追憶の少年








 冷え冷えとした透き通る肌に、白く細い指先。
 腰まで届く豊かな黒髪は受けるはずもない風に揺れ、角度によって色を変える生者のものではない眼差しは何故だか酷く暖かかった。
 見るもの全てに目まぐるしく表情を変え、時に美しく時に恐ろしく、からからと笑い声をあげながら千年の時を漂い彷徨った、ひたすらに囲碁を愛した孤独な魂。
 彼の打つ碁に人々は魅了され、ある者は感嘆し、ある者は畏怖を抱き、追い、追われ、憧憬の果てに消えた愛すべき魂。
 今なお人々の心に残る奇跡の時間。
 忘れ難き十九路の迷路。
 黒と白の石が彩る美しき世界に惑わされ、また一人、また一人と道を紡いでいく悠久の流転の一片。
 偉大なる千年の時。






 ***






 その碁には、夢があった。
 相手に合わせて何通りにも形を変える、碁石の並びに遊び心を忘れない。
 碁盤は宇宙。人の力でその果ては計り知れない。
 どこまでも広がる世界に目を閉じて、心を委ねて。
 限りのない空に気持ちよく酔えばいい。

 その碁には、強さがあった。
 揺ぎ無い一手を生み出す僅かな時間に、駆け抜けるように巡る記憶が最善の道を指し示す。
 道の追求を怠らないその目は常に、遥かな高みを見据えていた。

 その碁には、美しさがあった。
 闇雲な強さを嫌い、石の運び、働きひとつひとつに心を込め、相手と造り上げる真摯な時間を深く愛した。
 勝つことだけに喜びを見出すのではなく、打つことに意義を感じる。一人きりでは打てない碁を、誰かと向き合って石を打ち合う喜び。大切に造り上げた黒石と白石の地は、見る人の胸をも打つ、たった二色の鮮やかな星に変わる。
 その眩しさ。煌き。華やかさと隣り合う儚さ。
 巡る巡る石の流れ、永久不変の黒と白。
 姿なき人の手で、それは確かに作り上げられた、心を揺らす美しい棋譜。



 頭で考えるのではなく、心で感じて。
 指先で石の流れを感じて。感じて。感じて。

 ――あなたにはもうできるはず……



 世界から音が消える。
 耳が何かの膜に覆われたように、聞こえるのは自らの呼吸と血の流れ。命の鼓動。生きている証。
 ひんやりした碁石を指に挟み、碁盤に打ちつける抜けるような音。その一手一手が眠る記憶を覚醒させる。
 身体を脱ぎ捨てて。精神を研ぎ澄ませて。息をするように自然に、碁石の道を示していく。
 頭の奥が痺れていく。見下ろす碁盤は、目で見ているものではなく心で感じているもの。
 自分ならできるはず。石の流れを読み取って、最善の一手を感じられるはず。
 そう、かつてその身が朽ち果てても碁を愛し続けた魂のように、その道を感じて。感じて。感じて――





 コンコン……





 ヒカルははっと目を開いた。
 弾かれたようにドアを振り返る。確かに聞こえた控えめなノックの音。――ヒカルを現実に引き戻すささやかな雑音。
 何度も瞬きをしながら、ヒカルの肩がすとんと落ちた。どのくらい止めていたのか、口唇からはっと苦しげに吐息を漏らし、力の抜けた指から黒石が転がり落ちる。碁盤の上には最初の数手、黒と白の石がいくつか置かれただけで止まっていた。……続きはヒカルの頭に描かれていた。
「ヒカル……?」
 躊躇いがちにドアの向こうから声がかかり、ドアがゆっくり開かれる。そこに現れた母親の姿を認めて、ヒカルの胸にどうしようもない苛立ちが生まれてくるのを堪えられなかった。
 母親は、ヒカルの部屋の床を埋め尽くすような棋譜に一瞬絶句したようだった。白い紙に囲まれて、碁盤に向き合う息子の異様な気配を感じ取ったのだろうか。酷く戸惑い、様子を伺うように恐る恐る声をかけてくる。
「あんた、こんな時間まで……。ストーブもつけないで。明日も手合いなんでしょう? 身体壊すわ」
「……碁石の音がうるさいのなら静かにする」
「そうじゃないのよ、お母さんはあんたの身体を、」
「うるさい!」
 遮るように怒鳴ると、離れた場所でも母親の身体が竦んだのが分かった。ヒカルは碁盤を睨んだまま、振り返らずに早口で吐き捨てる。
「身体は何ともない。邪魔するなよ。気が散って仕方ない」
「……でも、あんたここのところ毎晩遅くまで起きてるでしょう? そんなにやらないと駄目なものなの? そりゃあ、あんたはプロなんだから仕事に責任もあるでしょうけど……」
 躊躇いながらも徐々にはっきりしてきた母親の口調が無性に耳に障った。ヒカルは振り向いて立ち上がり、血走った目を吊り上げて母親を怒鳴りつけた。
「何にも知らないくせに余計な口出すなよ! お母さんは囲碁のことなんてさっぱり分からないだろ!? そうだよ、俺はプロなんだ、死ぬ気でやらないと上になんか昇れねえんだ!」
 怯んだ母親の肩を、伸ばした腕で突き飛ばした。すでに自分の身長を遥かに越えたヒカルを、母親が息を飲んで見上げるのが分かる。
 ヒカルはなるべく母と目を合わせないように顔を逸らし、ドアノブに手をかけた。
「ヒカル!」
「出てって。夜は入ってくるな」
「ヒカル、でも、」
「いいから出てけ!」
 ドアの隙間から母親の身体を押し出し、ヒカルは強引にドアを閉める。しばしドアの向こうで佇んでいた気配は、やがて力なく階下へと降りていった。
 ヒカルはドアに背をつけて、そのままずるずると床へ尻を落とす。
 棋譜の溢れる部屋。その中央に碁盤。時刻は午前三時。
 ため息ともつかない、空気漏れのような息が口唇の間を長く掠めていった。
 それからぎり、と口内の肉を噛む。――気持ちを飛ばしかけていた時だったのに。
 佐為がいたあの頃のように、彼の気配を碁石の流れに感じることができかけた時だったのに。
 何も知らないくせに。何も分からないくせに。
 一度精神が散らばってしまえば、元に戻すのは容易ではない。証拠に、長い時間の集中で身体は酷く疲れている。
 誰かに喉を押さえ込まれているように息が苦しかった。
 ここまで自分を追い込まねば手に入れられない懐かしい空気が、今の自分にあまりに遠く、悔しかった。



 碁が打ちたくて仕方ないのだと、囲碁を愛した幽霊はそれはそれは嬉しそうに笑っていた。
 囲碁こそが人生。その生涯を終えても、魂だけは囲碁の道を追及し続けた。
 千年の時を経て、そうして彼はヒカルの元に現れた。
 囲碁のいの字も知らなかった、ただの小さな子供だったヒカルに、光り輝く道を示して。

 ヒカルはだらりと腕を床に落とし、俯いたまま口唇を微かに動かす。

 ――佐為。

 その名を呼べばいつも返事が返ってきたあの頃。
 佐為がいるのが当たり前になった日常。明日もまた、同じように日が昇るのだと信じて疑わなかった子供の自分。

 ――佐為。

 佐為が消えた後も、すぐには現実を受け入れることができなかった。
 佐為がもっともっと打ちたがっていたことを知っていたから。佐為がまだ、彼が納得する神の一手を極めていないことを知っていたから。
 何より、ずっと一緒にいると思い込んでいた自分に何も言わずにいなくなるだなんてありえないと思っていたから。
 ……思えば、いつも自分のことばかり考えていた……

 ――佐為。

 佐為の打つ碁は完璧だった。
 出鱈目に強さを追求するのではない。心から囲碁を愛し、楽しむことを目的とした彼の碁は、いつも優しさに満ちていて美しかった。
 拙いヒカルの手を、最善の一手へと導く扇子。
 あの扇子の先が見えなくなってから、前を向くまで随分時間がかかった。
 自分の出した答えは、佐為の碁を引き継ぐこと。
 自分の中に確かに息づく、佐為の碁の片鱗を未来へ繋ぐこと。

『モノマネ』

 否定しきれない自分がいる。
 佐為の力に憧れ、強さを模倣した。勝ち続ければそれだけで嬉しかった。
 だから、負けた時のダメージが大きかった。
 佐為の碁の本質を掴みきれなかった。
 佐為に追いつくなんて、一朝一夕の努力でどうにかなるものじゃない。
 ならばせめて、佐為の碁を理解したい。
 力が追いつかない分、心を近づける。
 佐為が過去の一手一手を、どんな気持ちで打っていたかを――


 かつて目を閉じても感じられた佐為の気配は、彼が消えて三年近くもなった今では容易に思い出すこともできなくなっていた。
 取り戻すのは簡単な道程ではなかった。
 碁を打つという生活に慣れきった身体が、いかに弛んでいたかを思い知らされた。
 あの凛とした空気。それでいて優しい眼差し。
 離れて初めて、自分がどれだけあの暖かい気配に守られていたのかを実感した。
 手取り足取り、何も分からない自分をここまで育て上げたのは佐為だ。弟子だなんて生易しいものじゃない。いわば分身。この身を共有した魂の分身。
 そう、自分は佐為の分身なのだ。佐為の碁を伝え残す義務がある。佐為に似た碁では駄目なのだ、だって佐為を待つ人が今もあんなに彼の碁を夢見てる。

 『モノマネ』では足りない。
 佐為の碁はそんなレベルでは再現できない。
 ただ強くては意味がない。ただ美しいだけでも魅かれない。
 一度打ったら忘れられない、そんな魅力が佐為の碁にはあった。
 人々が求めてやまない佐為の碁を打つためには、心ごと佐為を追わなくてはならない。

 佐為の石の流れ。独特で力強い。それでいて繊細。
 相手の手の内を全て読みきり、その判断も早い。千年の対局を全て活かして石を導く。気の遠くなるような時間を囲碁と共に過ごしてきた魂。
 目を閉じて、佐為を感じる。佐為ならきっと、なんて生温い感覚じゃ間に合わない。もっと確かな道を掴まなければならない。
 佐為はここに打つ。それが分かるまで集中する。心を共にした自分だけが分かる、佐為の持つ碁石のリズム。
 心を澄まして、懐かしい空気に身体を浸し、じわじわこの手に蘇ってくる、あの扇子の指し示す場所。佐為と一体になれたと思ったその瞬間、それなのにいつも雑念がヒカルの心を引き戻す。
 そうして、気がつけば身体は汗だくになって痺れていた。そんな夜を繰り返す。
 何故、あの時簡単に共有し得ていたものが、今これほどまでに難しいのだろう?
 あの時、もっと佐為の声を聞くべきだった。
 あの時、もっと佐為の碁に触れるべきだった。
 あんなに一緒にいたのに、突然魔法が解けたみたいに消えてしまった。確かだと信じていたものが思いがけず見えなくなった。
 あんなに一緒にいたのに! 今ここに残っているのは、中途半端に佐為に憧れた弱い碁打ちの身体だなんて! ――悔やんでも時間は二度と戻らない。
 そして今なお時は動き続ける。こうしている間にも、命は巡り続けている。
 昨日碁盤を挟んで向かい合った人が、明日も向かい合える保証がどこにあるだろう? 再戦を誓った人が、約束を果たす前に消えてしまわない保証がどこにあるだろう?
 一分も、一秒も、無駄にできなかったのだ。それを忘れて時間を使いすぎてしまった。もう誰も待たせるわけにはいかない。
 佐為の力を、彼らに伝えたい。散々待たせた、彼らのために佐為の力と出会わせてあげたい。
 そのためには、この中途半端な状態から脱却しなくては。
 ヒカルは目を閉じる。


 ……緒方先生は分かっていた。
 緒方先生はずっとsaiと打ちたがっていたから。
 あの夜、例え自覚はなくたって、確かに佐為と打った緒方先生だから。
 はっきりしない力を抱えてふらふらしていた俺が許せなかったのかもしれない。
 顔を出したり、引っ込めたり、俺に隠れている佐為の気配がもどかしかったのかもしれない。

 ……塔矢先生なら見抜く。
 新初段の、あの出鱈目な碁でさえ佐為の力を見抜きかけた先生なら。
 俺の器にそぐわない佐為の力がはみ出してしまっていることに失望するかもしれない。
 唯一、佐為がsaiとして望む相手と対等に打ち合ったあの一局。
 塔矢先生は本気の佐為を知っている。
 生半可な覚悟じゃ先生の前に座ることはできない。
 先生が何も言わずに待っていてくれた、佐為との再戦を俺の手で叶えてあげたい。
 佐為だって、もう一度先生と対局したかったはずだから。

 ……塔矢も、いずれ気がつくだろう……。
 俺を除けば、佐為と一番多く対局したのはアイツだ。
 たった三度の、でも俺とアイツの人生を変えた真剣勝負。
 佐為がいなければ俺は塔矢と出逢うこともなかった。
 佐為がいなければ塔矢が俺を追うこともなかった。
 アイツが俺の中に見た光が、今は違うものに変わっていると知ったら、アイツは俺から離れていってしまうんだろうか?
 見限られたくない。他の誰より、アイツにだけは見放されたくない。


『saiと打たせろ』

『saiと、もう一度』

『キミの打つ碁がキミの全てだ――』


 俺の打つ碁が俺の全て。
 そして、俺の全ては、佐為の全てでなくてはならない。


 なあ、佐為。
 俺にはそれが出来るはずだろ?
 だから、お前は俺を選んだんだろ?
 お前が渡してくれた扇子は、そういう意味なんだろ?
 俺の願望が見せた幻なんかじゃないって言ってくれよ。
 俺はお前の力を継ぐ。お前の碁を残してやる。
 志半ばで消えてしまった、お前の碁をたくさんの人に伝えてみせる。
 お前ができなかったことを、俺がお前の力で果たしてみせる。
 お前もそれを望んでるだろ?
 そうだろ? そうなんだろ?

 なあ、佐為。
 何とか言えよ。
 そうだって、夢でもいいから頷いてくれよ。


 佐為、佐為、佐為……




 答えろよ……








 ***




 白々と明ける空の光に、ヒカルは薄ら瞼を開いた。
 ぶるりと身体に寒気が走る。棋譜に埋もれるようにしていつしか眠りともつかない夢の狭間に引き込まれていたヒカルは、軋む身体を少しずつ起こしながら立ち上がった。
 ベッドに近寄り、カーテンを開く。まだ薄暗い空から真新しい太陽の光が覗き込んでいる。
 身体は疲れていたが、頭がやけに冴えていた。
 今日は王座戦トーナメントの二回戦。相手は倉田八段。
 余程集中しなければ、容易に勝てる相手ではない。
 どこまで心を研ぎ澄ませることができるか。
 どこまで佐為に近づくことができるか。
 ――どこまで佐為になれるか。


 前を見据え空を睨むヒカルの瞳に、一握りの迷いが波紋を作る。
 ヒカルは迷いを振り切るように目を閉じた。
 ベッドから下り、棋譜を掻き分けて碁盤の前に座る。
 僅かな時間でも、佐為の空気を感じていたい。
 ヒカルは凍える指に碁石を挟み、懐かしい気配を感じようと碁盤を打つ音に身を委ねた。






答えは何度も自分で言っているのに、
不思議とずれていくのは何故なんだろう。
(BGM:追憶の少年/LOOK)