「……うん、分かった。いいよ、無理すんな。ああ、明日の昼まではいるから。そっち出る前に連絡くれな」 携帯電話を耳に当て、受話器の向こうの相手に静かな声で念を押すように告げたヒカルは、その後も何度か相槌を打ってそっと通話を切った。 ふっと短く息をついた後、無意識に壁の時計を振り返る。時刻は午後七時――点けっ放しのテレビからは大晦日の特別番組で騒ぐタレントの笑い声が響いている。 広いリビングにたった一人のヒカルは、仕事帰りで面倒だからとコンビニ弁当で夕食を済ませ、缶ビールを何本か空けながらアキラの帰宅を待っていたところだった。 アキラは二日前に泊まりの仕事で出かけ、今日の夕方には戻って来る予定だった。年越しは一緒に過ごせると話していたのだが、運悪く昨日からアキラの出張先に雪が降り、交通機関が麻痺してしまったらしい。 タクシーは長蛇の列で今日中の帰宅は難しい――電話越しに申し訳なさそうな声を出すアキラに、ヒカルは寧ろほっとした様子でもう一泊滞在することを勧めていた。 無理して帰って来なくていい、無事でいてくれるのが何よりだから。ヒカルの言葉に、アキラはもう一度ごめんと謝った。 ――謝るなよ。別に年末年始は記念日でも何でもないんだし――耳に残るアキラの低い声を思い出しながら呟くと、決して音量の低くないテレビの騒音さえ寒々しく感じるようで居心地が悪くなる。 少し口唇を尖らせたヒカルは、どっかり体重を預けていたソファから跳ねるように身体を起こし、ビールの補充をすべく冷蔵庫へと向かった。ついでに何かつまみになるようなものも探しつつ。 年末は一緒だと思っていたから、数日前から酒だけはしっかり揃えておいたのだ。もちろんアキラは下戸中の下戸だから全てヒカル用のアルコールだけれど、傍に人がいる時に飲む酒と一人酒の味はやっぱり違う。 アキラに介抱されながらダラダラ酔っぱらう年越しが、楽しみでなかったはずがない。二人でゆっくりと過ごす時間も最近は随分減っていて、一緒に暮らしていたって毎日顔を合わせることもできない忙しさ。 それでも、単純に逢えないことへの淋しさよりも、アキラが同じ空の下で無事でいてくれる嬉しさのほうがずっとずっと大きい。 電話をすれば声が聞ける。メールを送れば返事が返って来る。 そんな当たり前の日常が、何よりも大切で幸せなことなのだと今はよく分かっている。 かけがえのない存在と、変わらない明日を過ごせる喜び――良い関係になれたことに胸のうちでひっそりと感謝して、ぐいぐいとビールを煽りながらテレビの中の馬鹿騒ぎに合わせて時折笑って。 スナック菓子を一通り食い散らかし、ビールの空き缶もそれなりにテーブルを占領し始めた頃、盛り上がって行く番組の喧噪とは裏腹にうとうとと瞼を下げ出したヒカルは、まだ新年まで一時間近くあるからと頬を叩いたり目を擦ったり抵抗をするものの、強烈な睡魔に屈しつつあった。 ここ最近の多忙が効いただろうか。それともやはり飲み過ぎたか。十代の頃に比べて体力が落ちたせいだろうか……様々な理由を並べては、途切れそうな意識を何とか手繰り寄せ、しかしすぐにするすると逃げられて、テレビ番組の影響を色濃く受けた不思議な夢を見る。 アキラが罰ゲームを受けているのだ。頭から白い粉のプールに突っ込んで、綺麗な顔を真っ白にして怒っている姿を見て、周りがみんな笑っている…… 「ヒカル」 悪かったよ、笑ってゴメン。でもお前、目だけぎょろぎょろしててそのままホラー映画出れそうだぞ…… 「ヒカル」 頼むからその顔で近付くなって。怖えから。つうか笑えるから…… 「ただいま、ヒカル」 身体を揺さぶられた弾みで開いた目の前で、ソファで崩れているヒカルを覗き込むように立っているアキラの顔は白くも何ともなかった。 いつも通りの綺麗な恋人の顔を見つけて、まだ夢から覚め切っていなかったヒカルは何度も何度も瞬きし、脳がようやく現実を認識した瞬間、がばっと身体を起こしてアキラに掴み掛かった。 「お前、なんで……!」 寝ぼけ顔が一点驚きの表情になったことにアキラは苦笑して、まだコートを着たままの格好でヒカルの隣に腰を下ろす。ガサガサと耳障りな音がするのは、アキラがコンビニの袋をテーブルに置いたためだ。 「水野先生がね。年越しのカウントダウンまでに帰って来てと娘さんに泣きつかれたらしくて――ホラ、娘さん今年小学校に上がったばかりだっただろう。写真も持ち歩いてて。それでダメ元でタクシーの列に並ぶと言うから、ボクも一緒に並ばせてもらったんだよ」 すらすらと説明するアキラの言葉をよく把握し切れないまま、ぽかんと口を開けたヒカルの瞬きは止まらなかった。 そして時計を探して首を回す。午後十一時半、恐らく船を漕ぎ始めてから三十分も経っていない。アキラから帰宅は無理だと連絡があってから四時間と少し。 ヒカルはようやく、その四時間の間にアキラがとった行動を理解した。 「確かに列は出来ていたけど、八時を過ぎた頃から台数も増えてね。思ったより早く捕まえられたし、その頃は雪もやんでいたから。日付けは変わるかと思ったけど、ギリギリ今日中に帰って来られた」 マフラーを外しながら穏やかに笑うアキラを見ていると、夢にまで見た人が目の前にいることに安堵と切なさを覚えて、ヒカルは大きく息をついた。肩の力を抜くヒカルに、アキラが不思議そうに首を傾げる。 ヒカルはゆっくり身体を傾けて、アキラの肩にこつんと額を乗せた。 「……無理して帰って来んなって言ったじゃねえか」 呆れて見せているつもりだったのに、声が笑ってしまう。そんなヒカルに気づいているのだろう、アキラは持ち上げた腕をヒカルの肩に回してぽんぽんと優しく叩いた。 「無理はしていないよ。水野先生に便乗しただけだ」 「ホテルで寝てりゃ良かったのに」 「生憎近場のホテルは埋まってたからね。並んでる間は寒かったけど、ずっと娘さんの話を聞かされていたから退屈はしなかったよ」 ヒカルが吹き出す。笑った弾みで顔を上げると、アキラもまた優しく微笑んでいた。 「帰って来て良かった。放っておいたらキミは朝までソファで潰れてただろうから」 「うるせえ」 悪戯っぽく言い返せば、優しい笑顔が近付いて来る。目を閉じて小さなキスを交わしてから、改めておかえりを囁いた。 脱いだコートをクローゼットにしまいに行こうとアキラが立ち上がった時、ヒカルはテーブルに乗せられたビニール袋を覗いて目を丸くする。中にはカップそばがふたつ入っていた。 驚いているヒカルが何か尋ねる前に、アキラがつらっと説明する。 「年越しそばだよ。たまにはこんなのもいいだろう」 何でもないことのように告げたアキラがリビングを出て行くのを見送って、数秒後にヒカルは再び吹き出した。コンビニでレジにカップそばを持って行くアキラが想像できなくて、可笑しくて嬉しい。 まだ来年までは数十分残っている、急がねばとヒカルも立ち上がり、湯を沸かしに台所へ飛び込む。アキラと二人でカップそばを啜ることになるとは夢にも思わなかったが、帰って来てくれた、広い部屋に確かに漂う気配は幻ではない。 ラフな服装に着替えたアキラが戻って来る。テレビの騒々しさが一段と激しくなり、今夜ばかりは街の灯も消えないまま。 「もう三分経った?」 「いや、まだ二分と四十秒だ」 「お前細かすぎ!」 並んでそばを啜り、テレビを見ながらツッコミを入れ、隣の笑顔に同意を求めてまた笑って。 何気ない日常のワンシーンと何ら違いのない景色で、またひとつ新しい時を越えて行く。 今年一年、ありがとう。来年もよろしく。 当たり前の言葉に心からの感謝を込めて。隣に大切な人がいる喜びを噛み締めて。 特別な夜は必要無い。ささやかな変化を受け入れながら、変わらない明日を目指して前に進もう。 また次の年もこうして並んでいられますように…… 「ヒカル、チャンネル替え過ぎだ」 「だってみんなカウントダウンやってんじゃん、全部見たいの!」 新しい年が始まる。 |