ピンポーン……


 高らかな音に立ち上がった社は、ぼりぼり後頭部を掻きながら玄関へ向かう。
 ろくにドアの外も確認せずに鍵を外し、思いきり良く開いたその先には。
「……ほんまに来たんか」
 微かに頬の辺りを強張らせて、荒い呼吸を押し殺そうときつく口唇を引き締めた代わりに肩を上下させている塔矢アキラが立っていた。
 社は先の言葉を若干呆れ気味で呟いた。
 それはそうだ。この男、数時間前までは普通に東京の自宅マンションにいるはずだった。
 それが何を思ったのかつい数十分前に電話を寄越し、「大阪駅に着いた。これからキミの家に行ってもいいか」と来たものだ。
 一体何があったのかと、目の前で僅かに髪を乱して何処か余裕のない表情をしているアキラをまじまじ眺めるが、アキラは肩を上げ下げするばかりで何も言おうとしない。
 とりあえず中に入れと促した。アキラは黙って靴を脱ぐ。
 さして広くもない1LDK。一年前に引っ越して以来アキラも何度かこの部屋に遊びに来たことがあるが、大体ヒカルが一緒だった。
 さては喧嘩でもしただろうか? しかしその割には悲愴さは感じられず、どちらかというと不自然に大きく開いた目が血走って、興奮覚めやらぬといった表現のほうが合っているような気がする。
 カマをかけてみるか、と社は冷蔵庫を開けてアキラを振り返った。
「塔矢。ウーロン茶とビール、どっちがええ?」
「ビール」
 間髪入れずに返ってきた答えに社は目を丸くする。
 アルコールにとことん弱い男のくせに、自ら摂取したがる時――どうしようもなくやりきれない時か、またはどうしようもなくハメを外したい時だ。
 これは相当だと思いつつもビールを二缶手にして、居間のど真ん中でぺたりと座り込んでいるアキラの隣にあぐらを掻く。
 手渡したビールをアキラは受け取ったが、すぐに開けようとせずに握り締めたままじっと見つめている。
 何があったか聞いてやるべきか、それとも話し始めるまで待つべきか。
 社がどうしたものか攻めあぐねていると、ぽつりとアキラが口を開いた。
「……今日の昼、進藤の家に行ったんだ」
 進藤の家――ということは、ヒカルの実家。
 アキラとヒカルが同棲を始めてから随分経つ。そしてここ数年、お互いの実家にしょっちゅう揃って遊びに行っていることも二人から話を聞いて知っていた。
 仕事上の同僚に当たるとは言え、世間的には絶対無二のライバルと言われ、同性同士である二人が同居をしているという事実は、もう数年も経てば今よりもいろいろ詮索されるのだろう――そのクッションというつもりではないが、できるだけそれぞれの実家には顔を出すようにしているんだ、とアキラが告げた時。
 きっとそれが彼らなりのけじめなのだろうと社は理解していた。
 そして、恐らく彼らの行動によって、二組の両親は息子たちの意図に気付いているのではないかと。
 社は不安になった。まさか、ヒカルの家で何かあったのでは――
「……お父さんと、呼んでみた。……初めて。」
「え……」
 アキラはじっとビールの円を真上から見下ろしたまま、抑揚のあまり感じられない声で呟いた。
 じいっと意味もなく外気に触れて汗を掻き始める缶ビールを睨むその目は瞬きもろくにしない。
 社は驚きに開いた口唇そのまま、思わず尋ねていた。
「……それで?」
「……、……なんだい、と。返事をしてくれた。ごく普通に」
 よく見れば、冷たい缶を握りしめるアキラの指先は小刻みに震えている。
 社は全てを理解した。
「……進藤は? 何してんや、今」
「ヒカルは、明日、宮崎でイベントがあって」
「おらんのか」
 それでか、と声もなく呟いた社は、相変わらずビールを凝視したままのアキラに眉を垂らして微笑んだ。
 普段人前ではそれなりに神経を使っている男が、ヒカルを名前で呼んだことにも気付いていない。
 どうしようもなくなったのだろう。とても一人でいられずに、わざわざ新幹線に飛び乗って気を許せる友人の元まですっ飛んで来るほど、居ても立ってもいられなくなったのだ。
 社は手を伸ばし、艶やかなアキラの黒い頭をがしっと掴むとぐしゃぐしゃ掻き混ぜた。
「おし、分かった、飲め! 俺がつきおうたる、潰れても介抱するから安心しい」
「……すまない」
「何謝っとん。めでたいやんか、行け、ぐーっと!」
 社の声が引金になったのか、アキラはそれまでずっと見つめ続けていたビールのタブをおもむろに引くと、口をつけてぐっと垂直に傾けた。
 ごくごく、と動く喉を細めた目で見守った社は、自分が手にしていたビールも開けて負けじと呷る。
 ――きっと、百戦錬磨のこの男がカチコチに緊張していたのだろう。
 わざとらしくならないよう、自然さを装って逆に不自然に、お父さんと。とてもぎこちなく、しかし愛情を込めて呼び掛けたに違いない。
 その呼び掛けに応えがあった。……アキラの中では恐らく感情の嵐が渦を巻いている。
 堪えようがなかったのだろう。形容もできないのだ。だから黙ってここまで来て、黙ってビールを飲み干している。
 ヒカルはこのことを知っているのだろうか? 聡い彼のことだ、アキラが話さなくとも何かがあったことは勘付いているかもしれない。今頃宮崎でやきもきしているだろうか、それとも。
 アキラが潰れたら電話をしてみよう。そしてお前の大事な男はここで寝こけているぞとからかってやるとするか。
 社はほくそ笑んだ。ビールを一缶開けたアキラは、すでに目つきが怪しくなっている。
 今日はいくらでも酔っ払え、と手渡した二缶目、アキラのことだから最後まで飲めずに打ち止めになってしまうかもしれないけれど、アキラの勢いが飛び火したような社の興奮は、まだまだ冷めそうになかった。





閉じますよ