日盛りを過ぎて太陽の光はやや傾き、数刻前と風向きが変わったのか、静かだった花壇の花々が頭を垂れるように揺れ始めた。 回廊に面した中庭には、小ぶりの花が品種ごとに煉瓦造りの花壇に囲われ陳列していた。花壇を順序良く眺められるよう張られた石畳を追って行くと、奥まった場所に鎮座した木製のガゼボが見えてくる。 小ぢんまりとしたガゼボは未だ塗料の臭いを漂わせる真新しい白の屋根で、じりじりと照り付ける陽射しを一手に引き受けていた。にも拘らず、日陰の恩恵を手放した小柄な少年二人は、屋根を支える支柱の間に横たわる縁に腰掛けて、はみ出た身体に降り注ぐ陽の光を気にも留めずに熱い風を浴びている。 肩を越えたくらいの長さの金髪を薄藍のリボンで一纏めに結んだ兄エドガーは、縁に浅く尻を乗せて地面から浮いた両足をぶらぶらと揺らし、地に映る影が動く様を楽しんでいるようだった。 風が巻き上げる前髪が睫毛に引っかかるのを疎ましげに指先で退け、かと思えば自ら額に向かって息を吹きかけ前髪を煽ったりもする。 長い睫毛を伏せる目つきはやけに大人びて見えるものの、風向きで強くなる塗料の臭いを嗅ぐために軽く顎を上げる仕草は年相応の少年だった。そして、子供らしく絶えずぶらぶらと揺れる足は主に前後に動いていたが、時折斜めに進路を変えて隣にぶら下がっている白い脚を掠ったりもした。 エドガーに並んで腰掛ける弟マッシュは、兄に同じく金の髪を結んだリボンが翡翠色であること以外はそっくり瓜二つの見目だった。身体つきは若干小柄ではあるものの、隣のエドガーと丸きり同じ顔をして、時々脛を蹴られていることなど気づいてもいない素振りだった。 マッシュは手にした紙片を胸に当てて、上目遣いに目を泳がせている。何かを思い出さんと忙しなく動く青い瞳は、まるで瑠璃の玉を転がしているような愛嬌があった。 「おあつ……おあつま……」 「お集まり」 マッシュの辿々しい唇の動きを刺すように、エドガーが正しい答えを提示する。 「おあつま、りの……、えっと……」 「お集まりの皆さま」 「お集まりの、みなさま、の……」 エドガーは黙って途切れた言葉の続きを待った。数秒を超えて数十秒、ややせっかちなところがある彼にしては辛抱強く待った方だろう。 が、眉尻をぐんと下げたマッシュは、胸に当てて隠していた紙片を手に取り表に書かれた『正解』を見てしまった。二人は同時に溜息をつく。 「……ごたこを、おいのりします」 「ごたこう、な」 エドガーの指摘にマッシュが頬を赤らめた。 大きく肩を落とし、紙片に並んだ文字を頭から読み直すマッシュの横で、靴の爪先を重ね合わせて蝶の影を作ったエドガーが飄々と告げる。 「分かんなくなったら顔上げてニコニコしてりゃいいよ。俺が代わりにごまかしてしゃべってやるから」 「でも、それじゃロニがたくさん覚えることになっちゃうよ」 「俺はもう全部覚えたから大丈夫さ。パーティーの日は帝国のシシャってやつも来るんだぞ、カッコ悪いところ見せられないだろ」 エドガーがそう言うとマッシュは眉間をキュッと狭め、少し迷うように唇を弱々しく開きかけた。しかしすぐにその唇を真一文字に結び直し、しっかりと首を横に振る。 「……それならやっぱり自分でがんばる。ロニに頼りっぱなしはもっとカッコ悪いから」 マッシュの決意を聞いたエドガーはにんまりと笑った。 そうして腰掛けていた縁からぴょんと飛び降りて、軽やかに振り返ってマッシュと顔を向かい合わせる。 「よぉし、じゃあ覚えられるまで一緒に練習して──」 マッシュに向けて煌めいたエドガーの青い瞳が、ふと何かに引き寄せられたように後方へと逸れた。言葉途中で止まった唇が、次に発した声は「ちちうえ」という呼びかけだった。 「えっ?」 思わず振り向いたマッシュの目線の先に、アッシュブロンドの長い髪を髪留めで一纏めにして、ヘーゼルカラーの瞳を優しく細めたフィガロ国王ステュアートの姿があった。 息を殺して石畳を踏んで来たのだろうか、普段なら硬質の靴音が響いて二人はもっと早くに気づいていただろう。忍んできたのを裏付けるように、口元を手で覆って何やら笑いを堪える素振りを見せた父王は、二人の視線に向けて口から離した手を差し出し、苦笑混じりの微笑みを見せた。 「いや、すまないね。お前たちのやりとりがあまりに可愛らしかったものだから、声をかけるのを躊躇ってしまった」 穏やかな声が合図であったかのように、差し出された手のひらに向かってエドガーが駆け出して行く。マッシュも慌てて縁から飛び降り、よろめきながら兄の後を追った。 「ばあやが探していたよ。もうすぐティータイムだというのに食いしん坊のお前たちが見当たらないと」 「あっ忘れてた」 「もうそんな時間なの」 父の脚に纏わり付きながら顔を見合わせる双子の兄弟を見下ろして、ステュアートが更に口角を上げる。 「熱心に練習していたね。誕生日のパーティーでお披露目するご挨拶かな」 「そうです!」 エドガーが胸を張る。 「しっかりあいさつして、フィガロの将来はあんたいだって帝国のシシャに見せつけてやります!」 「やります!」 ステュアートは小さく吹き出し、それから僅かに眉を下げて複雑な微笑を浮かべ、じいやたちの言うことは聞き流して良いのだよ、と小声で囁いた。 うまく聞き取れなかったのか、ぽかんと口を開けたマッシュに向かって、ステュアートは眦を下げて優しく問いかけた。 「マシアス。ご多幸、の意味は分かるかな」 「えーと……ごたこう……、……?」 言葉に詰まるマッシュに一層柔らかく微笑んだステュアートは、マッシュが気遅れすることのないよう節ばった手を幼子の背に当ててトン、と軽く叩いてやる。 「多幸とは、幸せがたくさんという意味だ。お前たちの誕生日を祝いに来てくださった皆さんに、たくさんの幸せがあるようにとお祈りする言葉なんだよ。音だけで文字を覚えるのではなく、言葉の意味を考えて覚えてご覧。何を伝えたいのかきちんと理解しているなら、たとえ文章を忘れても自分の言葉で気持ちを伝えることが出来るだろう」 「……はい!」 父のアドバイスに目を輝かせたマッシュは、赤らんだ頬で大きく頷いた。その頼もしい声に満足して頷き返したステュアートは、広げた腕の中に子供たちを招き入れる。 ステュアートは腰を屈めて二人の顔を交互に見た。愛しさをふんだんに詰めた眼差しを浴びた王子たちは擽ったそうに身を捩り、嬉しそうにはにかむ。 目を細めたステュアートはついに地面に膝をつき、両腕にギュッと二人を引き寄せると、眩しいものを見る目で見上げてしみじみと呟いた。 「もう、七つになるのか。早いものだ……あんなに小さかったお前たちが」 背に当てられた大きな父の手から熱が伝わってくる。しかし、元々汗ばんでいた背中が更にじわりと温められることに、エドガーもマッシュも不快を感じたりはしなかった。 忙しい父王は幼い双子の兄弟と四六時中離れずに過ごすことは出来ない。子供たちは時間だけなら乳母や侍従といる方が長いのだ。 そんな二人と向き合う時、ステュアートは時に過剰とも思えるスキンシップを含めて子供たちに深く接するようにしていた。王の威厳はさて置き、子供を愛する一人の父親として、彼らの亡き母の分まで愛を注ぐ者として。 当然ながら、ステュアートのこの姿勢を快く思わない臣下もいた。王たる者の態度ではないと。それでもステュアートは改めようとはしなかった。 ステュアート自身、幼い頃に父や母と触れ合った記憶などほとんど持たない。王家の一員として非凡であるよう育てられた結果、実の弟との折り合いは決して良くはない。 愛する妻の瞳を持つ子供たちに、自分と同じ歯痒さを感じさせたくはない──顔を見合わせればまるで鏡を覗き込んでいるかのような双子の兄弟が、この先互いを疎むことがないようにと強く願いながら、ステュアートは持ち得る全ての愛情を二人へと平等に注いだ。 「どれ……、ああ、重たくなったなあ。産まれたばかりの頃はボウガンよりずっと軽かったのに」 二人からきゃっと歓声が上がった。両腕で双子の尻を掬い上げ、落とさないよう注意しながらゆっくりと立ち上がったステュアートは、驚きに首を横に振りながら、それでいて嬉しそうに何度も瞬きをした。 「ちちうえ、すごい!」 「おもくない?」 「重いさ! なんて幸せな重みだ」 二人を抱えたままステュアートが中庭をゆっくりと進む。エドガーとマッシュは父の首に齧り付いた。そして父と同じ目線で過ぎゆく景色に歓喜の声を上げた。 「お前たちの産声を聴いた奇跡の夜が、もう七年も前のことだなんて信じられない。フランセスカが子供はあっという間に大きくなると言っていたが、本当にその通りだ。きっとすぐにお前たちは私の背を追い越して、凛々しく逞しい青年へと成長するのだろうね」 ステュアートが立ち止まり、もう一度交互に二人の顔を見つめる。喜びにほんの一握りの淋しさを滲ませた父の瞳に映る自分の姿を、エドガーとマッシュは不思議そうに覗き込んだ。 僅かな寂寥は一瞬で消え、ステュアートはニヤリと口角を上げる。 「お前たちは砂漠の泉と謳われた母上にそっくりだから、大きくなったらさぞや美男子になるだろうなあ。きっとモテるぞ」 「ばあやが笑った顔はちちうえに似てるって」 「おや、本当かい?」 エドガーの言葉にステュアートが目尻を下げた。肯定するように同じ顔で笑う二人を実に愛おしげに見つめ、遠くを眺めるような目をして微笑んだ。 「あと十年も経てば一緒に酒が飲めるかな。きっと十年もあっという間だろうな。お前たちはどんな大人になるのだろうね」 「おさけ?」 「誕生日パーティーでカンパイする時?」 「パーティーでもいいが、どうせなら親子水入らずでゆっくり飲みたいものだな。大人になったお前たちと酒が飲めるのか……いいなあ、楽しいだろうなあ」 遠くの空にまるで未来が浮かんでいるかのように目線を向ける父を間に挟んで、エドガーとマッシュはキョトンと顔を見合わせた。 「ふふふ、べろべろに酔っ払ってもきっとお前たちが介抱してくれるな。『親父、しっかりしろよ』なんて言われたりするのかね。いいね、呼ばれてみたいものだ」 「おやじ」 口にすると教育係の乳母から大目玉を食らいそうな呼び名をマッシュが呆然と呟き、エドガーは堪え切れずに吹き出す。二人の息子の反応を見比べて、ステュアートは実に楽しげな大声で笑った。釣られて子供たちも笑い、他に人気のない中庭に三人の朗らかな声が響き渡る。 「ねえちちうえ、かんぱいってする?」 「勿論乾杯するとも。お前たちの未来に乾杯だ!」 「やったー、かんぱーいっ」 ステュアートが改めて二人の腰を支える腕に力を込める。そうしてその場でくるくると周り、双子の兄弟は僅かな恐怖とそれを超える興奮に目を輝かせて、父の肩や背にしがみついた。 「なあ、楽しみだなあ、私の天使たちよ! お前たちがどんな大人になるのか、今から楽しみでならないよ」 一陣の風が笑い合う親子を掠めて吹き抜けて行く。 高らかな笑い声は風に混じって溶け込み、咲き誇る花々を揺らして中庭に響き渡った。 日差しがガゼボの長い影を造り、重なる親子の影がまるで屋根の上で踊っているかのように映し出された。静かで賑やかな、他愛のないひとときには見合わない程の巨大な祈りと願いを込めて、何度も何度もその言葉は繰り返された。 『楽しみだよ』 『未来が』 『楽しみだ』 *** 陽が落ちて空気の湿り気が減り、それまでささやかに花を揺らしていた風がふいに無風になる瞬間が度々訪れるようになった。 中庭の片隅に建てられた古びたガゼボは一月前に修繕され、まだ鼻をつく塗料の臭いが漂っている。内に据えられた小さなテーブルと椅子そっちのけで支柱に跨る手摺りの縁に腰を掛けたエドガーは、投げ出した長い脚の爪先で草の上をトントンとリズミカルに叩いていた。 先程まで着ていた礼服のジャケットを脱いでタイを外しただけの格好だが、酷くリラックスした様子だった。子供の頃に覚えた童歌の一節を口遊み、それに合わせて爪先がリズムを刻む。 ふと、爪先のトントンという音が止まった。童歌も同時に止まって、聞こえてくるのは遠くから響く靴音のみになる。 靴音が近づいてきた。石畳を渡ってくるリズムには焦りが感じられる。口元に微笑を浮かべ、いよいよ足音を立てている張本人がすぐ傍まで来たタイミングで、エドガーは待ちかねて振り返った。 「遅いぞ。あと五分遅刻していたら、先に始めていたところだ」 言葉の割には少しもそんなことを思っていなさそうな口調のエドガーの視線の先で、息を切らして立ち止まったマッシュは、汗の玉が浮いた額を拭うついでに前髪を掻き上げる。元々は正装に合わせて整えられていただろう前髪は、多少の名残を見せつつも概ね崩れていた。 「だってよ、式典の礼服がキツくて着替えるのに苦労したんだよ」 「普段からきちんとした格好をしていないからそうなるんだ。お前、今日の挨拶も俺が折角草稿を作ってやったのに、ほとんど無視して適当に済ませやがって」 唇を尖らせるエドガーに苦笑を見せて、マッシュは普段通りの薄着のシャツを摘んで肌に風を送りながら兄の隣に腰を掛けた。 「いいんだよ、気持ちが伝われば自分の言葉で話していいって親父も言ってただろ」 「全く、そういうことばっかり覚えてるんだからなあ」 「ほら始めようぜ、お待ちかねだったんだろ」 エドガーが地べたに置いたトレイの上からワインの瓶を拾い上げ、そのまま栓抜きと共にマッシュに渡す。マッシュが栓を抜いている間に、四脚用意されたワイングラスのうち二脚手に取ったエドガーは、ガゼボのすぐ目の前に設置された小さな慰霊碑のような石碑を静かに見つめた。 「小振りだが悪くないだろう。王家の墓地に比べて日当たりも良いし、ここにはあまり人が立ち入らないからな。何より、いつでも訪ねることができる」 「ああ、昔っからここは俺たち専用の遊び場みたいなもんだったよな。親父もここなら気兼ねなく眠ってんだろうなあ」 二脚のグラスにワインを注ぎ、石碑の前に静かに供える。それから一呼吸置いて、改めてもう二脚のワイングラスを取ったエドガーは、一脚を自分に、もう一脚をマッシュに手渡した。 「少々遅れてしまったけれど、ようやく家族揃っての誕生日パーティーだ。約束の乾杯をしようか、親父」 「おふくろも一緒にな!」 マッシュの言葉にエドガーは微笑み、顔を向けた先に同じ色の眼差しを見てまた更に笑みを綻ばせた。 空はあの日のように青く抜けてはいなかったが、烏羽色の闇夜に浮かぶ仄白い月の穏やかな光は、過去とは違った明るさと優しさがあった。月明かりが照らして地に伸びるガゼボの黒い影が、まるで人が立っているかのように石碑に重なった。 ほとんど無風だった空気がざわりと動いて一陣の風が二人の間を吹き抜けた時、エドガーとマッシュはグラスを高く掲げて声高らかに乾杯を叫んだ。 誕生日おめでとう。時を経て、あの日の父に似寄った声と口調で互いを祝って、二人は同じ顔を見合わせて笑った。 |