それなりにイイ年だし、仕事が多いのはまあ有り難いことだし、暇持て余すよりは忙しい方がよっぽどいいよな、と思うのはヤケクソじゃなくて本音だし。 だからまあ、逢う時間があまりなくても仕方がないかな、なんて。――仕方ない、って言葉はそんなに好きじゃなかったはずなんだけど。 進藤ヒカルが塔矢アキラと付き合い始めてからもうすぐ半年になる。 十二月を迎えた世の中はクリスマスだ年末だと浮かれはしゃぎ、眩しい色合いで飾られた街を遠巻きに眺める度にどんどんと世間ずれしていく自分を感じる――ヒカルはコートのポケットに両手を突っ込み、肩を竦めて冬空の下を一人歩いていた。 師走は忙しいと言うけれど、師走になる前からもうずっとフル回転で飛び回り続けていた。忙しい、という言葉に真実味がなくなるほど目まぐるしい毎日は、独り身の頃なら何も考える間がなくて逆に助かったのだけれど。 いざ、常に逢いたい存在が出来てしまうと、生き甲斐である仕事は障害にもなった。それはもう、最後に顔を合わせたのはいつだっただろうかと記憶を掘り起こさなければならないほどに。 自分一人が忙しければ多少の無理もできるのだが、相手も負けず劣らず慌ただしい日々を過ごしている。双方の都合を合わせるには最早偶然に頼るしか道がなく、今月に入ってから二人で逢うことができたのはたったの一度。 メールや短い電話で言葉を交わすことはできるものの、目を見ながら直に声を聞くあのときめきは比較できるものではない。 できることならもう少し逢いたい。二人だけの時間が欲しい。しかし、半年という時間が経過していてもその密度はあまり濃いとは言えず、意思の疎通が上手くいかなくてすれ違ってしまったことも何度かあった。思い出すと少々顔が渋くなるくらい、今の自分が盲目的で臆病だということをヒカルは自覚している。 歩きながら溜め息をつくと、白い息がふわりと夜の空気に溶けて広がった。見上げた空は薄ら曇り、粒にも満たない星は更に夢の向こう。 ――誕生日も祝ってやれなかった。 十二月の一大イベントはクリスマスだと張り切る人間は多いだろう。ヒカルだって恋人同士のクリスマスは偏見なく素敵なことだと思うけれど、それよりも大事なアキラの誕生日がイブの十日前にあったのだ。 結果はどちらも仕事が詰まって撃沈。かろうじて日付けが変わる前に電話でおめでとうを伝えることはできたものの、プレゼントを直接手渡すことはできず、いつ逢えるか分からないという理由で郵送してしまった。今思えば、それもまた素っ気無くて失敗だったなと思うのだが。 付き合い始めて最初の誕生日くらい、盛大に祝ってやりたかった。派手じゃなくてもいい、せめて直接逢っておめでとうくらいの言葉の贈り物を。 電話でアキラはとても嬉しいと言ってくれたけど、きちんと顔を見せていたらもっと喜んでくれたのでは――何度となく過ぎたことをぐじぐじ振り返っては、もっとスケジュールを調整できなかったものかと後悔をし続ける。 そんな自分に辟易しながら、それでも後ろばかりじゃなくて前に進みたい思いはしっかりと育てていた。 日付けは二十三日。イブイブなんて今時口にする人間も少ないだろうが、その日に入った指導碁の場所を確認した時から微かな期待が胸を暖めていた。 アキラの自宅からほんの二駅。指導碁の時間によっては、夜に少し顔を出すくらいはできるかもしれない。 しかし出向く先の主人は話が長い。碁盤を片付けた後にまあまあ一杯、と付き合わされることは少なくない。機嫌を損ねることなく断る話術は未だ備わっておらず、いつも苦笑しながら杯を持たされていた。 行けるかもしれない、行けないかもしれない。行ったところでアキラに用事があるかもしれない。 迷っているうちに期日は迫り、結局連絡はできなかった。現在の時刻は十一時近く、ヒカルは白い息を吐き出しながら纏わりつく冷気を振り切るようにコンクリートに靴音を立てる。 指導先にスーツを着込むようになってから数年経ったとはいえ、窮屈な肩にはそれほど慣れてはいない。こんな格好でいきなり尋ねていったら何事かと目を丸くされないだろうか。 クリスマスには一日早いけど、とか、たまたま時間が出来たから、とか。適当な言葉が次々頭に浮かんでは消える。実際に顔を見たら、半月振りなのだから胸が詰まって何も言えなくなるかもしれない。 そもそもアキラが在宅しているかどうかも確認しないままなのだから、それらの言葉も伝えられるかどうかは怪しいところだ。 駅から歩いて十数分、見覚えのある住宅街には人通りも少なく、均等に備えられた街灯がぼんやりとヒカルを上から覗き見る。無遠慮な光を睨み付けて、とうとう視界に入って来た門構えに顔を向けると、ヒカルは大きく深呼吸した。 視界が白く遮られる。 ポケットから出した指先にひんやりとした空気が絡み付き、あっという間に冷えきったその人指し指でゆっくりとチャイムを鳴らした。 来訪には非常識な時間だが、アキラの両親は現在国外。恋人一人しかいない家なのだから、多少の無礼講は許して欲しいと返事を待つ。 数秒……何の反応もない扉に少し眉を顰め、もう一度チャイムを押した。――無反応。 数十秒。それから粘ってもう数分。 ダメか、と息をついたヒカルは、最後にもう一度だけ往生際悪くチャイムを鳴らしてから、静かに扉に背を向けた。 ――今日の予定も聞いてなかったもんな。どっか泊まりの仕事か…… 口の中で言い訳がましく呟いて、コツコツと淋しい靴音を道連れに扉から離れて行く。まさに門前払いという言葉が浮かび、家そのものから弾き出されたような気がして、空回りした自分が物悲しい。 門を出ようとした足を、浮かせたままヒカルは立ち止まった。 ゆっくり地面に下ろしてから、再び門を振り返る。 緩く下口唇を噛んで、情けなく眉を垂らした表情で迷ったのはどのくらいの時間だったのか。 踵を返したヒカルは、右のポケットに手を突っ込んだまま足早に扉に近付いた。それから何かを握り締めて手を出すと、体温ですっかり温まった小さな金属片を郵便受けに突っ込む。 カラン、と落ちる音を聞く前に、逃げ出すようにその場から駆け出した。 ――馬鹿やったなあ。 後から思ったのはそんなことばかりだった。 帰りの地下鉄の中でも、一人暮らしのアパートまでの道のりも、ずっとずっと後悔ばかりだった。 逢えなかったのは仕方ない。アポなしの突撃だったのだから期待するほうが間違っている。 だけど、逢えなかったからと言って――渡すつもりだったプレゼントを自分勝手に突っ込んできたのはやはりやり過ぎだったような気がするのだ。 プレゼント、だなんて言うのも図々しいかもしれない。小さな銀色の鍵。ヒカルのアパートの部屋の扉に繋がる鍵。 手渡すならまだしも、裸で郵便受けに落として来るなんて、意図も意味も不明でアキラを困らせるだろう。 どこの鍵なのか、そもそもあの小さな存在に気づいてもらえるかどうか。せめてメモのひとつでも残すべきだった……走って逃げ帰って来た自分が何を今更、と嘲笑ったところでやってしまったことはどうしようもない。 恐らくアキラは今夜は帰宅しないだろうから、明日にでもメールを入れておくべきだろう。変なものを落として来たけど、あまり気にしないで欲しいと。 ――気にすんなっつって、マジで気にされなかったら凹むな。 何しろ親以外は手にしていない部屋の合鍵だ。他意がないはずがない。 暇がないのは重々承知だが、できれば……僅かな時間があれば、いつでも訪ねて来て欲しい。そんな照れくさいことを直接言うのは躊躇われて、鍵を押し付けることで察してくれと無責任にも願うつもりだったのだ。それらの情けない意図が、あのちっぽけな鍵だけでアキラにどこまで伝わるのか…… アキラの家に向かう前よりぐずぐずと帰宅したヒカルは、不貞腐れたような顔でアパートのドアノブに乱暴に鍵を突っ込んだ。ガチャガチャと不必要に大きな音を立て、開いたドアの向こうに一歩足を踏み入れようとした時、廊下の灯りが暗い玄関を照らして床で光るものを知らせてくれる。 足を止めたヒカルは、床にぽつんと落ちている小さな銀色を見つけて眉を寄せた。膝を曲げて腰を屈め、拾い上げようと手を伸ばしている途中で――気がついた。 裸の鍵。 ドアを振り返る。ドアに郵便受けがついているこのアパートでは、オートロックなんて高級なものはないため住人以外もドアの前まではフリーパスだ。 それから今通って来た廊下に慌てて顔を向けた。駅からここまで、すれ違った人はいなかった。となるとかなりの時間が経過しているか、交通機関の利用で見事に空回ったのか…… 家を出る時には確実になかったその鍵を握り締め、ヒカルは見開いた目に力を込めた。 開けたばかりのドアを閉め、再び乱暴に鍵を閉めると、窮屈な服を着ていることも忘れて大股で駆け出した。左手に大切な宝物を、右手には胸ポケットから取り出した携帯電話を。 今度はすれ違ってたまるか。耳に当てた携帯電話はほんのり暖かく、かじかんだ皮膚にじんわり染みる。 一秒でも早く。声を、そしてその顔を。 蒸気機関車のように真っ白な息を吐き出して、暗い夜道を駆けて行く。 駆けて行く、駆けて行く。 |