追憶




「え、潜行は明日?」
 逆立ちをした状態で両手を地につき、肘を曲げ伸ばししながらマッシュが問い返すと、彼の額から頭部に向かって流れた汗がパラパラと落ちる。
 エドガーは逆さまになった弟の顔を見ながら、そうだ、と答えた。
「エンジンの調子がいまいちでな。今調べさせているが、どうも部品の劣化が見落とされていたようだ。何かあっては困るからな、交換が早く済んだとしても城を戻すのは明日だ」
「ふうん」
 マッシュは肘をぐっと深く折り曲げ、一気に伸ばしてバネのように弾ませた腕の力でひょいと飛び上がるように立ち、今度は顎に向かって流れてくる汗を二の腕で乱暴に拭った。
「じゃあこんなとこでのんびりしてる暇ないんじゃないのか?」
 マッシュが尋ねると、エドガーは肩を竦めて首を横に振った。
「それが邪魔者扱いだ。俺がいちいち口出しすると機関室の面々がやりにくくて敵わんとさ。茶でも啜ってろと追い返された」
 エドガーの大袈裟な物言いにマッシュは声を出して笑う。
「それで暇潰し?」
「まあな。たまにはゆっくりしろとばあやにも言われてきた。昨日は視察が詰まっていてまともにロックやセリスと話ができなかったし、また村を訪ねてみようかと思って。お前もどうだ?」
 兄の提案にいいね、と答えかけたマッシュはしかし何かに気づいたようにハッとし、それから名案を思いついたとばかりに顔を輝かせた。
「それならさ、海行こうぜ、海」
「海?」
 エドガーが眉を上げて聞き返す。
「うん、子供の頃よく行っただろ、コーリンゲンの海。今日は暑いし、久しぶりに行ってみたい」
「ん……、海、か」
 エドガーはチラッと斜め上を見上げて複雑な表情を見せる。あまり気乗りしない様子のエドガーに、マッシュは不思議そうに首を傾げた。
「……海、嫌か?」
「嫌……と言うほどでもないんだが」
 煮え切らない態度のエドガーだが、少しだけ眉間に皺を寄せながら自分に言い聞かせるように何度か頷き、マッシュを見る。
「分かった。お前が行きたいなら、行こう」
「いいのか? 無理してまで行きたい訳じゃ……」
「いや、いいんだ、大したことじゃない。チョコボを用意するか。お前は着替えた方がいいな。支度しよう」
 マッシュが追求する隙もなく早口でまくし立て、エドガーはマントを翻して今来た道を戻って行く。意図的に口を挟まれるのを避けたような態度に、いまいち納得のいかないマッシュは一人腕組みをして考え込むのだった。


 戦後処理の進捗状況を確認するためのコーリンゲンへの視察は昨日滞りなく行われ、本日には再びフィガロ城を潜行させ元の砂漠に帰る予定だった。
 それがエンジントラブルで滞在を一日延ばすことになり、思いがけず休暇を得たエドガーとマッシュはチョコボを駆り海を目指す。
 日差しは熱い。エドガーはいつもの甲冑をつけず、色味の地味な旅装束という軽装で砂漠を駆けていた。マッシュは普段通りの服装にマントのみをつけてエドガーの後を追い、やがて砂地が途切れて草原が現れ、更に先に少しずつ岩の隙間の青い水平線が見えて来たことに気づいて顔を綻ばせる。
 街から離れた入り江を目指したためか暑い盛りであるのに人影はなく、二人は日陰ができる大き目の樹にチョコボを繋ぎ、そこから砂浜を目指して歩き始めた。
「やっぱ大分景色変わっちまったな。世界中の地形が変わってるんだから無理ないか……」
 マッシュが辺りを見渡しながら呟くと、潮風に煽られる前髪を鬱陶しそうに払いながらエドガーも続けた。
「こんなに入り組んだ入り江はなかったな。離島も随分と増えた……海の色が元に戻ったのは幸いだが」
「こんだけ岩が多くちゃ海水浴は無理かもな」
「お前、泳ぐつもりだったのか?」
「いや沖に行くつもりはなかったけど……って、兄貴」
 エドガーを振り返ったマッシュが訝しげに眉を寄せ、一歩エドガーに近づいて顔を覗き込む。詰め寄られた距離の分、エドガーも思わず頭を引いて再び距離を保つが、今度はマッシュの指が伸びて来て眉間をトンと叩かれた。
「ここ。なんでそんなに皺寄せてるんだよ」
「……そんなに寄ってるか」
「うん。なんだよ、ここに来るのも渋ってただろ? 兄貴、海好きだったよな?」
 苦虫を噛み潰したような表情のエドガーは、ふっと大き目の溜息をつき、観念したとばかりに両手の平をマッシュに向けた。
「分かった、白状する。……どうしても、思い出すんだ。成人の儀の前に、俺が無理矢理お前を海に誘ったことを」
 マッシュはきょとんと目を丸くし、ああ、と思い出したように口を開けたが、すぐに考え込むような険しい顔になった。
「え、それだけ?」
「それだけとはなんだ。……最近はめっきりなくなったが、数年は夢に魘されたんだぞ。フラフラになったお前がアントリオンに喰われる夢」
「物騒な夢だな」
 真剣に訴える兄に苦笑して、マッシュは記憶を巡らせるように顎に手を当て目線を少し上向きにした。
「成人の儀か。……懐かしいな、もう十五年くらい前か」
「俺は今でもはっきり覚えているよ。なんとかアントリオンを仕留めた後に真っ赤だったお前の顔が一気に真っ白になって、握った手がゾッとするほど冷たくなっていた。気が狂うかと思ったよ」
「兄貴が背負って城まで連れて帰ってくれたんだよな」
「今のお前なら無理だったなあ」
 ようやくエドガーは笑みを見せ、それを見たマッシュもまた微笑む。
 風に遊ばれる前髪を無造作に掻き上げ、エドガーは海を見つめて呟いた。
「あの時の俺はな、楽しいことが是だったんだよ。少しくらい羽目を外しても、後からどうにかなるものだと思っていた。結果、お前には辛い思いをさせてしまったな」
「そんなの、すっかり忘れてたよ」
 マッシュが軽い調子で笑って返すが、エドガーは海から目を逸らさなかった。
「俺は……忘れられなかった。お前の苦しそうな荒い息遣いも、剣を握る手が終始ぶるぶる震えていたことも。……お前は一度も、俺を責めなかったな……」
「……兄貴」
 エドガーの横顔を少しの間眺めたマッシュは、遠くを見つめる兄の眼差しに優しく微笑み、その手をおもむろに取って握り締めた。
 驚いて振り向いたエドガーに、にっこり笑ってマッシュは告げる。
「俺、忘れてたって言ったけど覚えてることもたくさんあるよ」
 握り締めたエドガーの指に自分の指を絡めてしっかりと繋ぎ、マッシュは輝くような笑顔を見せた。
「俺は、兄貴と二人で成人の儀を終えられたことも、兄貴と一緒に海で遊んだことも……どっちも嬉しかったし楽しかった!」
 エドガーが目を見開く。
 そんなエドガーと繋いだ手を引いて、マッシュは海を指差した。
「波打ち際、行こう。嫌なこと忘れるくらい遊んで帰ろうぜ!」
 屈託のない笑顔にすっかり呆気にとられたエドガーは、ぐいぐいと手を引かれるままに歩き出し、やがて速度を上げたマッシュに合わせて躓きながらも走り出した。
 風を切って走るうちに、エドガーもいつしか笑顔になっていた。


 細かい砂利のような砂浜に打ち付ける波の傍、マッシュは躊躇いなくマントを外して靴を脱ぎ、足の裾を捲り上げた。ざぶざぶと波を割るように中へ入って行き、脛まで海に浸かったところでエドガーを振り返って手を上げる。
 苦笑いで溜息をついたエドガーもまた、仕方なくマントを外してブーツに手をかける。素足で触れる砂の熱は思ったよりも刺激が強く、成程マッシュがさっさと水の涼を求めたのも納得だ、と彼に倣って裾を折り曲げた。
 波が打つギリギリのところに立つと、擽るように白い泡が足の甲を登ってくる。刺すほどには冷たくない、心地良く温い水温に触れて、エドガーは初めて自分を取り巻く潮の匂いに気づく。
 ──ああ、久しぶりだ。
 マッシュに言われた通り、エドガーは海が好きだった。弟と揃いの碧眼は海のように美しいと讃えられて来たからだろうか、砂の城では味わえない水の中の世界は特別な宝箱のようで。
 宝箱の中身をマッシュと覗き込むのがとても好きだったのだ。楽しいことは何でも共有しないと気が済まず、それがマッシュにとっても良いことだろうと思い込んでいた幼い頃。
「兄貴、早く!」
 あの頃とは逆でマッシュがエドガーを呼ぶ。エドガーは呆れたように笑いながら波を掻き分けた。
「おい、あまり沖に行くと波でずぶ濡れになるぞ。着替えなんか持って来てないんだからな……」
 後少しでマッシュの隣に辿り着くという位置で、ふいにマッシュがエドガーの腕をぐいっと掴んできた。その悪戯っ子のような目を見て彼の意図を勘付いたエドガーは、させるまいと腕を引き返す。
 その途端、ぱっとマッシュは手を離す。あっと思った時は遅く、エドガーはそのまま後ろに倒れこんで尻餅をついた。ばしゃ、と水滴が弾け飛び、腰まで襲う水の冷たさにエドガーはしばし固まっていた。
 にやにやと見下ろすマッシュを怒りの笑みで睨みつけ、エドガーは立ち上がる。身構えるマッシュの前で思い切り水面を蹴り上げた。顔の高さまで飛び散る海水にマッシュが怯んだ隙に、腰より低い太腿に渾身の力を込めてタックルした。
「う、わっ……」
 エドガーもろともマッシュは仰向けに大きく倒れ、空にまで届きそうな水飛沫が上がる。顔まで一度は海水に沈み、マッシュはがばっと頭を起こして咳き込んだ。
 髪の先から水が滴り、そのマッシュを押し倒したエドガーもまた長いブロンドが前髪から毛先までしっとり濡れそぼっている。二人はずぶ濡れの顔を見合わせて吹き出した。
「やったな、兄貴」
「お返しだ」
「じゃあさ、昔よくやったろ、潜りっこ。競争しようぜ」
「忘れたのか、俺は一度も負けなしだぞ」
「俺も伊達にレテ川に流されてないからな」
 笑い合い、せえの、と同時に掛け声を上げて水の中に頭を潜らせる。とっくにずぶ濡れなのだから、これからどれだけ濡れようと構いはしなかった。
 海水から目を守るためしっかりと瞑り、闇の中で水の音を聴く。エドガーはふと後頭部に気配を感じた。マッシュの手のひらが頭を掴み、そのまま更に深く押し込むように力を入れてくる。ごぼっと口の端から空気が逃げ、エドガーも負けじと手探りでマッシュの首に腕を回して締め上げた。水圧でマッシュが暴れているのが分かり北叟笑む。
 しかしお互い自由を奪われたままで水中に長くいることは叶わず、ほとんど同時に相手の手を振り解いて海面に顔を出した。はあ、はあ、と酸素を取り込み、それから一緒に笑い出す。
「二秒くらい俺の方が長かったぞ」
「いや、俺だよ。兄貴、首絞めるのはナシだろ」
「お前が先に仕掛けたくせに」
「余裕ありそうだったからハンデもらったんだよ」
 マッシュが海水を掬いエドガーに放り投げるように水飛沫を立てる。エドガーもやり返す。マッシュも引かず、飛沫は更に大きくなる。エドガーも両手を使って掬えるだけ掬った水をマッシュにお見舞いした。
 あまりに子供っぽい応酬に、二人は笑いが止まらなくなっていた。髪から顔から塩辛い水を滴らせ、目尻に涙すら滲ませて、エドガーは久しぶりに腹を抱えて笑った。照りつける日差しが二人の体を冷やすことなく包んでいた。


 少し傾きかかった太陽の下、髪や服に砂が混じるのも構わず砂浜に寝転がり、エドガーとマッシュは並んで空を見上げる。
 ここまで全身ずぶ濡れだといっそ清々しい。それでも暑い砂と潮風で少しずつ湿り具合が落ち着いてきていて、蒸し焼きにされているようだとエドガーは苦笑する。
「……アントリオン、デカかったよな」
 ふいにマッシュがぽつりと呟いた。エドガーは寝転んだまま軽く顔をマッシュに向ける。
「兄貴がいなかったら、絶対無理だったなあ……」
 遠い昔を思い出しているのか、マッシュは薄く唇を開きっぱなしにしてぼんやりと空を見つめていた。エドガーは眼を細め、優しく口角を持ち上げる。
「俺だって、お前がいなかったらやられてたよ。急所を刺したのはお前だったからな」
「夢中で振り回してたらうまいとこ刺さったんだよ」
「嘘つけ。今だ! って合図をくれたじゃないか。あれがあったから仕留められた。お前のお陰だ」
「とどめは兄貴が刺したんだ。兄貴の手柄だよ」
「強情だな」
「兄貴こそ」
 ふふっと笑みが漏れる。ふと、マッシュの指がエドガーの手の甲に辿り着き、緩く握り締めてきた。エドガーはマッシュと指が絡まるように手を裏返し、指の隙間に滑り込むマッシュの骨ばった指の感触にほっと息をつく。
「……二人だから、できたんだよな」
 マッシュの言葉を噛み締めるようにエドガーは目を閉じた。
「……ああ」
「双子で良かったな、俺たち」
「ああ、良かった」
 繋ぐ手の力が強くなる。頭上を白い鳥が横切り、目で追いながら波音に耳を預けた。時折思い出したように昔話をどちらともなく始め、その度に笑ったり拗ねたりからかったり、二人は長い時間寝転がって過去を懐かしんだ。
 気付けば西日が海面を照らし、雲はすっかり茜色の影を馴染ませている。エドガーはようやく頭を擡げ、紫と緋色の境目に浮かぶ金の輪に囲まれた真円を見て感嘆のため息をつく。
「綺麗だ」
 マッシュも体を起こして目を見開いて笑った。水面に光を引き摺ったような黄金の道がゆらゆらと煌めき、砂漠で見る夕陽とも、かつて旅をしていた時に飛空艇から眺めたそれとも違う趣きに二人は少しの間言葉を失う。
 やがてエドガーは立ち上がり、すっかり乾いた足で砂を踏みながら、波打ち際に佇んだ。波が先程よりも高くなっているのか、一度引いてから押し寄せた高さは足の甲全てを覆うほどになっていた。
「海で見る夕陽、初めてだな」
 いつの間にか隣に来ていたマッシュが呟く。振り向くとマッシュの顔がオレンジ色に染まっていてエドガーは微笑した。
「この時間には城に連れ戻されていたものな」
「勿体無かったな」
「全くだ。こんなに綺麗な景色を今まで知らなかったんだから」
 海を見つめるエドガーの横顔を見つめ、マッシュは愛おしそうに目を細めて囁く。
「……兄貴が、綺麗だ」
 エドガーはちらりと横目でマッシュに視線を向け、気恥ずかしそうに小さく笑ってから今度はしっかりと振り向いた。
 沈みかける夕陽と同じ色に染まったお互いの顔を眺め、無言の時はエドガーが途切れさせた。
「……キス、してくれないか」
 マッシュの微笑みがより優しくなる。
「……俺もしたかった」
 マッシュの腕がそっとエドガーの腰に回され、エドガーは静かに目を閉じた。
 唇を熱が包み、重ねるだけの深く長いキス。
 潮風がエドガーの金髪を弄び、夕暮れの光がキラキラと纏わり付いた。
 唇が離れても、二人はしばらく動かなかった。ほんのり橙に染まったお互いの碧の瞳をじっと見つめ、打ち寄せる温い海水に踝まで浸したまま、長いことそうしていた。
「……帰ろうか」
「うん。帰ろう」
 微笑みに微笑みが返って来る。
 裸足で砂を踏み締めて、ふとエドガーは海を振り返った。マッシュも立ち止まり不思議そうにエドガーを見る。
 エドガーは何でもない、と首を振り、マッシュに手を伸ばした。
「マッシュ」
「ん?」
「また、来よう」
 マッシュは嬉しそうに笑って頷く。
 エドガーの手をしっかりと繋いだマッシュに並び、夕陽を背に帰路についた。


 波音の狭間、くすくすと楽しそうなあの頃の二人の笑い声が聴こえた気がした。
 幻は夕陽の緋色に溶けて海に交わった。




(自分で書いておきながら途中チョコボが干からびていないか気になって…
多分海から一度上がった時に食料と水分補給はされたと思います…)