その仕事が決まった時、ヒカルは純粋に喜んだのだ。 本因坊秀策生誕百八十年に向けての特集記事は、広島への一泊旅行がついた大仰な企画だった。秀策縁の場所を尋ねつつ、何故かグルメ方面にも重点を置いて、渡された企画書だけを見るとちょっとした旅番組のようになっていた。 断ろうという意識はさっぱり浮かんでこなかった。一泊分のスケジュールが確保できるなら、とすんなりOKを出したヒカルに対し、怒ったのはアキラだった。 何故OKしたのかと問い詰められた時、ヒカルはアキラの言っていることの意味がすぐに理解できずにぽかんとした。 声がかかっていたのはヒカルとアキラ二人だった。若手トップに名を連ねる二人が秀策について語り合う、そんな図が欲しかったらしい。 アキラは話を聞いた時、断ることしか頭になかったようだった。囲碁に無関係な部分が多すぎる、というのが主な理由のようだった。 無駄に時間を取られたくないのに――そう主張しながらも渋々引き受けてしまったのは、すでにヒカルがOKを出していたからだとアキラは顔を顰めている。 別に自分が了承していたからと言って、断ってはいけない訳ではない。恐ろしくきっぱりしている性格のアキラには容易いことのはずだった。 「くだらない仕事に付き合うキミが不憫になったんだ。暇を持て余しても、二人いれば碁が打てるだろう」 その理由にヒカルは苦笑いを漏らすしかなかった。 その仕事が決まった時、ヒカルは本当に喜んだのだ。 少し前ならちょっとしたトラウマの土地として、名前を聞くだけでも身構えていた部分があった。 しかし是非広島で取材を、と笑顔で話しかけられた時、同じく笑顔で返すことができた自分に気づいたヒカルは、胸の中のしこりが随分浄化されていることを実感した。 アキラの言う通り、囲碁だけに着目するなら無駄な寄り道の多い意味のない取材だろう。 しかしこの軽さがヒカルには丁度良かった。 旅行感覚で、子供の頃に息を切らせて走り回った場所をしみじみ見て回るのも悪くない。そんなふうに素直に思える自分が、新鮮なような懐かしいような不思議な気分だった。 美味しいものを食べて、棋聖と謳われた秀策についてゆっくり語り、隣には最高のライバル―― 想像すると自然と笑みが浮かんでくるのだった。 アキラは案の定文句ばかり言っていた。 勿論スタッフの前で大人気ない振る舞いはしないが、食事中の様子を撮影される度に横で小さくため息を零す。 ヒカルは苦笑しながら、何年ぶりかの道のりをゆったりと歩いた。 あの時は闇雲に消えた人の影を追った。時間と言うのは残酷なもので、今ではもう声もはっきりと思い出せないが、ヒカルの運命を決めた大切な出逢いはしっかり胸に息づいている。 秀策の棋風をどう思うか、という質問にヒカルは饒舌になった。自分でも驚くほどだった。 あえて回答を用意していたわけではないので、出てくる言葉を耳にして、初めて「ああ自分はそんなふうに思っていたんだ」と発見することができた。 気持ちの整理がついたからこそだろうとひっそり喜んでいたヒカルに対し、アキラの答えは簡潔だった。 彼は強い、だから後世に名が残った。自分も先の人に強さを示すことができる棋士になりたい。 それは至極もっともなコメントだったのだが、足し算や掛け算の答えを示されたような気がして、ヒカルとしては複雑になった。 アキラはヒカルの胸に渦巻く過去を知らない。いつか話すと言いながら、結局未だに果たせてはいない。 だからヒカルが奇妙な顔をしていても、アキラのその理由が分かるはずはないのだった。 「お前さ……なんかもっと、ねえの。インタビュアー困ってたじゃん」 取材終了後、大浴場から戻った後の静かな和室でヒカルはぼそりとアキラに突っ込んでみた。 アキラは憮然とし、何故、と目で示している。 「なんか、とは?」 「だから……虎、いや秀策の棋風についてとかさ」 「強い棋士だと言ったはずだ」 「それじゃ話すぐ終わっちゃうだろ! ホラ、性格とかさ、棋風に出たりすんじゃん。前フリあっただろ、秀策が人格者だったって。流れ的にはあそこで秀策について語り合うとこじゃ……」 何故か必死になってアキラの物足りない答えについて追求する。別にインタビュアーの肩を持つつもりではなかった。 あれこれと難癖をつけているうち、ヒカルは自分が納得していない部分について気づき始めた。 どうやらアキラが秀策の強さのみを認めているらしいことが引っかかるらしい。 それが分かっても、胸に生まれる不思議な焦りの理由は分からなかった。 ダメだしを続けるヒカルに、アキラはひとつ大きなため息をついて話を遮る。 「今この世にいない人の性格について語り合うことに意義があるのか?」 端的に尋ねられてしまうと、ある、と力強く頷くのは難しい。アキラのきっぱりした様子を覆すだけの主張はヒカルにはなかった。 ついつい黙りこんだヒカルを見て、アキラは半ば呆れたように続ける。 「大体、彼が後世まで名を残したのは何故だ? 人格が優れているからではないだろう。強さが讃えられているからだ。強くなければ彼が今の世に残ることはなかった」 「で、でも、すげえ極悪人とかだったら今みたいな評価はなかったかもしんねえじゃん」 ああ、自分は何に対してこんなにムキになっているのだろう――ヒカルの頭で擁護せんとする人物の影がじわじわと形を成していく。 ひたりとこめかみをくすぐるものがあった。冷たい汗だった。 「人格は付属物だ。人が判断するのはその人間の持つ力の強さだ」 はっきりと告げたアキラは、真っ直ぐな目でヒカルを見据えた。 「ボクは彼を評価しているよ。百八十年経っても棋聖として賞賛されている彼の強さを。ボクらが生きる世界はそれが全てだ。性格が良かろうが悪かろうが関係ない……ひたすら強ければ、誰にも文句は言わせない」 ヒカルはぽかんと口を開けた。 アキラらしいような、らしからぬような、一方的な発言はヒカルから言葉を奪ってしまった。 何も言い返さないヒカルに、アキラが一言「反論は?」と尋ねる。 ヒカルは数秒間を空けて、そっと苦笑を浮かべた。 自嘲にも似た笑みだった。 「ない」 ――せめて強くなろう。そう思った。 |