自覚




 陽が落ちて肌寒さを感じる乾いた空気の中、人目を避けるように城の裏手に姿を現したエドガーは、連れているチョコボが声を上げないようそっと嘴を撫でて辺りを見渡した。
 見張りの手薄なこの場所には王族しか知らない抜け道がある。死角になるのは僅かな時間で機を逃せば全てが終わる。
 月明かりが眩しい夜だった。
 四半時も待っただろうか、物音に振り向けば人影の輪郭を見つけて安堵する。しかしホッとしたエドガーの表情は、その人物の姿がはっきり月に照らされると硬く強張った。
 約束の時間通りに現れたマッシュは、昼に目配せした時は確かに背中まで伸びた長い髪をエドガーと同じ青いリボンで結んでいた。それが今、エドガーの目の前に立つマッシュは頸のところでバラバラに毛先を乱れさせ、リボンを結べるような長さの髪ではなくなっていた。
 エドガーは口を開きかけて噤む。マッシュは覚悟を決めて来たのだと思い知る。城を出て王族の名を捨てる決意の表れなのか、恐らくは自らナイフか何かで乱雑に切られた髪は、線の細いマッシュを普段よりも凛々しく見せていた。
 エドガーは動揺を抑えようと努めた。今自分が心を揺るがせていてはマッシュの出立に影響が出る。エドガーは静かに微笑む。
「……準備はいいか。マッシュ」
「……うん」
 エドガーはチョコボの手綱をマッシュに手渡した。クエ、と小さな声で鳴いたチョコボの頭を柔らかく撫でたマッシュは、小さな麻袋を鞍に括り付ける。用意された荷物の少なさにエドガーの胸が軋んだ。
 風が少し強くなって来た。エドガーの長い髪が靡き、マッシュの軽くなった頭で毛先が踊る。
 エドガーは胸ポケットから取り出した懐中時計を睨み、それからマッシュを見た。マッシュも頷く。
「……体に気をつけてな」
 気の利いた言葉ではなく、素直な本音が口から零れ、エドガーはほろ苦い笑みを見せた。
 姿を現してからずっと緊張していたマッシュの表情がふわりと和らぎ、眉尻が少し下がる。寂しげな、しかし迷いのない目でエドガーを見つめたマッシュは、力強く頷いてみせた。
「兄貴も。……元気で」
「俺のことは心配するな。後は全て任せてお前はお前の道を行くんだ」
「うん」
「いつも、いつでも……お前の無事を祈っているよ」
「……兄貴」
 マッシュがきゅっと唇を結び、懐に手を突っ込んで何かを握り締めた。その手をエドガーに差し出し、エドガーが目を向けるとマッシュの手の中には青のリボンが畳まれていた。
 エドガーは息を呑む。これはマッシュがつい今日まで髪を結んでいた、フィガロブルーと呼ばれる鮮やかな青のエドガーと揃いのリボンだった。
 産まれてから今まで、二人で同じだけ伸ばして来た髪を切ったマッシュ。道を分かつ証を見せられ、エドガーは思わず奥歯を噛み締める。
「兄貴に……持ってて欲しいんだ」
 マッシュが切なげに笑った。微かに震えるその手を見て、エドガーの睫毛が小刻みに揺れる。
 エドガーはマッシュのその手をそっと包み、緊張のためか冷たく白んだ指先に自分の熱を分け与えると、手の中からリボンを掬い上げた。緩く握り、胸に押し当て──おもむろにエドガーが自身の髪を結んでいたリボンを解く。金糸のような美しい髪が煽られ広がる。驚きに目を見開くマッシュの前で、風に吹かれて宙に曲線を描いたリボンがはためいた。
 エドガーはそのリボンをマッシュに差し出す。
「……では、お前はこれを。お前の行く先に砂漠の加護があるように……」
 マッシュは眉根を寄せ、少し躊躇ってから、手を伸ばしてしっかりとエドガーのリボンを握り締めた。エドガーと同じくその拳を胸に当て、祈るように俯いた。そして大事そうに手の中で小さく畳み、懐にそっと収める。
「時間だ」
 エドガーの呟きにマッシュが顔を上げた。その静かな炎が揺らめくような青い瞳と、エドガーの海のさざ波を思わせる深い瞳が真っ直ぐに繋がる。
「気を、つけるんだぞ」
 先ほどと同じ言葉しか伝えられず、エドガーはもどかしさに焦れながらも微笑みを崩さないよう足を踏ん張った。
 いつも一緒で離れたことなどなかった。二人でした悪巧み、取っ組み合いの喧嘩、父の膝に半分ずつ座って笑い、好きな菓子を半分に分けて食べた。
 剣の稽古にダンスの練習、寝込んだマッシュを一晩中看病したこと、成人の儀式で力を合わせてアントリオンを倒したあの日──
 次々に溢れる大切な思い出が頭を巡り胸を刺す。弟はこれから王家を去り、自分はこの国を統べる王となる。
 これが今生の別れになるとエドガーは覚悟を決めていた。
 マッシュはきつく結んだ唇を震わせ、苦しげに目を細めて兄貴、と小さく囁いた。
 返答はできなかった。一歩エドガーに踏み出したマッシュは、その白く冷たい指先をエドガーの頬にひやりと当て、残酷なほど純粋な瞳から愛しさを溢れさせて、その顔を静かに近づけた。
 一瞬押し当てられた唇への熱を、エドガーは目を見開いたまま受け止めた。
 指を離したマッシュは即座に視線を逸らし、チョコボに軽やかに跨って手綱を握る。
 ハッと短いかけ声が合図となり、チョコボは勢いよく夜の砂漠を駆け出した。風が強く吹き去りエドガーの髪を巻き上げる。遠ざかるマッシュの背中に声すらかけることができなかった。
 立ち尽くすエドガーは、砂漠の向こうにマッシュの影が点となって消えるまでそこから動かなかった。動けなかった。ただ、震える指先でほんの刹那熱を感じた唇に触れるだけだった。
 ──ああ。マッシュ、お前は……
 想いの全てが込められた最後のキスに、気づかないふりができるはずがなかった。
 そしてエドガーもまた、胸の奥で激しく音を立てて想いが砕ける痛みを知ってしまった。
 マッシュのくれたリボンを握り締め、闇しか映さない地平線を眺めて愛しい弟の名前を呟く。
 ぼやけた視界の向こうで面影は揺らめき、はらりと転がり落ちた雫が砂に落ちて、見上げた夜空はどこまでも黒く澄み無言の星が瞬いていた。