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「越智って今日なんでいないんだっけ?」
「来週本因坊戦の予選だってさ。勝ったら初のリーグ入りだから集中したいらしいよ」
 頭の上で交わされた会話に、じっと前屈みで碁盤を見つめていたヒカルも軽く顔を上げた。
「相手、誰?」
 会話に割って入って来たヒカルの声に、尋ねられた伊角は顔を下ろして、確か、と前置きしてから告げた。
「藤城さんって聞いたような」
「あー、タイプ似てるからやりにくいだろうな〜」
「だろうな」
 伊角の返事とほぼ同時のタイミングでパチンと音がした。ヒカルがまた顔の向きを戻すと、十数分ほど変化のなかった盤上に新たな一手が打たれていた。
 伊角の正面で碁盤に向かう本田が、満足げな表情で打ったばかりの黒石を見つめている。
「ここ叩いて、こっちでオサエるともう上辺は動かないんじゃないか?」
 本田の言葉にヒカルも伊角も身を乗り出して碁盤を睨む。あっちは、いやここはと可能性を感じる箇所を幾つか指差して、結局本田の意見が最適だと認めた二人は納得の目で何度か小さく頷いた。
「うん、いいな」
「形も綺麗だ」
 見惚れるように目を細めてもう一度大きく頷き、何か気づいた様子で盤上に手を伸ばしかけたヒカルは、一転ハッとして壁の時計を見上げた。小さく口を開けて恐らくは焦りの言葉を呟いて、慌ただしく立ち上がるヒカルを見て伊角が残念そうに眉を寄せる。
「時間か? 一局打ちたかった」
「ごめん、もうすでに五分オーバー。悪いけど行くよ。次絶対打とう」
 やや早口で謝罪しながら、部屋の隅で壁に凭れていたボディバッグを引っ掴むと、ヒカルは畳の上で多少足を滑らせながら襖へと駆けて行った。バタバタと騒々しい音が遠くなってから、状況をぽかんとして見守っていた本田がおもむろに伊角を振り返る。
「あいつ、来てまだ三十分くらいしか経ってないのに」
「予定が入ってたんだよ。その前に少しだけ時間があるからって、それで無理して呼んだんだ。もう少し長くいられると思ったけど」
 盤面の石をざらりと大きく崩しながら、本田は眉間の皺を隠さずに大きく溜息をついた。
「なんだよ、俺だって久し振りに進藤とやりたかったよ。それにあいつ、先月倒れたって聞いたけど大丈夫なのか? 見た目は元気そうだったけど」
「ああ、過労が祟ったらしい。丁度和谷と現場に居合わせていて、塔矢が……そういや、和谷もそろそろ来るはずだったけど間に合わなかったな」
 ヒカルが消えた襖を振り返りながら独り言のように伊角が呟いた頃には、賑やかしい足跡も完全に聞こえなくなっていた。

 
 エレベーターが一階で止まっているのを横目に通り過ぎ、まどろっこしく階段を早足で駆け下りる。
 立ち止まっているのが不安なのは相変わらずだった。それでも一度痛い目を見ているので、睡眠時間の確保は最優先にしている。それから恋人とのスキンシップ。三大欲とは疎かに出来ないものだとしみじみ思う。
 と言うのも、引越しまでのスケジュールが具体的になっていくにつれて気持ちがますます昂って来ているようで、考え続ければ食事を忘れるし興奮して眠れない。そんな時にアキラがまあ、いろんな方法で疲れさせてくれるとぐっすり眠れるし、起きた後は腹も減る。身体も心も満たされて言うことなし。よく出来ているものだなあと自分の身体に感心してしまうくらい。
 碁の調子も悪くない。このまま良い状態をキープしておきたい──最後の一段を軽快に飛び降りて、降り切った階段を振り返らずにロビーを横切り、誰かに出会して走るなと小言を言われないよう急いで出口となる正面玄関へ向かった時。
 丁度入れ違いのタイミングで中に入ろうとしていた和谷を見つけて、ヒカルは思わず足を止めた。
「和谷」
 呼びかけると俯きがちだった和谷がハッと顔を上げ、それから僅かに表情を強張らせた、ように見えた。気のせいかとも思ったが、その後のぎこちない笑みがまるで取って付けたように不自然で、ヒカルは微かに眉を寄せる。
「あ……あ、進藤か。なんだ、もう帰んのか? 今から研究会行くつもりだったのに」
 やけに場を取り繕うような台詞が気になったが、時間がないのは本当だった。また次な、と揃えた指を顔の前に立てて和谷の横を通り過ぎようとした時、和谷が少し慌てた様子で食い下がってきた。
「お、お前、身体もう大丈夫なのかよ?」
 腕を掴まれたことにギョッとして振り返る。
 向き合った和谷の顔は不自然な作りかけの笑顔だった。普段通りを装おうとして失敗しているのだと見当がついたが、その理由がヒカルには思い当たらない。
 訝しく思いながらも、今は受け流そうと口を開いた。
「何でもねえよ。あの時心配かけて悪かったな」
「ホントだよ、めちゃくちゃビビったぜ。病院、行ったんだよな?」
「ああ、ちゃんと行ったよ。塔矢からメール来ただろ?」
 ほんの一瞬、しかし明らかに和谷が顔を引き攣らせた様をヒカルは見た。
 目を瞠った時には和谷は幾分か落ち着きを取り戻して「ああ」と頷く。どこか浮かない様子が後ろ髪を引くが、これ以上立ち止まる時間の猶予は無かった。
 じゃあと簡単に別れの挨拶をして再び走り出したヒカルは、一度だけ和谷を振り返った。玄関口で突っ立ったまま未だヒカルの方を見ている和谷を確かめて、一抹の不安を覚えながらも前を向く。
 ああそうだ、メールと言えば待ち合わせの相手にも少し遅れるとメールしなければ。駆け足が速度を増す。地を蹴る足に伝わる心地よい痛みが、僅かに刺さった心の刺を小さく見えなくしてくれる。



 合鍵を取り出す動作にもたつきはなく、すでにこの部屋に訪れることが日々の生活の一部になっているのだと実感する。
 あと二ヶ月で本当の「帰るところ」になるのだ。しょっちゅう入り浸っているため初々しさはないが、それでも引越しの日を想像すると胸の鼓動が速くなる。
 とはいえ今日はこのドアを握る手に若干の緊張が見られた。──結局約束の時間から三十分オーバー。
 いつもの乱雑な所作を抑えてそうっと開いたドアの向こう、仁王立ちで待ち構える恋人の姿を覚悟して──誰もいないことに拍子抜けする。
「ちー……っす」
 滑り込むように玄関に入って恐々奥へと声を掛けると、
「進藤? もう来たのか?」
 返ってきた声は意外な程穏やかで、疑心暗鬼に顔を顰めながらリビングへと向かえばアキラが妙な顔で迎えてくれた。
「なんだ、顰めっ面して」
「いや、怒られるかなって覚悟して来たから」
「怒られる? 何か怒られるようなことでもしたのか」
 急に眉尻をキリッと上げたアキラに慌てて手を振る。
「いや、遅刻しちゃったからさ。ホラ」
 ヒカルが指差した時計を一瞥したアキラは、呆れたように一度上げた肩を下げてフッと短く息を吐いた。
「三十分くらいじゃないか」
「くらいって、いやいや、お前めちゃくちゃ時間厳守の男だろ?」
「勿論時間を守るのは大事だけど、今日は久し振りの研究会だったんだろう。馴染みの顔が多いようだったから、もっと遅れて来るかと思ったよ」
 ヒカルは咄嗟に何か言いかけて、しかし開いた口から言葉が出ることはなく、呆然とアキラを見つめた目を何度か瞬きさせてから感慨深げに呟いた。
「お前……変わったよなあ」
 アキラは一瞬心外だとでも言いたげにムッと唇を尖らせたが、すぐに思うところがあったのか、眉尻を下げて静かに苦笑する。こんなツラまで様になるなあなんてほんの少し見惚れつつ、ようやく調子を取り戻したヒカルはいつもの定位置にボディバッグを放ってジャケットを脱ぎ始めた。
「少し前なら考えらんねえな」
「まあ……ね。そりゃあ今だって、キミが親しくしている人達を羨む気持ちは多少はあるさ。でも、キミがボクの全ての時間を占領したりしないように、ボクにもキミの自由を尊重することが重要だと理解出来た。そしてその方がキミは活き活きとしている……やはりこれでいいんだと納得してからは、それほど心も騒がなくなったよ」
 アキラはキッチンに向かって行く。何か飲み物を用意するのだとヒカルも分かっているので、お客気分でいそいそとソファに座ろうとした時。
「手を洗って来い」
 ピシャリと飛んで来た声に肩を竦めて、生返事をしながら洗面所へ足を向けた。
 鼻歌混じりに手を洗い、戻って来たリビングのローテーブルにはコーヒーが二人分用意されている。ソファの定位置に座って自分のものと化しているカップを手に取り、口に含んで満足げに吐息を漏らす。
 アキラもまたヒカルの隣に腰を下ろしてカップに手を伸ばした。ゆっくりとカップに口付けるアキラの横顔を思わず瞠る。
 ヒカルにとっては少々意外な落ち着きぶりだった。 この日にアキラと打つことを約束したのは昨日や今日ではなく、互いにそれなりに待ち侘びた逢瀬だったはずだ。と言っても艶かしい方が主目的ではなく、まずは寸暇を惜しんで対局するものだとばかり思っていた。
 過労で倒れてからヒカルの体調を誰より気遣っているのはアキラだ。自身のみならずヒカルのスケジュールを把握して、無理がないようアドバイスをくれる。いや、ほとんど命令と言っても良い。
 それでも引き受けた仕事に極力穴は開けられない。以前のように無茶な日程を組まなくなった代償として、個人的な時間を削る選択をせざるを得なかった。結果的に二人で逢う時間も減り、アキラにとっては物足りない時期ではないかと思っていたのだが。
「打つ前に、少し話があるんだ」
 改まった前置きにヒカルは少しだけ身構えた。
 が、すぐに肩の力を抜いた。アキラの眼差しに翳りはなく、悪い知らせではないのだろうと背凭れに身体を預ける。
「少し前から話はいただいていたのだけれど、つい昨日、正式に打診が来たんだ。……去年、いやもう一昨年かな。その頃にも一度話が来ていたんだが、当時のボクはキミもご存知の通り酷く盲目になっていてね、けんもほろろに断っていたんだよ」
 核心に触れない説明に微かに眉を顰めたが、次いでアキラが口にしたのとヒカルが昨年の北斗杯にて秀英から聞いた話を思い出したのとはほぼ同時だった。
「韓国と中国、そして日本の棋士を交換留学させる計画があったんだ。以前立ち上がっていた内容とは少し形が変わったそうだが、今回それが本決まりになったからと棋院に呼ばれて話を聞いて来た。……候補として真っ先に名前が挙がったのは、今回に関しては偏に実績よりも動きやすさだろう。何しろボクは次の棋戦は全て一次予選からやり直しだから」
 やや自嘲気味に微笑むアキラの横顔をヒカルは黙って見つめていた。
「前回のようにボクの力を認めて選んでもらえた訳じゃない。調子は上向きとはいえ失った信用を取り戻すのが容易ではないことは骨身に沁みて理解している。……チャンスだと思った」
 僅かに狭めたヒカルの瞳が鋭く煌く。
「おこぼれだろうが何だろうが、この機会を逃したくない。……ボクはボクのために行く。昨日、謹んでお受けしますと返事をして来た」
 そうしてゆっくりヒカルを振り返ったアキラへ、それまで口を挟まず聞いていたヒカルはニッと口角を上げてみせた。──アキラが自分で考えて出した結論に異論があるはずもない。
「お前、どっちに行くんだよ」
「予定では韓国だ。これから改めて調整に入るそうだから、中国になる可能性もなくはないが」
「……、いつから?」
「六月下旬。期間は約三ヶ月だ」
「三ヶ月か……」
 ヒカルが指を折って三ヶ月後の月を数える。ふと視線を感じて振り向くと、アキラが優しくも芯のある眼差しでヒカルを見つめていた。
「キミの誕生日までには戻れる」
 きっぱりと断言したアキラに、ヒカルは照れ臭そうな笑みを返す。
 今年の誕生日は一緒に過ごそうと約束したことを忘れていない意思表示なのだろう。生真面目さが可笑しくて、嬉しかった。
「三ヶ月かあ。結構まとまった期間なんだな」
「忙しくしていればあっという間だよ。学ぶことは幾らでもあるだろうし、足りないくらいかもしれない。……引越し後すぐにキミにこの部屋を任せることになるのが、申し訳なくて少々不安でもあるけれど」
「どういう意味だよ」
 不貞腐れて唇を尖らせるヒカルの横でアキラが黙って苦笑した。ヒカルは尖らせた口のままコーヒーを一口含み、やや仏頂面を和らげてカップをテーブルに置く。
 そしてそのままアキラに右手を差し出した。
「行くなら結果出して来いよ。ホームシックでメソメソしたりしたら帰って来ても部屋に入れてやんねえからな」
「当然だ。ボクを誰だと思っている。キミこそ実家を出たばかりで一人きりになって、枕を濡らさないでくれよ?」
 言い返しながらもヒカルの手を取ったアキラは、その手をしっかりと握り返した。ヒカルはハッと短く笑い、握った手を潰すように力を込める。
「惚れ直させてくれよ。……頑張って行って来い」
「ああ。行って来るよ」
 不敵に微笑むアキラの目に揺らぎはない。
 もう、ヒカルと離れることを極端に怖れる独りよがりの青年はいない。迷いも何もない、進むべき道を真っ直ぐ捉えたアキラの力強さを肌で感じて、ウカウカしているとまた追い越されてしまう恐怖と期待にヒカルはぶるりと身を震わせた。
 そっと手を離し、アキラが立ち上がって碁盤を見る。
「話は終わり。じゃあ、打とうか」
「おお! ……って、六月下旬ってことはお前の出発まであと三ヶ月?」
 立ち上がろうと腰を浮かせたままのヒカルが不意に眉を寄せて呟いた。碁盤に向かって足を踏み出していたアキラは立ち止まり、難しい顔をし始めたヒカルを振り返って首を傾げる。
「そう、なるね」
「じゃあさ、こっち優先した方がいんじゃね?」
 アキラにするりと近づいたヒカルは、その肩に腕を回して意味深に顔を近づけた。その至近距離で見る急に色づいた瞳の色を即座に感じ取ったアキラは赤面し、慌ててヒカルを押し退けようとする。
「きゅ、急に何を言い出すんだ」
「だってよ、あっち行ったら三ヶ月オアズケだろ? 碁ならネットでも打てるけどこっちはそうもいかないじゃん」
 距離を詰めるどころか密着と言って良い近さで、悪戯っぽい口調の癖に艶を帯びた目が獲物を狙う捕食者のそれであるヒカルは一歩も引かない。
 しかしアキラはアキラで当初の予定を簡単に曲げることを由とせず、ヒカルを引き摺ったまま碁盤へ向かう歩みを止めなかった。
「どうせ、今夜は泊まって行くんだろう……! 今日はこれから夜まで対局、その後は料理の練習だって決めてたじゃないか……!」
「んだよ、人が折角ソノ気になってんのに……! お前がしばらくへたれてた頃の分、俺はまだ足りてねえんだよ! なのにあと三ヶ月経ったらまた三ヶ月我慢しろって拷問かよ!」
「そ、それは申し訳ないと、あっ、こら、キミは全く……!!」


 三月の水温む季節、新しい挑戦はそう遠くない未来に待ち構えている。
 不安少々、期待は十二分、春の足音を背にして躊躇わずに前へ、前へ。





じゅじゅじゅ12年ぶりの本編です…!
12年も経つとひょっとしたら雰囲気や文章が変わっていて、
前よりも読みにくくなっていたらスミマセン…
過去にこの留学をにおわせた時、
伏線ですか?とたくさんコメントいただいたの思い出します。
はい、その通りです!
当時何度も読みに来てくださってた皆様が、
今もずっとお元気でいらっしゃいますように。
(BGM:raize/INORAN)