直進した先に見つけた襖は三枚。その三部屋ともやはり客が泊まっている様子はなかったが、一番奥の襖だけが薄ら隙間を空けていた。
 先に続く道はなく、壁が立ちはだかる。アキラは確信を持って隙間に手を差し込み、そっと開いていった。
「――進藤?」
 顔を突き出すより先に声が出たのは、無意識の怖れがあったからなのだろうか?
 期待した返事はなく、訝し気に眉を寄せて一歩中へ踏み出したアキラは、部屋の中央に誰かがぼうっと立っていることに気づいた。
 人あらざるものに見えたのは一瞬だった。
 廊下よりも更に深い、部屋の闇に目が慣れて来て、アキラは徐々に現れて来る輪郭がヒカルのものであることを認めた。
「進藤」
 若干安堵が含まれた呼びかけで、ようやくヒカルが反応する。
「何? 何か用?」
 いつもと変わらない軽い調子で言葉が返って来て、アキラは強張っていた肩の肉からふっと力が抜けて行くのを感じた。
「それはこっちの台詞だ。こんな暗いところで何をしてるんだ」
 自然と早口になり、まるで怒っているような自分の声にアキラは少し驚いた。
 別に今は各自の自由な時間なのだから、ヒカルが何をしようと構わないではないか。
 勝手に無人の部屋に入るのは褒められたことではないかもしれないが、中を荒していたならともかく、そういった様子は見られない。
 あらかじめ立ち入り禁止との説明も受けていないため、何だか非のないヒカルを叱ったような気分になって、アキラはそこで口を噤んだ。
 そんなアキラの動揺には気づいていないのか、ヒカルは意外なことを言い出した。
「何? お前も和谷と同じ? 暗いとこダメだったりする?」
 最初、アキラは質問の意図を計りかねたが、恐らく「こんな暗いところで」という言葉に反応したのだろうと見当はついた。そしてすぐに、まさかと否定した。
「ボクが怖がっているように見えるか?」
 乾いた笑い声が返って来る。
「だよな、じゃなきゃお前んち住めねーな」
 不躾な物言いに少々むっとしながらも、アキラは頷いた。
「……まあね」
「和谷のやつ、伊角さんが話してる間、ホントはすげーびびってたんだぜ。さっきも部屋に帰る時、先頭にすんな、一番後ろにすんなってうるさくてさ」
「そうなのか」
 相槌を打ちながら、アキラは僅かに眉を寄せる。
 ヒカルの口調は飽くまで軽い。が、その軽さが逆に気になった。
 ヒカルが立つ部屋の中央まで、少し距離がある。他に誰もいない室内に電気などついておらず、たった今アキラがヒカルを追って来た廊下もまた同じ。辛うじて短い廊下の向こうから頼り無い光がこちらにも届いているのだが、闇を背負うヒカルの顔を照らすまでには至らない。
 彼の表情がアキラには分からない。聴こえて来る声はいつも通りなのに、部屋の暗さが彼の明るさとアンバランスすぎて、奇妙な雰囲気を醸し出していた。
 そもそも、何故ヒカルはこんなところにいるのか? 何か目的があるのなら、部屋を明るくして行動に移るだろう。しかし、ただ突っ立ったままのヒカルには、その理由があるようには見えなかった。
 何もしていない……それがアキラの胸をやけにざわめかせ、もう一歩ヒカルに近付こうとする足の動きを留めさせていた。
 どう会話を続けるべきかアキラが戸惑っていると、ヒカルが独り言のように呟いた。
「ホントに怖いのは暗いことじゃない」
 それまでに比べてぐっとトーンが下がった呟きは、聞き取り辛い割に妙にすんなりアキラの耳に落ちて来た。が、その低い囁きが何を意味するのか分からず、アキラは思わず「え?」と聞き返した。
 ふいに、ヒカルが笑った。ように見えた。
 暗がりで表情ははっきりしないが、にいと口唇が吊り上がったような気配があった。
 闇の向こうの笑顔を想像し、アキラの腕の毛がざわっと逆立った。とっさにタオルを持たない左手で右腕を押さえ付けたアキラは、自分の心拍数が上がっていることに気がついた。
 何故、この闇の向こうの存在が畏怖なのか? ――答えを出す前に、アキラはもう一度ヒカルに尋ねていた。
「ここで……何をしてる?」
 問いかけは微かに震えていたかもしれない。
 悟られないよう語尾を強めたアキラに対し、ヒカルはからかうように身体を揺らした。
「何してると思う?」
 質問を質問で返され、詰まったのはアキラだった。
 分からないから聞いているのに、と口唇を噛みかけたアキラの前で、ヒカルは今度ははっきりと笑った。
「ちょっとな、お喋り」
「……え?」
「見えない?」
 そう言って軽く顎をしゃくるように頭を振ったヒカルの、恐らく視線が向けられた先へと釣られるようにアキラも目を瞠って、何もない闇に映るものを探してぱちぱちと瞬きをした。
 まさか――アキラが息を呑んだ途端、あははとひときわ大きな声でヒカルが笑い出した。
「信じた?」
「なっ……」
 からかわれたことに気づいたアキラは頬を赤らめ、さっきまでの躊躇を忘れてずかずかと畳を踏み締めた。
 そして、ヒカルの目の前でぴたりと足を止め、訳もなく無人の部屋でふらついている男を戒めようと手を伸ばす。
 掴んだ手首がやけにひんやりと手のひらに吸い付いた。アキラは思わず手を放す。
 顔を上げてヒカルを見る。ぐんと近付いた距離のおかげで、はっきりと表情が目に飛び込んで来た。
 笑っている口元とは裏腹に、不自然に見開かれた瞳はガラス玉のように空ろだった。
「お前、ホントに何もいないって思ってる?」
「……何だって?」
「見えないんだろ? なら分かんないじゃん」
 アキラは眉を顰めた。そして思わず、先程ヒカルがしゃくった場所にもう一度視線を向けた。
 明かりのついていない部屋の隅、しかしそこには淀んだような暗がりしか存在せず、もしやと目を凝らしても輪郭も塊も見えて来ない。
 やはりからかわれているのだろうか――アキラは半ばムキになってヒカルに詰め寄った。
「なら、キミには何か見えるとでも言うのか?」
 その負け惜しみのような問いかけが、ふとヒカルの口元から奇妙な笑みを消した。
 唐突に無になった表情にたじろいだアキラの前で、ヒカルは目の前のアキラなど視界に入っていないように小さく呟いた。
「……見えないよ。何にも」
 薄ら靄がかかったような瞳を僅かに細め、アキラの奥にある闇を見つめている。
「何も見えない」
 何も、と告げるヒカルには、しかし何かが見えているのではと思わせるひたむきさがあった。
 アキラが様子のおかしいヒカルをいよいよ心配し始めた時、ヒカルはふっと身体の力を抜くように肩を下ろし、くるりと身体を回転させた。
 背を向けられたことよりも、ヒカルが闇に向かったことにアキラは微かな怖れを感じた。無意識にヒカルへと手を伸ばしかけて、その手がヒカルに届くより先に、彼は僅かに顎先をアキラへと向けた。
「何がいたって怖くなんかない」
 それはアキラへの言葉だったのか、それとも。
「怖いのは、何もいないことだよ」
 アキラは目を見開いた。
 ヒカルの横顔が、確かに微笑したのだ。寂し気に、しかしどこか嘲笑めいた、ざらついた笑顔だった。
 その弛んだ口元から、途方もない暗がりをアキラは感じた。ひんやりとした湿った空気が肌を撫でて通り過ぎ、そのままヒカルを闇に攫うような錯覚だった。
 いけない、と浮かせた指先を更に伸ばしかけた。溶けて崩れてしまう。起こるはずのない幻が、確かにアキラの脳に囁きかけた。



「進藤ー? いるかー?」



 第三者の声はアキラに意識を取り戻させる。
 同時に、不思議な焦りを感じさせた。アキラは思わず背後を振り返り、この部屋に近付いて来る廊下の向こうの声をはっきり不快だと判断した。
 考えるより先に腕は行動していた。伸ばした手のひらは乱暴にヒカルの手首を掴み、部屋の隅へと無理に引っ張ったのだ。畳にタオルや着替えが散らばるのも構わずに。
 ヒカルを隠したい、それは不可思議な本音だった。
 この、今にも消えてしまいそうな姿を他の人間に見せる訳にはいかない。直感でそう結論を出したアキラは、この部屋のどこにも身を隠すものがないことに気づいて舌打ちをする。
 ざわめきは近付いて来る。一人ではない、恐らく三、四人はこちらに向かっているだろう。
 迷っている暇はなかった。アキラはヒカルの腕を強引に引いた。




「進藤?」
 恐る恐るといった声色で、そっと襖が開かれる。
 暗闇を覗き込んだ和谷は、隙間が開いていた部屋の中に何の人影もないのを確かめて溜め息をついた。
「いねーな……あいつどこいったんだ」
「やっぱ風呂じゃないか? どっかですれ違ったとか」
「案外もう部屋に戻ってるかもよ。大丈夫だって、もう戻ろうぜ」

 こもった声がアキラの耳に届く。間違いなくヒカルにも聴こえているだろう。
 はあ、と乱れた呼吸を整える音が狭い空間に響いた。僅かな明かりも差し込まない、真の闇がそこにあった。
 咄嗟に飛び込んだ押し入れの中、上下に分かれた下段に積まれた座布団を崩しながら、ヒカルをその上に押し付けるように、アキラはそのヒカルに覆い被さるように、二人は重なり合って詰め込まれていた。
 それなりに身長のある二人が無理に入り込んだ押し入れは酷く狭く、不自然なほど身体は密着していた。何も見えないのに距離が近すぎると分かるのは、互いの息が肌を撫でるからだった。
 何故こんな場所にヒカルを連れ込んだのか、アキラは自分の行動が全く理解できなかった。ヒカルについてもまた、この薄い襖の向こうで自分を呼んでいる人がいるというのに、何故アキラを押し退けないのか不思議でたまらなかった。
 それでも、アキラを安堵させたことがひとつだけあった。今も握り締めたままのヒカルの手首が、さっきよりもずっと暖かい。熱の通った皮膚にほっとしつつ、手首を掴んだアキラの手のひらもじわじわ温度を上げていることに気づき始めた。
 これだけ狭い場所に人が二人押し込まれているのだ。あっという間に蒸し暑さが広がって行く。
 それでもヒカルは動かなかった。汗ばみ始めたアキラの手のひらを解こうともせず、じっとアキラの下で細い呼吸を繰り返している。
 闇の中で、はっきり感じる息と熱。
 立ち去ってくれと、強く心に願っていた。アキラが見つけたヒカルの世界に、不躾に入り込む侵入者が早くいなくなってくれないかと。
 気配を殺し、じっと押し入れで様子を伺う。畳に捲かれたタオルや衣服を、闇が隠してくれることを祈りながら。僅かに開かれていた襖に残る、恐怖と好奇心が入り交じった意識が彼らの興味を引かないように。


「部屋にいるかなあ。何やってんだ、あいつ」
「どっかにはいるだろ。とりあえずここにはいないから早く行こうぜ。ホントになんか出そうだ」


 静かに襖を閉める音がした。
 声が遠くなる。ざわざわ、そわそわと足音と共に消えて行く。
 残ったのは、闇に相応しい静寂と、それに逆らう二人の息遣い。
 衣服の内側に熱が孕み始める。肌が触れ合っている部分が新たに熱を膿み、じわじわと全身に広がって行く。
 湿った黴の臭いと、額に浮かぶ汗の臭い。
 こめかみを一筋滴が滑り落ちた時、再びヒカルが笑ったように見えた。

 その時、身体を突き上げるような衝動はどこから産まれたものだったのか。
 闇に渡してはならない――アキラは何故、その時ヒカルに口付けたのか分からなかった。
 べたつく皮膚が擦れ、探り当てるように口唇に噛み付いて、薄ら開いた隙間に湿った舌を捩じ込んだ。逃がすまいと手首を掴んだもう一方の手でヒカルの頭を押さえ付けると、首筋に熱い指先が絡み付いて来た。
 確かに応えがあったことにアキラの胸は跳ね上がり、そこからもう何かを考えることはできなくなった。
 ただ、あの歪んだ笑みは見たくないと。
 背筋をそろりと撫でるような、怖くて、不気味で、何処か淋しい口唇の動きを、このまま封じてしまえるように。
 絡み合ったまま、口付けは深くなる。


 ひょっとしたら、かつてヒカルには何か見えていたのかもしれない。
 密室に籠る熱に乱れて、アキラは闇ごとヒカルを抱き締めた。



 月の腹に薄ら被さる綿のような雲。
 丈の短い草の中から、凛と響く虫の声。
 生温く湿った空気を掻き回す、一筋の弱々しい風。土に呑まれる線香花火。
 闇の中にけものが二人、耳を澄ませば聴こえて来るのは祭囃子の笛の音。


 ひそひそ、くすくす、ざわざわ、ばたばた、悪戯っぽい囁きが闇に溶けて行く。
 黒錆が包んだ吊り灯籠の足元に、ぼんやりと、人魂ひとつ、またひとつ。






+++残暑お見舞い申し上げます+++

時期ギリギリな上になんのオチも意味すらありませんでしたが、
フィーリングでひんやりしていただけると幸いです……
残りの夏、皆様涼やかに過ごされますように。

2008.08.21 アオバアキラ

↑当時の文章そのままです。
背景画像だけで全てをごまかしたぜ!
いつか心底怖いホラーを書きたいと思いつつ、
きっと自分が怖くて書けないのだろうなあ。
(2009.4.14)


閉じますよ