「で? またふてくされてボクのところに来たのか?」
「ふてくされてなんかねーよ! 俺はただ検討にだな……」
 昨夜からの雨は、朝を迎え午後になっても未だ止まず、低気圧が近づいているという天気予報どおりに激しさを増していた。
 玄関でヒカルを迎えた時、アキラは彼が確かに傘を持っていたのを見たが、この風の中では役に立たなかったのだろう、ヒカルの髪も服も満遍なく濡れてしまっている。
「その濡れ鼠みたいな格好でうろつくなよ。さっさとシャワー浴びて来い」
 アキラは慣れた様子で、脱ぎ散らかしたヒカルのジャケットと鞄を拾い上げる。ヒカルといえば、まだぶつぶつ悪態をついていたようだったが、言われるがまま、迷うことなくシャワールームへと消えていった。
 アキラはため息をつきながら、玄関でひっそり濡れているヒカルの靴を救いに向かう。
 ヒカルが今日の試合に負けたことは一目瞭然だった。
 感情の分かりやすい彼は、いかにも悔しそうな顔をして、負けるたびにアキラの元で検討を行いにやってくる。アキラがこのマンションに引っ越してから1年が過ぎようとしているが、親よりも誰よりも多く通っているのがヒカルだろう。
 今日の一戦は、ヒカルにとって落としたくないものであったことはアキラも知っていた。
 時折彼はやる気が空回りする。それはアキラが一番よく分かっていた。その上相性もあまりよくない相手……気合が裏目に出てしまっただろう様子が苦もなくアキラの目に浮かぶ。
 そんな時でも腐らずにやってくるところが彼らしい。負けた試合を引き摺らずに力に変える前向きさは誰に教わったのか。
(時々羨ましくなる)
 ジャケットをハンガーにかけ、タオルと着替えを用意する。
 そろそろヒカルが出てくる頃だ。――行水の彼はあっという間に出てくることも、今では当たり前の光景になっていた。
 案の定、アキラがタオルを置いてきたすぐ後に水の音が止んだ。
 少しして、これまたお決まりの怒鳴り声だ。アキラは予め耳を軽く塞いでおいた。
「塔矢っ! お前、これ置くなって言ったろ!」
 どたどたと上品とはいえない足音を立て、飛んできたヒカルの顔は真っ赤だ。
「文句言う割にしっかり着てるじゃないか」
「お前がこれしか置かないからだろっ!」
 頭から水をかぶったように濡れた髪、肩にひっかけただけのバスタオル、そして膝小僧が見えるほど短い丈の白いバスローブ。
「毎度毎度俺にばっかりこんなもの着せやがって! シャツ置いてくれっていっつも言ってんだろ!」
「苦情なら市河さんに言ってくれよ。買ってきたのは市河さんなんだから」
「それを俺に着せるのが問題だって言ってんだ!」
 引越し祝いに市河嬢からもらったバスローブだが、さすがに彼女の夢にまでつきあってはいられない。アキラ自身が袖を通すことがない代わりに、こうしてやってくるヒカルにその役目を押し付けていた。
「嫌なら裸でいればいいだろ。第一ボクの服じゃ足の長さが違う」
「ほんっと一言も二言も多いな!」
「髪くらいもっとしっかり拭いてきたらどうだ」
 アキラはヒカルの肩に無造作に引っかかっただけのバスタオルを手に取り、その髪をぐしゃぐしゃと拭いてやった。水滴が落ちるのを気にしないヒカルのせいで、フローリングは彼が足跡を残したかのように水浸しだ。
 ヒカルはまだ何か文句を言っているようだったが、大人しくアキラに拭かれたままでいる。タオルの隙間から覗く視線がやや伏せがちで、顔立ちだけならアキラよりも幾分子供っぽく見えた。
 しかし出会った頃のヒカルは、今よりもっと幼い表情をしていたはずだ。恐るべき速度で追いついてきた。それどころか追い越さんとしている。
(そうはさせない)
 常に一歩前を歩き続けることが、こんなにも難しくこんなにも心地よい相手は一生他に現れることがないだろう。生涯のライバルとは、すなわち人生のパートナーである。アキラがヒカルをそれを認めてから、すでに3年が経過していた。
 スタート時には遥か後方にいたと思っていた彼が、今は自分に並ぼうとしている。
(差が縮まらないのは身長だけか)
 アキラは軽く苦笑して、湿ったバスタオルを丸めてヒカルの顔に押し付けてやった。
「むぐ!」
「さあ、もういいだろ。今すぐ検討に入るのか、それとも」
 アキラは横目でヒカルの全身を舐めた。
「慰めてほしいのか、どっちだ?」
 ヒカルの顔にさっと朱が走った。さすがに3年も経てば言葉の意味が分かるようになっていても、免疫だけはつかないフリをしていたいらしい。
 アキラはふっと息をつき、ヒカルの腕をとった。
「お、おい」
「慰めが先みたいだね」
「! ま、待て! おい塔矢!」
 ヒカルの形ばかりの静止を無視して、アキラは寝室へのドアを遠慮なしに開けた。彼が本気で拒否したのなら、これくらいの力は簡単に振り解いている。でも逃げ道を作ってやらないと、幼なぶった彼が二度と自分の傍に来てくれなくなるかもしれないから。
 ひょいとヒカルの腕を振り回すように力を入れ、手を離すと、ヒカルの身体はうまい具合にベッドに倒れた。ヒカルが体勢を整えようとする前に、一回り身体の大きいアキラがその上にのしかかる。
「塔矢、おい……」
 まだ気持ちが揺らぐフリをしようとするヒカルを、正面から見据えた。ヒカルがこの目に弱いことは知っている。息を呑み、大人しくなったヒカルに、目を開いたままそっと口唇を合わせた。
「……」
 耐えられなくなったヒカルが先に目を閉じる。
 それが合図と受け取ったかのように、アキラはそのままヒカルのバスローブをはだけていった。
 ヒカルの瞼が震える。アキラはその柔らかい首筋に噛み付いた。
「う……」
 先ほどまで悪態をついていた口と同じとは思えないほど、甘い声を出す。
 まともに聞いたらこっちがどうにかなってしまう――アキラはその声ごと絡め取るように、薄く開いた口唇の隙間に舌をねじ込んだ。
 雨音に混じる荒い息遣い。




 ――腕の中にあるときは、全てを手に入れたような気になるのに
 彼の中には誰かいる。
 彼を碁という宿命に縛り付けた何かが、彼の中から離れようとしない。
 その何かが分からないまま、もどかしさのうちに年月は過ぎた。
『いつかお前には話すかもしれない』
 何気ない一言を昨日のことのように覚えている。
(ならばボクは待とう)
 ヒカルの中の影が、自分という存在に変わるまで。
 常に彼の前を歩き、常に彼を追わせ、
(――そしてボクが彼を追う)
 彼の中の「もう一人」を――



 アキラは腕の中で寝息を立てる青年の額に小さくキスをした。
 目が覚めればまた戦場が待っている。
 高みに向かい続ける自分たちに、安らぎが許されるのは僅かな時間のみ。
「進藤、検討を始めるぞ。起きろ」





ヒカ碁最終回近くのアキラの男前っぷりにはやられました。
ヒカルはどんどん美人になりましたねー。
きっとアキラは初登場時に比べて、
かなり声変わりしたんだろうなあと思わせる大人っぷり。
おかっぱのくせに漢前だなんてニクイヤツ。
バスローブなんてえっらい時代錯誤なことやっちまいましたが、
なんとなくヒカルに一番似合いそうなのは白のバスローブ(膝上丈)だと思ったという
あほがここにいますよ。お前ほんとあほだな。
(初掲載→2006.06.24)

※最初ふつうにタイトルつけて載せてましたが、
どう考えても合ってない+微妙な話なので
潔くJUNKに移しました……って3年経ってからかよ。
碁にハマって初めて書いたものなので、
コメントがまたどうしようもなく微妙ですな……
(JUNK移動→2009.4.30)



閉じますよ