「ちょ、待っ……」
「動くな」
「マジ、待てって……おい、」
「口を動かすな。本当に切れても知らないぞ」
 淡々と命令するアキラの目は実に涼やかで、ヒカルの言い分などに耳を貸す素振りはない。
 ヒカルは不自然に顎を強張らせ、歯を食いしばって硬直していた。
 別に強い力で拘束されている訳ではない。少し手で払えば、自分の目の前に迫るアキラを押し退けることくらい簡単にできるはずだった。
 それができないのは、アキラが手にしたT字の剃刀が、ヒカルの顎に冷たい刃をひたと当てているからだった。
 動いたら切れる、というアキラの忠告はもっともだった。それはよく分かるが、他人に刃物を向けられている状況にはそれなりの抵抗があり、心の準備もいる。――いくら相手が信用している恋人だからといって。
 だから、待てと先程から何度も言っているのに、この男は平然と任務を完遂しようとしている。すなわち、ヒカルの髭を剃るという作業を。
「T字は慣れてないと泣きついてきたのはどっちだ。電気剃刀を忘れたキミが悪いんだろう」
 アキラは手元も目線もずらさずに、口唇だけをはっきり動かしてヒカルを嗜める。
 言い返す言葉があるはずもない。アキラの言う通り、宿泊を伴うイベント先に愛用のシェーバーを忘れて来たのはヒカルの完全なミスだった。
 十代の頃は女の子にも間違われる程の白く滑らかな肌を誇っていたのに、成人を迎える頃から体毛が徐々に濃さを増して来た。
 毎朝の処理を必要とするほどしっかりした髭が生えてくる癖に、肌が丈夫な訳ではなかったヒカルは、何度か不器用な自分の手によって流血沙汰を経験していた。剃刀から電気シェーバーに持ち替えるのはごく自然の流れだった。最近発売された新作のシェーバーは、顎から首の厄介な曲線も滑らかにしてくれる優れもので、泊まりの仕事がある時は常に持参していたのだが。
 充電はホテルでもできた――昨日の朝、つい電池残量の少ないシェーバーにコンセントを差してしまった自分のうっかり具合にヒカルは顔を顰める。この忘れっぽい自分が、洗面台にぽつりと置かれた黒い物体を思い出すはずがなかったのだ。
 気付いたのは一泊した翌朝。つまり今日。これから一時間後には人前で公開対局をしなければならず、スーツ姿に無精髭という職員から大目玉を食らいそうな格好は避けたかった。
 思わず助けを求めたのが、同じく本日のイベントで公開対局に参加する、つまりヒカルの対局相手であるアキラだった。
 可能性がほぼゼロであることが分かっていながら、シェーバーを持っていないかと尋ねた。答えは案の定、NOだった。――それはそうだ。ヒカルはアキラの髭が薄く、数日に一回剃刀で剃る程度の柔らかい体毛しか生えていないことを知っていたのだから。
 困り果てたヒカルの部屋までやって来たアキラは、シェーバーの代わりにホテル備え付けのアメニティグッズからT字剃刀を手にして、ヒカルに顎を出せと命令した。
 そして現状に至る。
「大丈夫だ。ちゃんと蒸したし、ボクはキミほど不器用じゃない」
「そんなこと、言ったって……」
 怖いものは怖い。
「黙ってろ」
 少々アキラの口調が荒っぽくなった。
 思わずヒカルは口をへの字に噤む。
 頬や顎に塗りたくられたジェルの上を、アキラのしなやかな指が滑る。その優しい熱が通り過ぎた後、ひたりと冷たいものがヒカルの頬を撫でた。
 ざり、と小さくも耳障りな音が聞こえる。まるで頬の肉まで削ぎ取られるような感覚に、ヒカルは首を仰け反らせたような格好で強張った筋肉を硬直させた。
「もう少し力を抜け」
 低い声でアドバイスを受けるが、受け入れる余裕はない。左の頬から始まり、顎、鼻の下、右の頬、首。アキラが操る剃刀が静かにヒカルの肌を舐めていく。
 僅かに口唇の先端に刃が触れた時、ヒカルは肩をびくりと竦ませた。切れはしなかったものの、皮膚の弱い部分に鋭利なものを当てられた恐怖は腰から力を奪う。
 ふ、と小さく笑う吐息が聞こえた。
 いつしかがっちりと瞑っていた目を、ヒカルは薄ら開いてみた。顎を差し出し、急所の喉を晒して、睫毛の隙間から見るアキラの表情は実に冷静でストイックなものだった。
 淡白に仕事をこなす、アキラの涼し気な視線が剃刀と同じ道筋を辿る。切れ長の、今は光を潜めた黒い瞳。
 もうひとつの静かな刃に気付いたヒカルは、肌が粟立つのを怖れて再び目を閉じた。
「はい、終わり」
 時間にして十数分、アキラが蒸しタオルでヒカルの顔を拭ってくれる。されるがままに顔を預けていたヒカルは、湿った熱が離れてふわりと冷えた空気が肌を包んだ時、ようやく瞼を開いて目の前にいるアキラの顔を正面から見た。
「なんてことなかっただろう?」
 優しく首を傾げるアキラに形だけ頷き、脱力したように首を垂らす。
 ――たぶん、剃刀なんかより、あの眼差しのほうがずっと鋭い。
 良く知る、色を灯した瞳を思い出し、夜まで自分の煩悩が耐えられるかどうか、ヒカルは大きくため息をついた。





えろバトンにてえろいシチュを髭剃りと回答……
爪はヒカル>アキラだったので今度は逆で……
ヒカルがもさもさしててすいません……
アキラさんは分かっててやってるくさい。

(2009.05.12)


閉じますよ