囲碁界のプリンスはあまり服のセンスがよろしくない。……というのは彼に出逢ったことのある人間なら誰でも知っている。
 本人の顔立ちが良いから余計に目立つ。奇抜な髪型と相乗効果でインパクトアップ。おかっぱ棋士、塔矢アキラの毎日のファッションは、その日居合わせた人々の間でちょっとした話のタネになるほどだった。
 しかしいくら奇妙な格好に唖然としようとも、直接そのことを本人に告げられる人間は少ない。余程親しいか、もしくは余程不躾でなければ「お前は変だ」などと指摘するのは難しいだろう。
 その両方を兼ね揃える人間、進藤ヒカルがかつて容赦なくツッコミを入れたのが黒と黄色の縞模様のネクタイだった。
 なんだその危険信号、お前はタイガースファンか、しかもスーツが紫色ってどんなカオス具合だよ――
 気の置けない相手からの遠慮のないダメ出しにその場はむっとしていただけのアキラだったが、内心かなり面白くなかったらしい。
 散々バカにされた一年後、ヒカルにとって思わぬ形で反撃を見せた。


「どうだ、なかなかいい色だろう」
 レセプションを控えたホテルの一室で、自慢げに見せびらかされたネクタイは確かに質の良さそうな落ち着いた色合いだった。珍しく無難な色のスーツとよく合っていることにヒカルは大いに驚いた。
 そしてすぐにピンと来た。――これはアキラ自らコーディネイトしたものではない。
「お前……それ、誰にもらった?」
「よくもらい物だと分かったな。今年のバレンタインデーに贈られてきたんだ」
「バレンタインって……、まさかファンの女からかよ!」
「悪いのか? 芦原さんが言うにはとてもいいものらしいぞ。捨てるのも失礼だろう」
 しれっと告げるアキラの目にはやましいものなど欠片も映っておらず、ヒカルはくっと口唇を噛む。
 確かに悪くはない。ヒカルだって今年のバレンタインデーには散々ファンからプレゼントを受け取った。
 しかし、アキラがこれまで女性からの贈り物を身に着けているのは見たことがなかった。
 碁馬鹿の朴念仁に絶賛片思い中のヒカルが、好きな子ほど苛めてしまう素直になれないタイプの男だなどと全く想像もしていないだろうアキラにとっては、馬鹿にされたことに対して改善後の姿を誇示してみせただけのこと。
 ただその方法が悪かった。よりによって、どこぞの女が贈ったネクタイで首を絞められている惚れた男の誇らしげな笑顔なんて、苛めか嫌がらせを受けているとしか思えない。
 明日から国際棋戦が始まるというのに、モチベーションが面白いほど下がる。やってられない! 面白くない! 自分勝手に腹を立てたヒカルは、目を吊り上げてアキラに平手を向けた。
 身構えていなかったアキラが背後にあったベッドに尻餅をつく。スプリングで上下に揺れるアキラの身体に覆い被さるように、ヒカルは自分を見上げるアキラの首元に手を伸ばした。
「ぜんっぜんイケてねえ! 最悪! 色も柄もこれっぽっちもお前に似合ってねえ!」
「お、おい、何するんだ」
 驚いて目を丸くしているアキラのささやかな抵抗を振り解き、その首を支配していた不届きなネクタイをすっかり奪い取ると、次いでヒカルは自らが首に巻いていたネクタイをするりと抜き取った。
「お前なんか……」
 アキラに贈られたネクタイをぺっと床に放り投げ、寂しくなったその首元にたった今まで自分が結んでいたネクタイをひょいっと巻きつける。
「これで充分だ!」
 呆気に取られているアキラの首に、ヒカルは不器用な手つきで結び目を作った。
 人にネクタイを結んでやるのはこれが初めてで、日頃自分が見ている向きと真逆であることが余計にヒカルを手子摺らせる。ようやく結び終わった頃には、ヒカルは全身に嫌な汗を掻いていた。
 顔も知らない贈り主への嫉妬と、暴挙に出たことへの単純な羞恥と、アキラの反応を待つ恐怖。特に三つ目にそうと気づかれないよう怯えていたヒカルにとって、アキラが発した言葉は予想外だった。
「うん、確かにいい色だな」
 自分の首に小汚く巻かれたネクタイを見下ろして一言、そしてアキラはおもむろにヒカルが結んだネクタイを長い指で解き始めた。
 あ、と一瞬悲しみに顔を顰めかけたヒカルだったが、すぐにアキラがネクタイを綺麗に結び直したのを見て唖然と瞬きする。
 アキラはヒカルのネクタイをきっちり締め、結び目を丁寧に整えてからヒカルに向かって微笑んだ。
「似合うか?」
 ぼっと頬に火がついたように熱が噴き出したのを、アキラは気づいているのだろうか。
「さ、……さっきよりはな」
 しどろもどろに言い返した言葉が、自然と笑ってしまうのを堪えるのが辛かった。


 ヒカルのネクタイを締めたアキラはレセプションをすんなりこなし、対局でもネクタイはそのまま、二戦二勝の素晴らしい成績を収めた。
 返せ、もしくは返すよ、というタイミングをお互いに逃し、ヒカルのネクタイはその後もアキラの元に残ってしまった。ヒカルが返却を要求しなかったせいか、アキラはすっかりネクタイ交換をしたつもりになっていたらしい。
 それ以来、ちらほらとアキラがヒカルのネクタイを締めてくる姿を見るようになった。
 ここぞという大一番。最終予選での強敵相手、リーグ終盤の大事な一戦、びしっとスーツできめたアキラの首からはヒカルのネクタイが燦然とぶら下がっている。
 それが自分の自惚れによる妄想ではないことをいよいよ確信したヒカルは、それとなくアキラに尋ねてみた。
 そのネクタイ、元々俺のだよな、というヒカルの言葉に、アキラは悪びれずににっこり笑って答えたのだ。
「ああ、キミのネクタイをつけていると運が向いてくるみたいで。勝負強さはボクのお墨付きだよ」
 そんな嬉しいことを笑顔で言われてしまったら、緩む頬を抑えるのは至難の業だ。
 そんな訳で、ヒカルのネクタイは相変わらずアキラの手元にあった。当然それ以外のネクタイをしているアキラを見かけることは何度もあったが、その都度探りを入れた結果、女性からのもらい物はひとつもないらしい。
 そんな些細なことに安堵しながら、ヒカルが胸に想いを秘め続けてしばらく時が過ぎた頃。


 アキラにとって大事な一戦が行われるその日、ヒカルは棋院に駆けつけていた。
 モニタ中継などがあるわけではないが、できるだけ近くで勝敗を確かめたかった。きっとアキラも気合が入っているだろうから、対局前に声をかけたりせずに遠くから見守って……
 なんて思っていたのに、当の本人が自らヒカルを探してやってきた。
 驚いたと共に、ヒカルは何よりも先にアキラのネクタイをチェックしていた。締められているのはヒカルのネクタイではない――それに気づくと明らかに心が沈んだが、消沈具合もアキラの言葉であっという間に引き上げられることになった。
「良かった、キミが来ていて。実は交通トラブルで自宅に帰れなくて、出先からそのままここに来たんだ。おかげでネクタイを換えてくることができなくて」
 心底ほっとした様子でそう告げたアキラは、ヒカルの了承も得ずに右腕をおもむろに取り上げた。ヒカルがぎょっとしているのも構わず、その右腕をぐっと自分の胸に押し付ける。
 まるでまじないのように、軽く目を伏せながら数秒間ヒカルの腕を胸に押し当てて、満足げに頷いたアキラはヒカルの腕を解放した。
「よし、もう大丈夫。キミのパワーをもらった」
 そうして不敵な笑顔を見せる。
「勝ってくる」
 自信に満ち溢れた優雅な微笑みと、きっぱりとした勝利宣言。
 頑張れよの一言も言えずにぽかんと口を開けているヒカルに背を向け、頼もしい背中はそのまま遠ざかっていく。
 残されたヒカルは、力の抜けた足でその場に踏ん張るのが精一杯だった。
「……勝ってくる、だって……? あっさり言ってくれるぜ……、相手、緒方先生じゃん……」
 呟きを漏らすと、その後は笑いがこみ上げてどうしようもなかった。
 塔矢アキラとあろう者が、非科学的なおまじないじみた行為で勝利の行方を確信するだなんて。
 あんなに力強く宣言されてしまってはもう笑うしかない。たとえ相手が誰であろうと、アキラはきっと勝ってくるだろう。
 敵わねえな、と呟いてからほろ苦く微笑んだヒカルは、いざ顔を上げて歩き出す。後は静かにアキラの勝利の知らせを待てばいい。きっと最高の一局になるだろう。彼らが紡ぐ棋譜を想像するだけで胸が熱くなるけれど、それ以上にアキラの自信に満ちた笑顔が心を揺らす。
 この対局に決着が着いたら、思い切ってネクタイではなく本物をプレゼントしてみようか。
 押し付けられた腕に布越しに伝わった、心臓の鼓動がヒカルの胸をときめかせた。






元ネタは成瀬かおりさまにリクエストしたイラストです→
ラスト以外は全て成瀬さまのシナリオをお借りしました!
素敵なイラスト+素敵話のネタをありがとうございました!


(2008.02.14)


閉じますよ