じっと身動きせずに目を閉じて。
 自分にとって落ち着くと思っている体勢で、眠りの波がやってくるのを静かに待つ。
 うとうとと何やら夢の入り口にぼんやり入り込んだかと思うと、風の音や自分の呼吸という実に些細なきっかけで現実に引き戻される。その都度改めて目を瞑り、念じるように睡魔を呼ぶのだが、ささやかな物音がうんざりするほど邪魔をした。
 いつもの墜落睡眠が、今夜はすっかり神経が昂ってしまっている。

 せっかく早めにベッドに入ったのに。よく眠れるよう、自分用の狭いベッドで一人で眠ることにしたというのに……
 本当はこの眠れない夜が、夢の中の出来事ではないだろうか。
 ――そうだったらいい。これが夢ならいいんだけど。
 明日のためにたっぷり眠って、体力と精神力が蓄えられているのなら何でもいいんだ。
 早く眠りたい。なんだか空が明るくなってきた気がする。勘弁してくれ……携帯のアラームはいつもより早い時間にセットしてるってのに。


 ドアが開いた、ような気がした。
 これも夢だろうか。眠れてるんだろうか? 眠れないと思っているだけで?
 ……なんだか温かいものが額に触れる。
 覚えのある感触。……大きな手のひら……


 ――アキラ……?――


 自分の呟きがとても遠くから聴こえて来たような気がした。
 ずるずると意識が引きずり込まれる。眠れなくてもやもやしていた頭に蔓延る雲が、さらさら砂になって落ちるように、暖かさに誘われて瞼が面白いように溶けて行った……




















 ピピピピピ……





 ピピピピピ……





 ピピ――






 がしっと握り締めた携帯電話。
 側面のボタンを無意識に押して、目を閉じたまま顔を顰めていたヒカルはむくっと身体を起こす。
 何だか眠れたのかどうかよく分からないが、アラームで起こされたということは少しは眠れていたんだろう。
 あくびをひとつして、ヒカルは手の中の携帯電話をおもむろに見る。――そして目を剥いた。








 バタバタバタバタ……


 廊下から響く騒々しい足音に、アキラは動じることなく時計を見上げた。
 ああ、時間ぴったりだ――納得したように頷くと、乱暴にリビングのドアを開け放って飛び込んで来たヒカルに「おはよう」と声をかけた。
「おはようじゃねえよ!」
 血相を変えたヒカルは中途半端にパジャマのシャツを脱いで、焦りながらズボンまで脱ごうとしている。
「お前、アラームの時刻変えたな!? 七時前に起きる予定だったのに! なんでもう八時過ぎてんだよ!」
「新幹線は九時半だろう。今から出れば充分間に合う」
「何も支度してねえんだって! スーツも明日でいいやとか思って昨日出さなかったし、泊まりの荷物だって――」
 ヒカルの言葉がふいに途切れる。
 アキラが黙って人指し指をある方向に向けたからだった。
 アキラが指す場所を見たヒカルは、きょとんと目を丸くした。ヒカルが出張に使うガーメント付きのボストンバッグ。昨日までクローゼットにしまわれていたはずのバッグは明らかに膨らんでおり、中身が詰まっているようにしか見えない。
「着替えとスーツ。一泊分の荷物は全部揃えておいた。あと、中に弁当も入ってる。新幹線の中で朝御飯にするんだな。ボクが握ったおにぎりだから、不格好だけど文句言うなよ」
 まるで用意していた台詞のようにスラスラと話すアキラをぽかんと見つめていたヒカルは、数秒の間の後にぱあっと顔を輝かせた。
「サンキュー、アキラ! 愛してる!」
 がばっと抱き着いて来たヒカルの背をぽんぽんと叩いたアキラは、 更にソファの上を指差す。
「あと、適当にキミの服。中途半端にパジャマを引っ掛けてないで、さっさと着替えろ。」
 抱き着いて来た時と同じ勢いでがばっと身体を離したヒカルは、了解!と大きく返事をした。
「あと、俺の仕事は?」
「顔を洗って髭剃って、最後にいってきますのキスをくれればいい」
「んじゃ、前払い」
 ちゅっと音を立てて顔をぶつけてきたヒカルの口付けを受け止めて、アキラはやれやれと肩を竦めた。
 プロとしてそれなりに場数を踏み、多少のタイトル戦で怖じ気付くことなどないヒカルだが、やはり昨夜は緊張でほとんど眠れていなかったようだ。
 明日は特別な一戦だから――ヒカルは口には出さないが、無意識に構えているのがアキラには分かる。

 アキラに言われた通り、大急ぎで顔を洗って髭を剃ったヒカルは、歯を磨きながら着替えるという器用な技を披露して、あっという間に身支度を整えた。
 今から駅に向かえば充分間に合う。車で送ってやってもいいが、どうやら気持ちにスイッチが入ったようだ――アキラはヒカルの瞳の奥にちらちらと淡い炎が浮かび始めたのを見て、マンションで出発を見送ることに決めた。
 ――ここから先はキミの戦いだ。ボクは邪魔をしないでおこう。
 ヒカルは手首にはめた時計をちらりと見て、よし、と小さく気合いを入れた。
「進藤」
 ボストンバッグを肩に担いで玄関に向かうヒカルに、アキラは声をかける。
「佐為に笑われるような碁は打つなよ」
 振り向いたヒカルの目は、夜中眠れずに顔を顰めていた不安定さが欠片も見られない。
 力強い眼差しに、アキラは微かに目を細めた。
「当たり前だ」
 静かに微笑んで低く答えたヒカルの声には自信と希望が満ち溢れている。
 アキラも笑い返した。そして、いってきますのキスを受けるためにそっと瞼を閉じた。




 太陽の加護を受けたような金色の前髪が揺れ、駅に向かって風を切るヒカルの姿が目に浮かぶようだ。
 広くなった背中を、きっと空から佐為も頼もしく眺めているだろう。

 ――大丈夫。キミが本因坊のタイトルを取って帰って来るのを、ボクは何の心配もせずに待っている。
 さあ、その手で勝ち取って来い。
 キミが持つに相応しいその称号を。





カッコ悪く補足すると、この日これから対局があるんじゃなくて
対局場所に前日入りしてその日は取材とかいろいろあって
夜は前夜祭に出てとかするはずです……


閉じますよ