好き






 柄じゃねえな、とは思ってたんだよ。
 だってさ、今までずっと碁ばっかだったから。多分周りが一番そういうことに盛り上がってる時に、俺は突然現れた囲碁幽霊の手引きでどっぷり囲碁に浸かっちまったんだもん。
 だからアイツが突然、人を噛み殺しそうな血走った目ぇして「好きだ」って言って来た時、何の冗談だよってツッこむ以前に言葉の意味が分からなかったっつうか。
 冗談なんかじゃないってのはあの目見りゃすぐ分かったし。


 最初は全然そんな気じゃなかったんだけど。
 なんだか一度告ったら開き直ったのか、ガンガン攻めて来たアイツの勢いに押し切られた。
 それでお友達から始めましょう、みたいなノリで……なんちゅうかまあ、付き合うことになったみたいなんだけど。
 自分のことなのに「みたい」ってヘンな話だよな、とは思うよ。でも俺もはっきり頷いた訳じゃなかったし、かといってきっぱり断ったわけでもなくて、曖昧に唸ってたらアイツの中ではそういうことになったみたいだ。
 だけどさ、アイツ一番大事なことすっ飛ばしてるけど、俺らぶっちゃけ男同士じゃん? それって問題あるんじゃねえか? ……なんて、当たり前の疑問はとうとうぶつけることができなかった。
 だってアイツすげえ真面目な顔してんだもん。
 ムチャクチャ真剣な目して俺のこと見んだもん。


 とはいえ、その日から劇的に何かが変わったなんてことはなくって。
 いつもみたいに時間が合ったら碁会所で待ち合わせて碁を打って、会えない時はたまにメールでやり取りして、それもコイビトっぽい甘い会話なんかじゃなくて、「明日の相手は誰々さんだ」「今日はいい勝ち方をした」とかそんなんだ。
 だから俺もちょっと安心してたんだ。――なんだ、今までと変わんないじゃん、って。
 ピンと来てないとはいえ、一応付き合ってることにはなってたんだし。だからって、その日から突然アイツ見て胸がドキドキするはずねえから、俺はフツーにすることしかできなかったんだ。ヘンに意識し過ぎてもなんか恥ずかしいしさ。
 アイツも別に何か言ってくることもなくて、俺たち付き合いだしてから一ヶ月くらいはそれまでと全然変わんない状態だったんだ。会う回数が減ることも増えることもなく、棋院で顔合わせたら話もするし、碁ばっかじゃなくてたまに雑談だってする。アイツとじゃあんまり噛み合わないけどさ。
 俺はそういう時間が好きだったから、その居心地の良さに満足して、俺たちが付き合ってるっていう大前提をすっかり忘れていた。

 そんな調子でいつも通りアイツと打った碁会所の帰り、随分冷え込んだその日は珍しく細かい雪が夜空をちらついてた。
 最近寒くなったなって思ってたけど、冬支度とか面倒だったから俺のジャケットは薄地で手袋もなくて、手に白い息吐きかけてあっためたりしてた。無意識だった。
 途中で買い食いとかしながらアイツと並んで地下鉄の駅に潜って、ふわってあったかくなった空気にちょっとほっとしながら、いつもだったらそこでバイバイなんだ。
 だけどその日はアイツがついてきた。
「送るよ」
 俺、すっごいきょとんとしたと思う。顔に思いっきり「なんで?」って書いてあったんだろうな。アイツ、ちょっと困った顔して
「話し足りないから」
 って小声で付け足した。
 俺、さっきの検討の続きかなーってボケたこと考えた。アイツが持ってきた棋譜のひとつになかなか面白い展開のがあって、これはこうしたらああしたらってアレコレ弄ってたんだけどちょっと流れに行き詰っちゃって。
 結局それ以上の内容に仕上げられないままタイムリミットで碁会所出てきたから、そのことだろうって思い込んでた。それで深く考えずに頷いたんだ。
 なのにアイツ、地下鉄待ってる短い間も乗り込んだ後も、全然口を開こうとしない。俺が話しかけたら相槌は返すくせに、自分から何も言わないから何か調子狂っちまった。
 検討の続きやるんじゃないのかよ。――俺の疑問は地下鉄を降りて、俺ん家の近くの駅から地上に出た時に予想してなかった形で解決された。

 外に出た途端、手が冷たいなって意識したのはほんの一瞬だった。
 ぎゅっ、て握られた。右手。アイツの左手に。
 どきんって――心臓ってマジで音立てるんだって驚くくらい胸が大きく揺れて、びくって身体竦んだせいで俺はアイツを振り向くタイミングを失った。
 俺が何も言わないからか、アイツも黙ったまま俺の右手を更に強く握り締めて、そのまま自分のコートのポケットに突っ込んだんだ。指先も手のひらも手の甲も、一気にあったかくなって、隙間が開いた手首だけがひんやり風に忍び込まれた。
 アイツはそのまま歩き出す。俺はほんの少し引っ張られるみたいになって、前のめりになりながらもアイツの隣に並んだ。
 ちょっとだけ周りの視線が気になったけど、元々この時間にここで降りる人ってあんまりいないし、すっかり暗くなってたから傍目には目立たなかったかもしれない。
 アイツのポケットん中で、手を繋いだまま白い息棚引かせて。
 すげえ寒かったはずなのに、頬の内側からなんだかぽって火がついたみたいな熱を感じた。
 こんなにぴったりくっついて歩くの初めてだし、手だって一度も繋いだことなんかなかった。
 アイツ、何も言わない。ただ黙って歩いてる。
 だから俺も黙って歩いた。胸がばくばくして何も言えなかった。
 そういえば俺ら、付き合ってたんだっけ……すっかり忘れてたことを思い出したら、アイツと繋がってる手がじんわり汗ばんできた。
 やだな、気持ち悪がられないかな。べたべたしてきた手に焦ってたら、なんか背中とか脇とかもやけにひんやり汗掻いてきちゃって、思わずくしゃみをひとつ零した。
 そしたらアイツ、ぎゅって握ってる手に力込めたんだ。……俺、汗掻いてるの分かってるよな。なんで何も言わないんだろ。前だけ向いて、こっち全然向かないし。
 だから俺も振り向けない。

 家までの距離は一人ならほんの十数分だけど、二人だったら何十分にも一瞬にも思えた。
 俺の家が見えてくる頃にはすっかり寒さなんか忘れてて、寧ろ頭から湯気が出てんじゃないかって思うくらい身体全部火照ったみたいになって。
 顔合わせるの恥ずかしいなんて思ってた。――今はお互い真っ直ぐ前見て歩いてるけど、別れる時にはさよならくらい言うだろうからさ。
 繋いだ手はべたべた。後から考えたら、俺の汗だけじゃなくてアイツの汗も混じってたんだと思う。でも嫌だって感じはなくて、それよりも自分が汗掻いてることで頭いっぱいで気にならなかった。
 アイツ、がっちり指絡めてたから。
 力入れすぎて、冷たくなった指先が俺の手の甲に食い込んでる。
 あったかいのに、変に冷えて湿ってたポケットの中。隙間風が入り込んだらやたら寒い。だけど手は離れなかったし、……離さなかった。
 玄関の光、オレンジ色で良かった。今が夜で良かった。明るいところで顔見られたら、多分シャレになんないことになってたから。
 それまで意識してなかったから、尚更。

 俺ん家の門の前で、ようやくアイツの手の力がふわっと緩んだ。
 俺はそろっとアイツのポケットから手を抜く。風に刺されたみたいに湿った手がかじかんだ。
 動けたのはそこまでだった。一気に冷気に晒された手をぶらんと垂らして、俺はすぐに顔を上げられなかったから。ぼんやりした薄明かりの中でも、俺変な顔してるのバレるかもって思ったんだ。
 アイツも同じように自分のポケットから手を抜いたのは見えた。きっとアイツの手もあっという間に冷たくなっただろう……俺はこの不自然な沈黙をごまかすために、ただじっとアイツの長い指見て黙ってた。
 俺たちの間を靄みたいな白い息が何度も何度も流れては消えて行った。
 どうしよう? ……門の前で二人で無言で突っ立って、俺はすっかり困り果てた。
 そういえば送ってもらったのなんて初めてだ。女じゃねえんだから夜道が危ないなんてこともないだろうし、当たり前っちゃ当たり前だけど。
 でも、「話し足りない」なんて言ったくせに、俺たち一言も話してねえじゃねえかよ。ただ、手を繋いで歩いてきただけ。……恋人みたいに。

「……、それじゃ……」
 掠れた声に弾かれて、俺はびくっと顎を上げた。
 それから、分かりやすくごくんって唾飲み込んだ。俺の喉が動いたの、アイツも分かったと思う。
 アイツはじっと俺を見てた。暗いから顔が赤かったかどうかまでは分かんなかったけど、なんか怒ってるみたいな顔して真っ直ぐに、俺を。
 怒ってるんじゃない。……たぶん、照れ隠しだ……。
 気づかなきゃいいのにそんなことに気づいた途端、ぽんって俺の顔にもう一度火がついた。――嘘じゃない。本当に、まるでライターの火がぽってついたみたいに、頬を取り巻く空気まで震えるくらいに強い熱が、一瞬で。
 掠れた声だった、アイツ。カラッカラに貼り付いた喉で無理矢理出した声みたいだった。
 俺がアイツの指見つめてる間、アイツはずっと俺を見ていた。ずっと。ずっと。
 今だけじゃない。碁会所にいる時から、その前も、棋院で会ったり対局場で顔合わせたりした時も、アイツが俺に告る前からずっとずっと。
 アイツはいつも俺を見ていた。
 ……俺はようやく、そのことに気づいたんだ。
 俺はやっと、「付き合う」って言葉の意味を理解したんだ。


 アイツの口唇が微かに動いた。でもそこから言葉が流れてくることはなくて、本当にほんの少し動いただけだった。
 その後すぐにきゅっと口唇を結んだアイツは、一瞬眉間に小さな皺を見せた。また俺の胸が鳴る。
 アイツの手が躊躇いながら持ち上げられて、そのままゆっくり、俺の肩になんだか恭しく下ろされて。
 俺は喉まで心臓になっちまったみたいに――なんでこんなに息苦しいのか分からないまま、瞬きだけは何度も繰り返してアイツの顔を見てた。目を、逸らせなかった。
 俺の肩の上で、アイツの指が最後の迷いを表すみたいにこそばゆく動く。でもすぐに指はふんわり開いて俺の左肩を包み、アイツは静かに息を飲んだ。
 あ、と。
 俺の喉が詰まる。
 アイツが顔を近づけてくる。ゆっくりした動きのせいで、何だか顎先を小刻みに震わせて。
 あ、と思った。
 近い。これは……アレだ。アイツが何をしようとしてるのか分かったけど、俺はカチンと固まって動けない。
 アイツの顔が近づいてくる。それまでじっと俺の目を射抜いてたアイツの目が、祈るように瞼を下ろした。
 睫毛が長いのは分かったけど、こんな暗くちゃ震えてたかどうかまでは分かんねえ。俺と言えば、アホみたいに薄ら開いてた口唇の隙間から、さっき碁会所から駅までの途中で買ったピザまんの臭いなんてしねえかなって思ってぐって息止めてた。瞬きだけは何度もしたけど。
 近づいてくる。あ、もうほとんど距離がない。
 あ。あ。
 俺の瞼が震えながら下りた。目尻がなんだかジンと染みた。
 息が触れる。
 あ、
 ……あ……






 つめたい。






 肩から熱が消えた。
 アイツはさっきまでのゆっくりした動きが嘘みたいに、ひょいって後ろに跳ねて俺から距離を取った。
「お、……おやすみ」
 俺の目を見ないように、地面を睨んだアイツがしどろもどろにそれだけ呟く。
 俺は「オヤスミ」って釣られるように答えたけど、声はほとんど出てなくて息だけだった。
 アイツは身を翻して、コートの裾を風にひらひら靡かせて、どっかのヒーローみたいに走り去った。どっちかっつうと逃げた、って感じだったけど、暗がりに揺れるグレイのコートを俺はぼんやり見送りながら、ただ呆然とそこに突っ立ってた。
 ほんの少し、足を動かした。家に入らないと――そう思っただけだったのに、僅かな動きが力の入らない膝をかくんと折って、俺はその場に尻餅をついた。
 尻が冷てえ。でも立ち上がれない。力、入らねえ。
 ようやく大きく呼吸しても気にしなくて良くなって、鼻を塞がれてるみたいに肩を上下に揺らして息を吐き出すと、真っ白な靄がふわっと生まれて冷たい空気に消えていった。
 寒いけど、熱い。
 胸のドキドキが止まんねえんだ。


 すっかり乾いた口唇に、そっと指で触れたらぷちんと熱が弾けた。





 あの日、俺は塔矢に恋をした。






30万HIT感謝祭リクエスト内容(原文のまま):
「腰砕けキスシーンアキヒカ!!!!!!!!!!」

せっかくなのでピュアバージョンも書かせて頂きました。
腰砕け度はたぶんこっちのが高いですね……
先にあるダークサイドヒカルとは別人ヒカルですので。
こっちも凄く楽しかった〜!こっ恥ずかしいけど!
リクエスト有難うございました〜!
(BGM:好き/河村隆一)