一体どんな言葉を使ったのか、初めと終わりに一礼をしたかさえ記憶の断片にも残っていない。 ただ、自分を見る大量の赤い目が無言のままに肯定を示していたことだけは理解し、ああ、きっと求められていたような態度を貫くことはできたのだ、とほんの少しだけ安堵した。 未だに頭は空っぽのままだと言うのに―― しっかりと床を踏み締めて来たのは覚えている。 ふらついた足取りなどではなかったはずだ。視界が揺れることもなかった。真直ぐに前を見て、そのくせ何処に行くつもりなのか予定は全くなかった。 ふと手をかけた襖に吸い込まれるように、無人の部屋に足を踏み入れた。 ここまで奥の部屋にやってくる人間はそうそういないだろう。 人の気配がないという事実を認めた瞬間、思わず自分の格好を見下ろして瞬きした。 黒の礼服。 まだ身体に残る線香の燻った匂いが、ガラス玉のようなアキラの瞳を撫でていた。 襖が静かに開く気配で現実に引き戻された。 自分でも過剰反応に驚くほど肩を揺らして、アキラは背を向けていた襖を振り返る。膝が僅かに痛んだ。覚えていないが、どうやら随分長く突っ立ったままだったらしい。 振り向いた先に、アキラと同じく見慣れない黒いスーツを硬く着込んだヒカルがいた。 黒を基調としたスタイルのためか、前髪の金色がいっそう映える。思わず目を細めたアキラをしっかり視界に捕らえたヒカルは、襖の境界線からゆっくりアキラに向かって足を踏み出して来た。 何か言わなければ――咄嗟にそう思ったのだが、不思議と喉を切り離されたかのように息がうまく音にならない。 ヒカルが不審に思う前にと口唇を無理に動かそうとしても、言葉どころか声にすらなりえなかった。 そもそも何を話そうというのか――自分が何をしているのかも覚束ない、こんなに虚ろな心のままで? 戸惑いが形になる暇はなかった。意識を取り戻した時にはすでに目の前にあったヒカルの手が、アキラの頭を捕らえてぐいと引っ張っていた。 何が起こったのか分からなかった。気付けばヒカルの肩に顔を乗せた状態で、ふらついた身体は彼にしっかりと支えられていた。 驚きで声も出ないまま、ヒカルに身体を預けた格好でいると、ふいに背中に温かい感触が降りた。 ヒカルの手のひら。優しく触れた大きな手がぽん、ぽんと軽く刺激をくれる。 「……お疲れ」 低い囁きには抑揚がなく、しかしそれがかえってじわりと胸に染み込んで来て、アキラは自分の口唇が微かに震え出したことに気付いた。 それからヒカルは何も言わなかった。ただ黙って、彼だけの不思議なリズムで背中を叩き、存在だけを伝えてくれる。 ツン、と鼻の奥に何やら染みる疼きを感じた後は、それまで凍り付いていたものが急速に熱を吹き込まれたかのように溶けてゆくのみ。 ヒカルの肩に顔を押し付けたまま、アキラの表情が崩れていく。 「……っ」 ヒカルの肩に吸い込まれた滴の行方を気にすることもできず、黙って震える身体を彼に任せていた。格好悪さを気にする余裕はなかった。どこに潜んでいたのか涙は溢れてとどまることを知らない。 ただ分かったのは、何も言わないヒカルがその時のアキラの全ての感情を理解してくれているということだった。 二人の影はしばらくそのまま動かなかった。 |