことならもっと念入りに手入れして、お高めの香油を馴染ませておくんだった──夜の営みにて、いつもマッシュが好んでエドガーの髪に顔を埋めることを思い出し、エドガーはさり気なさを装って椅子から立ち上がる。
「もうこんな時間か。どうだ、寝酒でも」
「ああ、じゃあ少し。……仕事、邪魔したか?」
「いや、丁度終わるところだったんだ。ええと、あっちの棚に良いワインが……」
 部屋の奥に向かいつつ、身振りでマッシュにソファへ腰掛けるよう促す。指の動きで座る位置を指定し、マッシュが背中を見せたことを確認したエドガーは、足を速めて続き部屋へと飛び込んだ。
 ベッド横のサイドテーブルに並んだ小瓶のうちひとつを摘み、蓋を開けて中身を手のひらに零す。片手でやや乱暴に髪を解き、瓶の中身を手早く両手に馴染ませてから大急ぎで髪に揉み込んだ。
(多少雑だが、しないよりマシだろう)
 最中にエドガーの髪を掬い、口付けながら鼻から香りを吸い込むマッシュのうっとりとした目を思い出して、エドガーは頬を染める。が、すぐにハッとして、マッシュに届くように声をかけた。
「赤と白、どっちがいい」
 それらしい質問で時間を稼ぎ、大急ぎで髪を結び直す。
「うーん、白かな」
「白だな」
 会話を続けながら、手に残った油をはしたなくも腰回りの衣服に擦りつけ、乾かしついでに火照った頬をぱたぱたと扇いで、エドガーは何食わぬ顔でワインを寝かせた棚へと向かった。
 マッシュのリクエスト通りの白ワインを引っ掴み、ひとつ大きく息を吐いてから余裕の表情を取り繕う。足音か気配かで気づいたのか、マッシュが振り向いた時にはエドガーは普段通りの優雅な笑みを湛えていた。
「お前と飲もうと思って取っておいたんだ」
「へえ、そりゃ楽しみだな。もっと早く来りゃ良かった」
「いや、問題ないさ……」
 答えながらエドガーの目の動きが鈍くなる。
(……ああ、よりによって。この肌着を着ていたか……)
 マッシュが訪れる可能性を失念していたせいで服のチョイスが疎かになっていた。この紐の多い肌衣は、以前もマッシュが閨で解くのに苦労した前科持ちだ。
 普段眠る時ははだける心配もなく温かくて重宝しているが、恋人と潜り込む閨では防寒なんて無意味で無粋だ。
(手間取らせると空気が気まずくなる……うーん……)
 勝手に泳ごうとする目を誤魔化すために握り締めたワイン瓶に視線を向け、今気づいたという風にエドガーは眉を持ち上げた。
「グラスを忘れて来た。マッシュ、あっちの棚から持って来てくれ」
「うん」
 快く返事をして立ち上がったマッシュが戸棚に向かうや否や、エドガーは胸元から服の中に手を突っ込んで肌衣の紐を手繰り寄せた。そして手に触れた紐の端を引き、片っ端から解いていく。
「あにきー、でっかいのと細長いのどっちがいいんだっけ」
 マッシュの声が耳に届いた瞬間、素早く服の中から手を抜いたエドガーは、服の乱れを直しながらごく自然に返答した。
「白だからな、細長い方がいいだろう」
「了解」
 軽やかな声の後、数秒と経たずにマッシュがにこやかに戻って来た。両手に一脚ずつ持ったワイングラスをローテーブルに置いたマッシュが、期待に満ちた眼差しでエドガーの向かいに座る。
「それ見たことない瓶だな。どこの酒?」
「ああ、これは少し前にロックが土産で置いて行って……」
 すらすらと答えながら、またエドガーは不穏に眉を小さく揺らす。今し方服の中に突っ込んでいた手のひらを見下ろし、外気に触れて湿り気が冷える感触に細い溜息を吐いた。
(慌ててあれこれ準備したせいで汗ばんでるな……風呂に入ってからかなり時間が経っているし……香水で誤魔化すか……? しかしまた続き部屋に行くのも……)
 一度ゆっくりと瞬きをしたエドガーは、マッシュに向かってにっこりと笑いかけた。そしてマッシュの眼前に瓶を差し出す。
「つまみが欲しいかな。これ、開けておいてくれ」
「なくてもいいよ? もう遅いし」
「いや、お前の好きなナッツがあるんだ」
 半ば無理やりワインの瓶を押し付けて、立ち上がったエドガーは再び足早に続き部屋へと向かった。
 マッシュから自身の姿が見えないところまで来ると遠慮なしに大股で部屋を横切って、奥にある飾り棚に手を伸ばし、細工の繊細な小瓶をもぎ取るように握り締める。
 一度引っくり返して縦に戻した瓶の蓋を外し、濡れた先端を両耳の裏にちょんちょんと当てて、それから襟の隙間から手を差し入れて臍の少し上にも。
(これくらいでいいか。少々つけ過ぎか……あいつの好きな香りだからいいよな)
「あにきー、注いじゃっていいー?」
 離れた位置からマッシュに呼びかけられ、ビクリと肩を縮ませたエドガーは、再び乱れた襟元を直しつつ声を投げ返す。
「ああ、頼むー」
 軽く衣服の胸辺りを摘んで空気を送り、ふわりと香水の甘い香りが漂うのを確認して、エドガーは満足げに頬を緩めた。
 抱き締められた時に熱で立ち上る香りを想像したエドガーは、機嫌良くマッシュの元に戻って行く。勿論途中でナッツの袋をしっかりと取り出して。
「ほら、お前これ好きだったろう」
「あ〜、それ好き。サンキュー! このワインいい香りだな」
「あまり市場に出回っていないものらしいぞ」
 やっと腰を下ろせるとマッシュの向かいのソファに身体を沈ませかけて、エドガーはギリギリ尻が浮いた状態で一瞬息を止めた。
(……潤滑剤、引き出しに仕舞ったままだ……)
 マッシュが笑顔のまま不思議そうに首を傾ける。エドガーは反射的に笑みを返しながらも、頭の中はベッドから離れた場所に隠した潤滑剤でいっぱいになっていた。
 私室とは言え侍女が清掃に入室する手前、ベッド周りに余計な詮索をされるものを置いたままにする訳にはいかない。
 そろそろだろうかと見当をつけた日にはサイドテーブルにさり気なく置いておくのだが、今日はさっぱり考えていなかったためにサッと取り出せる場所には無い。
 いい雰囲気になってから取りに行くのは白けてしまうし、かと言ってアレがないとスムーズに交われない。エドガーに負担を強いる行為を嫌うマッシュの気分が、萎えてしまうかもしれない──エドガーはワインの香りを嗅ぐフリをしてごく小さな溜息を吐いた。
 グラスの内側が仄かに曇ったのを見て、エドガーは今気づいたように顔を上げる。
「す、こし肌寒くないか? 火を強めるか」
「いや、俺は別に……」
「俺が寒いんだ。少し強くしてくる」
「あ、それなら俺が」
「いーやお前はいいから座っててくれ。すぐ済むから」
 グラスを置いた手をそのままマッシュに向けて押し留め、「先にやっててくれ」と残して忙しなくエドガーが立ち上がった。
 この場所では暖炉が僅かに視界に入るだろう。どうにかマッシュの目線を逸らさねばと、エドガーは背後のマッシュに声をかける。
「そういえばそのソファ、大分座り心地が悪くなっていないか?」
「え、これ? ああ、確かに真ん中凹んで来たな」
 恐らくマッシュはソファを見下ろしているはず──今だと駆け出したエドガーはもう三度目の続き部屋に大急ぎで入り、潤滑剤を仕舞い込んだ棚の引き出しに手を掛けた。
 力を込めすぎたせいか引き出しはガタガタと上下に揺れ、すんなり引き出せないことに焦りと苛立ちを感じる。
「でもこれ兄貴のお気に入りだろー?」
「あ、ああ、しかし手前の右脚がガタついて来てるんだ」
「ん、ホントだ」
 ようやく引っ張り出した引き出しの奥でごろりと横たわる潤滑剤の瓶を引っ掴み、乱暴に閉めたエドガーは流れるような動きでベッドのサイドテーブルに瓶を並べた。
 息を吐く間も無く続き部屋を出たエドガーは、暖炉へ申し訳程度に薪を放り投げ、乱れた前髪を手早く整えてから優雅に歩を進める。
「そろそろ新しいものに替えようと思っていてな。お前、今度選ぶのに付いてきてくれないか」
 穏やかな笑みを湛えながら、エドガーは何事もなかったかのようにマッシュの向かいに座った。そしてエドガーはマッシュが未だグラスに口をつけていないことに気付き、申し訳なさそうに苦笑して手に取ったグラスを掲げる。
 マッシュも同じくグラスを手に、軽く傾けてカチンとエドガーのグラスに合わせた。祝い事でも何でもないが、二人が揃って向かい合うことに乾杯するのは悪い気分ではない。
 ようやく準備も整ったことだしと、安堵で肩の力を抜きながらエドガーがグラスの端に唇を当てた時。
(んっ……?)
 口の中に流れ込んだ薫り高い酸味が喉を通り過ぎる。その一口目をじっくり味わうどころか、エドガーは新たな綻びに気付いて愕然とした。
(唇……、荒れている……そういえば、ここ何日か手入れを怠っていたな……)
 グラスに触れた唇を押し戻すように捲れた薄皮が硬くなって、下唇の広範囲を占領している。さり気なく空いた手の指先を当てると、カサカサに乾いた唇の皮が指の腹に小さく刺さった。
(時期的に空気が乾いているとはいえ、いくら何でも荒れすぎだ……。最近胃の調子も良くなかったしなあ……)
「美味いな、これ」
 味も何もさっぱり分からなくなったエドガーは、マッシュの感嘆の呟きに愛想笑いだけを返した。
 ワインで湿った唇に舌を乗せ、舐め取るフリをしてその触り心地の悪さを実感したエドガーは落胆の息をつく。
 目線だけを上げてマッシュの口元を盗み見ると、ワインで湿った唇が艶やかに鎮座していた。血色が良く柔らかそうな唇に見惚れ、上下で擦り合わせた自身の唇の感触が余計に不快になる。
「マッシュ……、やはり、少し寒いな。ストールを持ってくる」
「え、兄貴大丈夫か? 風邪でも引いたんじゃ」
 心配そうに眉を寄せるマッシュに手と首を横に振ってみせて、飽くまで笑顔のエドガーは座って間もない腰を再び上げた。
「元気だよ、大丈夫だ。ただお前もよく言うじゃないか、肩を冷やすなってね」
 軽い笑い声を残してゆったりと歩いて行き、もう何度目か忘れてしまった続き部屋に到着した後は、とにかく大急ぎで飾り棚に駆け寄る。
 平たい容器を手に取るやいなや蓋を回し、中に詰められた蜜蝋と胡桃油を混ぜたクリームを指先で掬ってそっと唇に乗せた。
 軽く左右に伸ばし、唇の上下を合わせる。壁に据えられた鏡をチラリと覗けば、唇に艶が産まれたことを確認することができた。
 蓋を閉めるのもそこそこに容器を戻したエドガーは、ベッド傍に鎮座する一人用ソファの背凭れに掛けていたストールを握り締め、溜息を噛み殺しながらマッシュの元へと帰って行く。
「すまんな、落ち着かないだろう」
「いや、身体冷やすと良くないしな。ナッツ、もらうな」
 マッシュが摘んだナッツを一気に四、五個口に放り込み、頬を膨らませて咀嚼した。その様が動物のようだとエドガーは小さく吹き出し、そしていよいよ準備が整ったことに胸をときめかせて口角を上げる。
(もっと余裕があれば部屋に香を焚いたりしたんだが……まあ、いいよな……)
 久し振りなのだから、ムードは二の次でとにかくベッドに雪崩れ込むかもしれない。マッシュの太い腕に荒々しく掻き抱かれる様を思い、エドガーが小さく両肩を寄せた。
「今日の訓練でさ、師団の何人かと実技演習やったんだけどさ……」
「ほう、興味深いな」
 今日の日の出来事を語らいながら、互いにワインを注ぎ合って笑みを零す。
 いつ、どのタイミングでマッシュから誘いが来るだろうかと、そわそわと踵が上下するのを自ら嗜める。
 向かいのマッシュの目や唇を見つめて、酒の酔いだけではない頬の熱を感じたエドガーが三杯目を空にした時。
 マッシュがふと時計に目をやり、あ、と口を丸く開けた。
「もうこんな時間かあ。遅くまで付き合わせちまったな……そろそろ寝るよ」
(アレ……?)
 あっけらかんと言い放ったマッシュが手早くテーブルの上を片付け始めたのを、ぽかんと半開きの口を閉じようともせずにエドガーが見つめた。
(……今日は、ナシ……?)
 健康的に赤らんだマッシュの笑顔を前に、高鳴っていたエドガーの胸が萎んで行く。
 ──じゃあ何で髭剃って来たんだ。
 思わず心の中で文句を零していたことに気付き、そんなことはマッシュの勝手だと自身の浅慮を恥じた。
 たまたま、伸び放題だった髭が気になって、そしてたまたま眠る前にエドガーの部屋に立ち寄った、ただそれだけのことだったのかもしれない。髭を剃ったら必ず「そう」だと約束をしていた訳でもないのだから、不平は御門違いだ。
 エドガーは表面に出ない程度に、頬の内側の肉をやんわりと噛んだ。
 ──今夜だと予想していた訳ではないのだから、別に無くても構わないのだけれど。一人であれこれ張り切っていたのが滑稽で、みっともないな……──
 手際よくテーブルの整理を続けるマッシュに、そのままで良いと手で合図をした。顔を上げたマッシュが立ち上がったのを見て、戸口まで送ろうとエドガーもそれに倣う。
「こっちこそつい長話をしてしまったな……明日も早いんだろう、ゆっくりお休み」
 無理をしていない、自然な笑顔を作れただろうかとエドガーがほんの少し眉尻を下げる。
 そのままドアに向かうかと思われたマッシュは、しかしくるりと振り返って、サイドテーブルを回りエドガーの目の前に立った。
 きょとんと瞬きをしたエドガーが続けて二度目の瞬きをするより早く、マッシュがぼんやり突っ立ったままのエドガーの身体を横抱きに掬い上げる。
 驚きに目を丸くしたエドガーが見上げた先には、悪戯っぽく口角を上げたマッシュの優しく細めた瞳があった。
「兄貴も一緒に寝るんだよ」
 そう戯けた口調で囁いて、唇を摘むような小さなキスを落としてから、マッシュがすべすべの頬を擦り寄せてくる。
 キスはナッツの味がした。



(髪とか唇ツヤツヤにして一生懸命準備してる兄貴、可愛かったなあ〜……)
 あれこれ用意しなくたって、どんな兄貴でも大好きなんだけど。
 思い出し笑いで頬を緩めたマッシュは、エドガーを抱えたまま上機嫌でベッドが置かれた続き部屋へと入って行った。