ONE DIMEの夢






「じゃ、いってきます!」
 スーツ姿にリュックサックというアンバランスな格好ながら、それなりにネクタイが様になってきたヒカルは玄関で笑顔を見せた。
 見送りの母が頑張ってと微笑み返す。その言葉に頷き、ドアノブを握ろうとしたその時、何か思い出したようにヒカルは母を振り返った。
「あのさ。……見に来てよ。一昨年と同じホテルだから」
「え……?」
 母が驚いた顔を見せた。
 ヒカルは少しはにかみ、それでもしっかりと母親を見つめて、力強く胸を張る。
「俺、勝つから」
「ヒカル……」
「お母さんも、今ならルールも分かるから退屈しないだろ? じいちゃん誘って一緒に見に来なよ。組み合わせ決まったら電話するからさ」
 澄んだ目で自信に溢れる言葉を告げたヒカルを見て、母は穏やかに目を細め、そして優しく笑った。
「そうね。見に行くわ。楽しみにしてるわね」
「うん、それじゃいってくる!」
 ヒカルは元気よく玄関を飛び出した。





 ***





 ホテルに到着したヒカルは、一足先にロビーでヒカルを待っていたらしいアキラと社の顔を見つけて駆け寄った。
「早いな、二人とも」
 アキラはにこやかに、社は少々疲れた顔でヒカルを迎える。
「社、顔色悪くねえ?」
「夕べ朝の五時まで打ってたんだそうだ。レセプションで寝るなと釘を刺していたところだよ」
「うるせ。譲れん男の勝負があったんや。あ〜、頭痛た」
「一体何で盛り上がったんだ?」
 仄かにアルコールの臭いがしないでもない社に顔を顰めて、アキラは呆れたように言った。
 社は憮然とした表情ながらも、少しからかうように眉を持ち上げて、ヒカルとアキラの顔を交互に見やる。
「お前らはやけにスッキリした顔しとんなあ。夕べはよく眠れたんか〜?」
 わざとらしい言葉にヒカルは赤くなるが、アキラは澄ました顔を崩さずにしれっと答える。
「おかげさまで。静かな夜をありがとう。二日酔いで調子が出ませんでしたなんて言い訳をしたらただじゃおかないからな、三将」
 社がぐっと言葉に詰まった。
 社に向けていた厳しく細い目をふいに和らげたアキラは、ヒカルを振り返って笑顔を見せる。
「さ、進藤、チェックインがまだだろう? フロントに行こう」
 鮮やかな二面性を見せるアキラに、ヒカルはただ苦笑するしかなかった。





 ***





 レセプションにて、第三回北斗杯の対戦組み合わせ結果が発表された。
 一日目午前、中国対韓国。午後、日本対中国。
 二日目、日本対韓国。

 会場でアキラと社に並び、首をきょろきょろさせていたヒカルは、韓国チームの洪秀英と高永夏の二人と目が合った。
 秀英は嬉しそうに、永夏は不適な笑みを浮かべてヒカルに視線を投げ返す。
 ヒカルもにっと口角を吊り上げて合図を返した。
 永夏の目が、「今年は大丈夫だろうな?」と語りかけているような気がする。
(もちろん)
 ヒカルは力強く頷いてみせた。





 ***





 北斗杯初日――

 午前に行われた中国対韓国戦は、二勝一敗で韓国が勝利した。
 中国の三将は今年が北斗杯初参加のダークホースで、韓国の三将を見事な展開で打ち負かした。
 その巧みな打ち筋に、日本チームの三将である社がごくりと生唾を飲み込んでいたのにヒカルは気づいた。

 午後、日本対中国戦。
 日本チームの大将塔矢アキラは圧倒的な力の差を見せ付けて中押し勝ち、副将進藤ヒカルは手堅く三目半勝ち。三将社清春は、残念ながら相手に僅かな隙を突かれて一目半及ばなかった。社が力を出し切れなかった訳ではない。相手が一枚上手だったのだ。
 噛み千切るかと思うほどに口唇に歯を立てる社の背中に、ヒカルもアキラもしばらく声がかけられなかった。

 ヒカルは少し心配そうな眼差しを社に向けたが、社の目から闘志の炎は消えていない。
「すまん、俺、今日早めに寝るわ。頭冷やす。明日は負けん」
 きっぱりとした社の真っ直ぐな目を見て、ヒカルはほっと息をついた。
(大丈夫だ。社、腐ってない)


 その日の夜、社を除いた日本チームのメンバーで、明日の韓国戦に向けてのミーティングが行われた。
「進藤、明日の大将戦、行けるよな。」
 団長・倉田の確信を含んだ言葉に、ヒカルは表情を引き締めてしっかりと頷いた。
「やります」

 初日の夜が更けていく。





 ***





 二日目、日本対韓国戦。
 日本チームの大将席に座ったのは進藤ヒカル。対する韓国の大将は高永夏。
 塔矢アキラは、副将として洪秀英と対峙することになった。
 アキラの力づくな攻めに一歩も引かない秀英は、それを更に上回る勢いでアキラの黒石を攻め立てた。
 両者の均衡がなかなか崩れない緊迫の展開は、アキラが強引に白の陣地に放り込んだ一手が決め手となった。
 防御を余儀なくされた秀英の手が弱まった時、アキラは勝利を確信した。
 その数手後に、秀英は投了を告げる。
 三将戦では昨日の負けを引き摺らず、冷静に自分の碁を貫いた社が二目半の勝利を手にしていた。

 副将、三将戦が終局しても、大将戦の結果にはまだ時間がかかりそうだった。





 ***





 対局を終えたアキラや社、秀英たちが見守る中、大将戦の整地は行われた。
 勝敗の分かれ目は僅か半目――奇しくも二年前と同じ。
 整地終了後、どっかり椅子に背を凭れさせた永夏が、軽く肩を竦めて微かに笑った。
 永夏は碁盤を見下ろして息を呑んでいる秀英を見上げ、
『秀英。通訳してくれ』
 そう言って、真直ぐに対面に座るヒカルを見た。
 まだどこか茫然としていたヒカルは、永夏の視線にはっと顔を上げる。
 永夏は薄く笑みを浮かべたまま、韓国語で告げた。
『今日はマシな碁を打ったじゃないか。まあ、及第点はくれてやる。もっとも、次は譲らないがな』
『永夏!』
 相手を素直に称賛しているとは言い難い永夏の口振りに秀英が咎めるような声を上げたが、永夏はヒカルを見据えたまま答えない。
 何と翻訳するか躊躇った秀英は、永夏の表情は挑戦的ではあるが、目だけがやけに穏やかなことに気づいた。
『さすが――本因坊秀策を師に持つだけのことはある』
 秀英と、ヒカルの傍らでその様子を見守っていたアキラがはっとした。
 ヒカルも「本因坊秀策」の名前は聞き取れたのだろう、少し目を大きくして秀英とアキラを交互に振り返り、どちらかが通訳するのを待っている。
 秀英は永夏に苦笑を、そしてヒカルに微笑を見せ、口を開く。
「次は負けない。――お前の力を認めるってさ」
 ヒカルは永夏に目を瞠る。
 秀英の翻訳を聞いたアキラが、ひっそりと微笑んだ。
 ぽかんと口唇を半開きにして永夏を眺めていたヒカルは、やがて周囲の人間の目が眩むほどに破顔した。
 二年前、そして一年前の同じ日とは、対照的な笑顔だった。

 日本対韓国大将戦、白石・進藤ヒカルの半目勝ち。





 ***





 死闘の夜、社はホテルの部屋のチャイムを鳴らす訪問者のためにドアを開いた。
 そこにはアキラが何やらバッグを手にして立っていた。
「塔矢」
 驚く社に、アキラは「失礼するよ」とずかずか中へ入っていく。
「なんや、お前進藤のとこに行かんでええんか?」
「……いいんだ」
 アキラは少しだけ暗い表情をして、窓際の小さなテーブルにどんとバッグを置いた。音からして、随分重そうな中身らしい。
 そのままぽすんとベッドに腰掛けたアキラは、この部屋に来る前にヒカルと交わした会話を思い出しているようだった。



 ――今日は特別な日なんだ。

 俺、今夜は一人で反省会したいんだ。
 大丈夫だよ。心配すんなよ。

 大好きだよ、塔矢――



 今日は恐らく、ヒカルが捕らわれていた彼の人に関係がある日なのだろう。
(いいんだ。ボクは何年だって待ってみせるんだから――)
 きっといつか、今日の日のこともヒカルの口から話してもらえる時が来るはずだ。
 その日が来るまで、何も聞いたりするものか。
「……お前、フラれたんか」
 社の目がにやりと歪んだのを確認したアキラは少々むっとしたが、何も言わずバッグのファスナーを開き始めた。
 中からアキラが取り出し始めた何本ものビールの缶を見て、社が目を丸くする。
「お、お前、……どしたん、これ」
「……今度は酒の飲み方を教えてくれ、師匠」
 社はぽかんと口を開け、いつになく頼りないアキラの姿に調子が狂ったように、がりがりと後頭部を掻いた。
 ふうっとため息をついた社は、アキラの隣にどすんと腰を下ろす。
 塔矢アキラでも、自棄酒したくなるようなことがあるのだと、何やら苦笑いしたい気分だった。
「よっしゃ。まー、つきあったるか。なんやこれ、ひょっとして全部廊下の自販で買ったんか? 金持ちやな〜」
「一番近いところで買っただけだ。残ったらキミが全部飲んでいい」
「あほ、こんなに飲めるかい。……ちなみにお前、ビール飲んだことあるんか?」
「……一度だけある。ただ、ボクは酷く弱いらしい」
 そんなやりとりの約三十分後。


「……弱すぎるやろ」
「……」
 社の肩を背凭れの代わりにして、瞼を半分以上落としたアキラが口にしたビールの量は、缶一本と二本目の二口ちょっと、といったところだろう。
 社は呆れながら、自分に遠慮なく体重をかけてくる迷惑なおかっぱをじろりと睨む。
「そんなに淋しいなら、進藤んとこ行けばええやん」
「いいって言ってるだろ……ボクは彼を信じてる……」
 アキラの言葉の意味は社にはよく分からなかったが、ヒカルが念願の勝利を果たした今日という日の夜を、一人で過ごすことを選んだことに、何らかの理由があるのだろうとは予想がついた。
 アキラはそれを了解しながらも、悶々とした気持ちを一人で抱えるのが我慢ならなくなったのだろうか。珍しいこともあるものだと、社はとうとう寝息を立て始めた男を見下ろしながら肩を竦める。
 さて、この潰れた男を転がして、一人で月見酒と洒落込みますか。
 社はカーテンを開いて満足げに月を見上げ、アキラが残したビールを、ぐびぐびと開け始めた。





 ***





 同じ月をヒカルも見ていた。
 まだ、勝利の実感はいまいち沸いてこない。
 和谷や伊角から届けられたおめでとうメールに、ありがとうと返信しても、どこか昂ぶった気持ちが治まらないまま、ただただ月を見上げ続ける。
 精一杯力を出し切ったと、胸を張って伝えることができる。
 自分の力で、満足いく勝利を得られたと心から納得できる。
 それなのに、胸に一抹の淋しさが漂うのは何故なのだろう。
「……勝ったぞ、佐為」
 ぽつりと呟くと、自然と口唇の端が薄ら釣りあがった。

 ――俺、本当に一人で歩き始めたよ。
 お前が教えてくれた囲碁の道を、これからは俺が自分の足で歩くんだ。
 でも、俺の周りにはたくさんの人がいるから。大切な人たちが、俺を支えてくれるから。
 だから、今よりもっと頑張れるよ。


 ありがとう、佐為。
 お前と一緒にいた二年半、すげえ楽しかったよ。
 消える前に伝えてあげられなくて、ごめんな。
 ……さよなら、佐為……



 ヒカルは滲んだ月の輪郭を眺めながら、大きく息を吸い込んだ。
 そのまま大きな声で空に向かって呼びかけたかったが、誰もいない山奥などではないホテルの一室ではなかなか厳しいものがあるだろう。
 にっと歯を見せて笑ったヒカルは、心の中で精一杯の声を張り上げた。

(佐為――っ! 勝ったぞ――!)

 遠い遠い空の上、雲を抜けて星を越えて、きっとこの声は届くだろう。
 頬を涙が伝っても、明日になればきっとまた笑顔でいられる。
 黒い夜空にぼんやり光る月が、空に合わせて白み始めるまで、ヒカルは飽きることなくずっと優しい輝きを見つめていた。
 じっと。ずっと。








三回目の北斗杯が終了しました。
もうここで「御愛読有難うございました」にしたいくらい。
や、頑張って二十歳まで行きますよ!
(BGM:ONE DIMEの夢/LOOK)