「もう……いいよ。今日は、よそう」 進藤、と躊躇いがちに名前を囁かれてから続いた言葉に、ヒカルが漏らした返事は間の抜けた「へ?」という声だった。 ヒカルの身体をやんわり覆うように被さっていたアキラの上半身が、背中から吊り上げられるように自分の上から離れていく光景をぼんやり見上げて、涼やかな風を胸に感じたところでようやく言葉の意味に気づいた。 アキラは薄明かりの中で優しく微笑み、中途半端に肌蹴られたヒカルのシャツのボタンをひとつひとつ丁寧にとめ直してくれる。 「無理にこういうことをしたいわけじゃないから。怖がらせてすまなかった。」 「あ……、あの、塔矢……」 「いいんだ。今日は楽しかった。一日つき合わせたから疲れただろう? もう寝よう」 きっちり一番上のボタンまでとめ終えてから、アキラは再び静かに微笑んだ。その目はあまり明るくない室内でもはっきり分かるくらい、優しくて穏やかなものではあるけれど。 その優しい瞳とは裏腹に、ヒカルの胸は爆発しそうなほど激しい収縮を繰り返している。 アキラはするりとベッドから足を下ろし、恐らくスリッパを履いてバスルームへ向かって歩き出した。 「また、軽く汗掻いたから。シャワー浴びてから寝るよ。キミは先に寝ていていいから」 「と、塔矢」 「大丈夫だよ、明日寝坊しないようにちゃんと起こすから」 最後ににっこり微笑んでから、バスルームに続くドアの向こうへ消えていったアキラをそれ以上呼び止めることができなかった。 ヒカルは呆然とベッドに横たわり、首だけを持ち上げた格好で、アキラがいなくなった方向をぽかんと見ている。 喉はカラカラ。塔矢、と何度か呼びかけた声だって情けないくらい掠れていたけれど、今から気合で声を張り上げればアキラを呼び戻すことはできるかもしれない。 だけど声が出なかった。背中には冷たい汗がびっしり。恐らくアキラなんかよりも余程全身汗だくになっている。 さっきのアキラの目、怒っている目ではなかった。呆れている目でもなかった。ただひたすら優しくて、本当にヒカルのことを思いやって身体を解放してくれたのだろうことがよく分かる、いつものアキラの目だった。 しかし、しかしだ。この日のために何日も前からホテルを予約して、料理だって気を遣って、プレゼントだって用意して、社にもあれこれアドバイスをもらって、覚悟を決めて臨んだのに。 窓の外は見事な夜景、テーブルの上にはさっき二人で乾杯したシャンパンのグラス、絶好のシチュエーションで、ちゃんとそのつもりで順番にシャワーを浴びて、いよいよだと目を瞑ってベッドに背中をつけたのに。 まさか、ここまできて。 服だって五分の一くらい脱いで。 ……キスだって、あんなにしたのに。 「俺……やっちまった?」 ぽつりと漏れた独り言が誰もいない部屋に虚しく響く。 バスルームから聞こえてくる水の音。ああ、悲しいことにこれは夢ではないのだ―― ――今日はアイツの誕生日なのに! 最後の一歩を踏み出しきれなかった自分を激しく責めながら、アキラが丁寧にとめて行ったボタンを指で弄ってヒカルは泣き出したい気持ちをぐっと堪えた。 一気にこれまでの人生でナンバーワンに躍り出た大失態に、広いベッドの上で悶えるように転がりながら、自分を呪い、アキラに何度も何度も心の中で謝罪した。 |