突然アキヒカです。突然始まり突然終わります。

今回は悪魔っぽい?アキラさんの話です。






 この真っ黒な部屋にぽつんと佇んでいると、幼い頃からの慣れ親しんだ場所だというのに無性に寂しさをも感じることが多かった。


 部屋の中央に据えられた大きな水晶。
 アキラの顔よりもずっと大きな球体は、光がほとんど入らないこの部屋の中にあるというのに、自らぼんやりした光を発しているのか遠目にも澄んだ輝きがあった。
 壁も床も天井も、重苦しい黒に塗られた部屋の真ん中、ぽつぽつと灯された蝋燭の頼りなくも怪しい炎の揺らめきの中で、アキラはじっと水晶を眺める。
 今よりずっと小さい頃はそこまでこの水晶に執着しなかった。他にも面白いものがこの城にはいっぱいあると思っていたからだ。
 しかし身体が大きくなるにつれて、息苦しい黒い世界がだんだん憂鬱に感じられるようになってきた。
 僅かでも光を発するこの大きな水晶の傍が、何故だか一番落ち着く――アキラは深い紫のビロードに包まれた台の上で、不思議な淡い光を揺らす水晶をじっと見下ろしていた。
 ドアの開く音が背後から聴こえる。ぺたぺた、ぴたぴた、ぱたぱたと三種三様の奇妙な足音。何が近づいてきたのかよく分かっているアキラは、振り向きもせずにずっと水晶を眺めていた。
「また水晶でスか、若旦那」
「……その呼び方はやめろと言ってるだろう」
「まア癖でスから」
 足元にみっつの影が寄り添う気配がした。
 アキラは軽く目線を下げる。自分の膝の丈にも満たない不思議な生き物は、ぎょろぎょろとした目と耳まで裂けた口を持ち、いつもニヤニヤと笑っているように見えた。
 彼らが傍にいることを何ら不審に思わない様子で、アキラは尚も水晶を見つめ続ける。生まれた時から一緒だったこれらの生き物が、自分とは随分顔形が違うことに疑問を感じるような機会は未だなかった。
「何か面白イものデも映ってまスか」
「……相変わらずだよ」
 アキラは水晶から目を離さず、ぼそりと答えた。
 このぼんやりとした光を帯びた水晶は、アキラの知らない世界を映すことができた。
 アキラが暮らす大きな城は、どこもかしこも真っ暗。窓を開けても、外の世界もまた真っ暗な空が広がるばかりで、僅かながらに明るさを感じるものといえば蝋燭の炎とこの水晶の光だけ。
 城は広く、アキラ自身も全ての部屋を確認したことはない。いつも食事を取る広間と、眠る部屋。それからこの水晶のある部屋ぐらいしか行き来する必要がなく、全てを知りたいと思うこともなかった。
 気づけば当たり前のように暮らしていた場所に、疑問を持つにはきっかけが必要だ。
 そのきっかけが、水晶だった。
 数年前に見つけたこの綺麗な球体を眺めていると、いつも傍でニヤニヤ笑っているみっつの生き物が何故か不安そうな様子を見せた。アキラがこの部屋に入り浸っていると、彼らもひっそりとやって来てアキラを見守っている――もとい、見張っている。
 しかしまだ彼らの存在を奇妙だと思うほどの知識はなかった。遡った記憶の最初から共にいる存在に、今更疑う理由などあるはずもなく。
 黒い世界と黒い城、そして不思議なみっつの生き物。これがアキラの知る世界の全てだった。
 水晶は、そんなアキラがこれまで見たことのなかった白い世界を映していた。
 その世界には青い空がある。白い雲がある。緑の木々が風にそよぎ、清らかな水が涼しげに流れている。アキラは水晶を通して初めて、この世にはあらゆる色があるということを知った。
 それはとても眩しい世界だった。眩しいのだ、と感じるまでに一年はかかった。最初はこの見慣れない色が何故だが目に痛くて、ただただ不思議がっているだけだったのだから。
 白い世界には多くの生き物がいた。アキラが知るのは、自分とみっつの奇妙な生き物だけ。しかしこの白い世界には、アキラのような形の生き物が随分とたくさん溢れているのだ。
 彼らは生き生きと白い世界を闊歩していた。表情も豊かで。アキラは徐々に彼らの喜怒哀楽を理解するようになった。この城にいるアキラはほとんど無表情だった、表情を変える出来事など起こらないのだから。
 彼らが「人間」と呼ばれることも、日々の水晶観察で理解することができた。自分と良く似た形をしているが、恐らく自分は「人間」とは違う生き物なのだろう――だって彼らと住む世界がこんなにも違うのだから。アキラはそう納得し、別の世界の出来事をじっと眺め続けるだけだった。
 ふと、何かがアキラの目を刺した。
 白い世界のものは基本的に眩しいが、この眩しさは際立っている。思わず目を細めたアキラだったが、裏腹に顔を水晶に近づけて眩しさの正体を確かめようとした。
 少年が走っていた。
 息を切らせて、背中に背負ったリュックをゆらゆら揺らして。何をそんなに急いでいるのか、一心不乱に走り続けている。
 彼の持つ金色の前髪が、太陽の光に煽られてきらきら輝いていた。
 ああ、これが眩しいんだ――アキラは見たことのない美しい色に細めていた目を見開き、軽く瞼を擦る。
 「人間」には様々な頭を持ったものがいるけれど、こんなに見事な輝きは初めてだ。アキラは更にぐぐっと水晶に顔を近づけて、彼をもっと良く見ようと目を凝らした。
「若旦那」
「近スぎでゲス」
「もうチょっと離レないと目に悪いでスよ」
 みっつの生き物の窘めも耳に入らない。
 なんて綺麗な色だろう。なんだかこのまま水晶に引き込まれてしまいそうだ――
 無意識にアキラは手を伸ばしていた。これほどまでに輝きに対して惹かれたことはなかった。普段白い世界を物珍しく眺めていながらも、自分の暮らす場所とは違う世界なのだと諦めてしまっていたのに。

 ――諦める? 何を?

 誰かが心に問いかける。
 伸ばした手を引っ込めるどころか、まるで眩しい前髪を持つ彼を捕まえようとでも言うように、はっきりと目標を定めて大きく指先を広げて――

「若旦那!」
「いけマセん!」

 静止の言葉にはっとした瞬間、何かを掴んだ感触があった。
 アキラは大いに驚いた。ずっしりと重いものを、確かに自分の指が握り締めている。
 見れば水晶の中に、自分の腕が肘まで飲み込まれているではないか。
 慌てて腕を引こうとするが、自分がしっかり掴んでいる「それ」があまりに重くて持ち上がらない。
「若旦那、手ヲ放しテ!」
 奇妙なみっつの生き物が飛び跳ねながらアキラを諌める。それに頷こうとするのだが、何故かアキラの手が言うことを聞いてくれない。
 強く握り締めたこれは何かの布だろうか? その先にぶら下がっているものがとても重いのに、手を放してはいけないと頭の中で何かが喚いているような気がする。
 いつも凍るように冷えていた指先が、何故だか燃えるように熱いのだ。
 今握り締めているものを放してしまったら、もう二度とあの輝きを見ることはできないかもしれない。そんな根拠のない不安が胸を覆い、アキラを動揺させた。
「若旦那、放しテ!」
 生き物の叫びが逆に合図になった。
 アキラは腕に力を込め、両足を踏ん張って掴んでいるものを引き上げ始めた。生き物が飛び跳ねて大騒ぎしているが構わない。
 顔を真っ赤にして、懇親の力を込めて引っ張り上げたものが、ずるずると水晶から現れ始めた。
 アキラが掴んでいたパーカーのフード部分。それから、先ほど憧れさえ感じて見つめていた金色の前髪――

 きょとんとした少年の顔。

 彼の腰まで水晶から引っ張り出したところで、力尽きたアキラは手を放した。勢い余って床に尻をつくアキラの前で、身体のほとんどが見えている少年はそのまま水晶に戻らず、彼もまたごろんと床に転がってしまった。
 みっつの生き物が円を描いて走り回っている。大変ダ、人間ダ、そんなことを口走りながら。
 アキラは尻をついたまま、ぽかんとして少年を眺めていた。少年は転がった時に打ったらしい腕をさすりながら、身体を起こして辺りを見渡している。
 不思議そうな顔だった。更に不思議なことに、この暗い暗い部屋の中でも、彼の持つ美しい色の前髪はぼんやりと輝いているのだ。
 アキラは大きく見開いた目を何度も瞬きして、目の前できょろきょろ首を動かしている少年が本物かどうかを確かめようとした。――動いている。夢ではない。何年も水晶を眺め続けたが、まさかその中に映るものを引き上げることができるだなんて。
 ふと、少年は呆然としているアキラに顔を向けた。
 そして相変わらずきょとんとした顔で、一言告げたのだ。
「……こんちは」
 少年は意外にも肝が据わっているようだった。






(2008.07.12)


閉じますよ