その夜、彼が半月振りに顔を見せた。
 帰宅した、という言い方が本当は正しいだろう。元々ボクが借りた部屋に転がり込んだとはいえ、彼専用の部屋も用意しているし、今では家賃も半額きっちり払ってくれている。
 だから本当は堂々と入って来て構わないのに、やけにこそこそと様子を伺いながら現れるものだから、ボクもそれなりに頑固な態度をとりたくなってしまう。たった一言、「おかえり」と声をかけてあげれば彼が大喜びすることは分かっているのに、何故だか譲れない。頑固と言うより意地っ張りの域なのだろう。
 リビングのソファで黙々と詰め碁集を読み続けるボクの隣に、彼が控え目に腰を下ろす。何かアクションを待っているようだ。
 だけど声はかけない。目を合わせるどころか、髪も揺らさない。ちらりと意識を向けるだけで随分違った反応になるのだろうけど、ボクは白と黒しか知らない男だから、そんな柔軟な態度は取れない。
 痺れを切らしたのか、遂に彼が「なあ」と甘ったれた声を漏らした。
 その一声に、ボクは酷く安堵した。
「まだ怒ってんのかよ。なあ」
 少し拗ねたような口調は彼の得意技だから、それくらいで折れたりはしない。
 でも、肘を引っ張られたり、肩に頭を乗せられたりすると、ボクもだんだん眉尻を下げたくなる。
 これだけ御機嫌とりに必死ということは、恐らく彼の友人の伊角という男から話を聞いたのだろう。
 どうやらこの半月はほぼ伊角の家に世話になっていたらしく、偶然彼と対局で顔を合わせた時に言われたのだ、許してやってくれないかと。
 彼が勝手に腹を立てて出ていっただけだから、許すも許さないもないんです。そう答えてから、これだけ付け加えておいた。「食事を二人分買う癖が抜けないので、早く帰って来て欲しいんですけどね」と。
 多分、彼はそれをかなり都合良く解釈してくれたのだろう。だから珍しく下手に出て、ボクの顔色を伺っている。
 伊角に告げた言葉は本当だ。この賑やかな男が一人いなくなっただけで、随分静かになった広いリビングは寂しいだけ。
 早い帰宅を待ち望んでいたけれど、それを本人に直接告げるような器用な性格ではない。だから彼が自分から戻って来てくれたことは喜ばしいことなのだ。ただ、それを素直に喜べない厄介な頭の固さは、さすがに自覚がある。
 どう反応しようかと、すでに内容など全く把握できなくなった詰め碁集を睨みながら、ボクの右腕に絡む彼への言葉を考える。あんまり密着しないで欲しい。余裕がない自分の態度は嫌いだと言うのに。
「なあ、悪かったって」
 だからこっち向け、と催促されているのは分かるけれど、今振り向いても間の抜けた顔を晒すことになるだけだ。
 できればもう少し優位に立っていたい。いたいけれど、こんな時の彼はいつも強かで無邪気で、そして腹が立つくらい魅力的だ。
 そろそろ折れるきっかけが欲しくなってきたボクの、右腕を弄んでいた彼の手の動きがふと止まる。
 ボクの冷えた右手に温かな指を絡ませて節を一通りなぞった後、擦り減った人さし指の爪には構わずに、すっかり伸びた中指の爪を意味ありげに撫で始めた。
「なあ……早く、爪、切れよ」
 ふわっと指先に熱い息が触れる。掠れた声で囁かれると、ボクの理性だってそうそう大人しくしてくれない。
 右手を奪われたままとうとう振り返ったボクは、上目遣いでしてやったりと微笑を見せる彼を睨み付け、せめてもの足掻きでぶっきらぼうに命令した。
「……先にシャワー、浴びてこい」
 彼は歯を見せて笑い、ボクの中指の爪にちゅっと音を立てて口唇をつけてから、バネのような動きでソファから飛び下りた。
 半月前に出ていった時の面影を微塵も感じさせず、浮かれ調子でバスルームへ向かう彼の背中にため息ひとつ。
 試合に勝って勝負に負けた――そんな気分だった。自分の第一声を振り返ると情けなくて泣きたくなるが、彼の笑顔と向き合えたことは良かったと素直に思う。
 さて、と詰め碁集を閉じ、ソファから立ち上がる。
 言われた通り、爪を切って彼がバスルームから出てくるのを待つとしよう。
 右手の人さし指以外、半月放っておかれた指の爪。





えろバトンが回ってきたので、えろ台詞に「爪切れよ」を採用。
たぶん雰囲気エロが好きなんだな……。
しかしうちのアキヒカは喧嘩してるか
酔っ払ってるかどっちかだな……

(2009.04.28)


閉じますよ