夕方近くなってようやく風が出て来たのか、開けっ放しの窓の傍でそれまで静かだったレースのカーテンがひらひらと揺れ始めた。 視界の端で捉えた何かの動きを追って、ヒカルは読み耽っていた漫画から無意識に目を離して顔を上げる。カーテンか、と納得すると同時に、ソファの隣に座って文庫本を読む男の、肩を越えた長い髪がふわりと風に靡いていることに気がついた。 微々たる動きではあったが、ヒカルはしばし揺れる長い毛先を見つめていた。 珍しく休暇が一緒になった。 だからといって特別な予定などなかった二人は、休日にそれぞれやりたかったことを幾つか提案し合い、その中で唯一希望が一致した『本屋に行く』を採用することにした。 行きと帰りは一緒でも、店内ではお互い自由に欲しいものを物色した。ヒカルは子供の頃から読み続けている長期連載漫画の最新巻、アキラはつい先月何かの賞を取ったという作家の既刊の文庫本。何でも今度、雑誌の取材でその作家と一緒にインタビューを受ける機会があるらしい。 帰宅後も隣にこそいるけれど、全く違うジャンルの本をそれぞれ勝手に読んでいる。 腐れ縁というやつなのだろうか、いつからこんな風に休日まで連むようになったのかは定かではないが、特別他に用事がある時以外はほとんどこうして隣り合って、お互い好きなように時間を過ごしている。 この距離感は居心地が良かった。 視線に気付いたのか、長髪の男──アキラも活字を追っていた目をヒカルに向けた。 「なんだ?」 当然の問いかけに、ヒカルはこの場で適当と思われる答えを用意できなかった。 見ていたことに意味などない。動いていたものを目で追っていた、それだけのことに特別な理由が思い当たらなかったのだ。 ヒカルは別に、と口の中だけで呟いて、風が掬い上げる長い髪に横目を向ける。 「すげー伸びたな。いつまで伸ばすんだよ」 他愛のない繋ぎの質問のつもりだった。 アキラの髪はヒカルの記憶の限りでは最初の北斗杯を終えた辺りからほとんど切られておらず、今では毛先が背中に届くほどに伸びていた。後ろ姿だけ見れば女性と見紛う艶やかな黒髪だが、父親に似たのか長身で肩幅もある故に本当に間違われることは少ない。 ずっと近くにいるため疑問にも思わなくなっていたが、もし子供の頃のヒカルが時を駆けて今のアキラを見たならば面食らう程度には長い髪だった。 棋戦のインタビューでも何か願掛けでもしているのかと尋ねられているのを見たことがある。本人は散髪に行く時間が惜しいなどと躱していたが、時折毛先を揃えに美容室に行く姿を知っているヒカルにとっては適当に誤魔化しているんだな、程度の認識だった。 何故髪を伸ばしているのか、話題に出したことは今までなかった。 アキラは数秒じっとヒカルの目を見た。顔色も声色も普段と変わりない穏やかなものではあったけれど、心成しかゆっくりとした口調でこう尋ねてきた。 「……いつまで、伸ばせばいいんだ?」 ヒカルが声を失う。 どういう意味だよ、と問い返すには頭の中を巡って行った感情を解するのに時間をかけ過ぎて、何も返答出来ずにヒカルはアキラとただ顔を合わせた。 そういえば、あの日も窓が開いていた。 ヒカルは唇を薄く開いたまま、半ば逃避するように視界にチラつくカーテンの端に心を飛ばした。 ──いつかお前には話すかもな。 いつか、がいつ来るのかはヒカルにも分からない。何度かアキラに問い詰められたことはあるが、その都度のらりくらりと躱して来た。 成人した頃にはアキラが「それ」を話題にすることはなくなっていた。諦めたのか、それとも忘れてしまったのかさえヒカルには分からない。突いてしまえば藪蛇だからと触れずに来た。あれから随分と時が流れた。 優しい囲碁幽霊がいなくなって十年以上経った。今では顔や声の記憶すら危うい。当時の怒涛の感情は時の経過と共に身体に馴染み、今では余程のきっかけでもない限りしみじみ思い出すことはなくなっていた。 それでも、もしかしたら。 長い黒髪の毛先が躍る度に、無意識に目を向けていたかもしれない。 濡れ羽色の毛束が翻って散らばる様を見て、過去の残影を重ねていたのかもしれない。かもしれない、分からない。ヒカルにはそんな自覚は毛頭無かった。 これまでアキラに髪を伸ばしてくれと頼んだことはない。伸ばして欲しいと思ったこともない。 しかしアキラは不思議とヒカルの考えを読む。考えと言うには語弊があるだろうか、ヒカルが意識するしないに拘らず、その時に欲するベストのものを用意してくるきらいがあるのだ。 例えばワイシャツの襟元を緩めたら水の入ったペットボトルを渡してくるとか(確かに喉が渇いていた)、隣同士で座った新幹線の座席にて欠伸をしたらアイマスクを差し出してくるとか、そんな些細なものがほとんどではあるものの、アキラの行動がヒカルの希望から逸れたことはない。 よく見ているのだろうと思う。ヒカル以外の人間に同じくしているような気配はないが、不思議な特別感は居心地が悪くないので黙って享受している。 もしも、ヒカルが意図せずに伸びかけたアキラの髪の毛先に続く面影を追っていたら。アキラがその目線からヒカルの無自覚を読み取っていたのなら。 じわ、と脇に汗が滲み出した。 比べ難き、忘れ難き懐しい古の気配。 「いつか」はまだ訪れていない。だから、アキラは知るはずもない。 知るはずもないのに、誰よりもヒカルを見ているアキラならば、この胸の奥に棲んでいた記憶の中だけに生きる存在に気付くかもしれない。 馬鹿げてるとは思うが、アキラなら可能にしてしまいそうな気もする。昔から計り知れぬパワーを持った奴だったから、とヒカルは唇を緩く噛んだ。 (それは違ぇだろ) この荒唐無稽な推測がもし当たりだったとしたら、ヒカルは自分の無意識に「待った」をかけなければならない──あろうことかアキラと彼の人を重ねるだなんて、ヒカルの意思としては大間違いだった。 目の前にいるアキラはヒカルにとって大きな存在ではあるけれど、彼とはまるで違う場所にいる。 アキラと打ちたいと道を選んだのはヒカル自身だ。ヒカルに追ってこいと道を示したのはアキラで、それぞれが誰かの代わりにはなり得なかったからこそ今の二人が在る。 微かに残っていた寂寥が虚像を追わせたのだろうか。決して代わりを求めていた訳ではないと強く信じてはいるが、無意識下の願望を「そう」読み取られていたのだとしたらやり切れない。 ヒカルは生唾を飲み込み、こちらを見たまま微動だにしないアキラの静かな瞳を改めて見る。 汗ばんだ指が握ったままの漫画のページを波打たせていた。それを小さく握り込んで、ヒカルは口を開く。 「……お前の、好きにしろよ」 声は微かに枯れていたかもしれない。他愛のない返事を、側から見れば何をどうしてそんなに緊張するのかと不思議に思われるだろう。 アキラはそんなヒカルの不自然を追求しなかった。すぐには答えず唇を結んだまま、ヒカルの目をじっと見つめている。 瞳を貫き、その奥にある脳の中まで覗き込むような目だった。考えていることを覗かれている、そんな気にさせる真っ直ぐな眼差しは、ヒカルの目の揺らぎや瞬きの合間に映る本心の色を探っている。 ヒカルは何も考えないようにした。自分でも把握出来ているか怪しい無意識を裁いてもらうかの如く、思考を放棄してただアキラと向き合った。 息の詰まる対峙は時間に換算すれば僅かなものだったのかもしれない。 ふと、アキラが柔らかく目を細めた。薄ら唇に乗った微笑みは美しい弧を描き、元々端正なアキラの表情をより魅了的に飾った。 こいつのこの顔、好きなんだよな。見惚れるに等しい目でぼんやり眺めていた唇が、そっと開いて次の言葉を発するために小さく息を吸った。 「……分かった。じゃあ、今度の休みに切って来よう」 落ち着いた声色でそう告げたのを聞いて、ヒカルは力が入って自然と上がっていた肩を下ろす。 切る。──髪を切ると、そう言った。 アキラがヒカルの目を見て選んだ。その事実に沸々と喜びに似た感情が沸き上がってくる。 頬の奥に灯った熱が顔の全面に広がっていった。恐らく見てすぐ分かる程度には紅潮しているだろう。薄く開いていた唇を思わず笑みの形に変えて、ささやかではあるが目を見開いた。 アキラの選択を素直に歓迎できた自分に、ヒカルは心底安心した。 だってアキラが見誤るはずがない。アキラはアキラでいて欲しいと本心から望んだことを分かってくれた。ヒカルが自然とそう思っていたことに、誰よりもヒカル自身が安堵と喜びを感じていた。 久し振りに会う約束をしたかのような高揚感に苦笑する。ああ、何年振りかに懐かしい髪型の塔矢アキラに会えるかもしれない──それは一緒にいることが長くなった二人の日常の中で、ほんの少し特別な一日になりそうだった。 ヒカルの静かな喜びをしばらく見守っていたアキラは、おもむろに文庫本を閉じる。 そして脇に避け、首だけを向けていた体勢をずらして身体ごとヒカルに向き合った。片手をヒカルの肩に乗せ、少し考えてからもう片方の手も反対の方に乗せて、まるで捕らえられたようでヒカルが訝しげに瞬きをする。 アキラは何かを確信したかのように小さく頷き、真っ直ぐにヒカルを見つめてはっきりと言った。 「進藤。ボクたち、そろそろ付き合おうか」 「……はあ!?」 突拍子もない提案にヒカルが目を丸くすると同時に、力が緩んだ手から漫画本が落下する。 本の角が裸足の甲に直撃し、ヒカルは潰れた蛙のような悲鳴を上げた。 開け放たれた窓から空へ吸い込まれた悲鳴を見送るように、カーテンがひらひらとはためいていた。 |
アキヒカを初めてサイトに載せてから15年が経過しました。
今でもたくさんの方に愛される最高のCPですね…!
2013年頃に小畑先生が描いた10年後のアキラとヒカルのイラストが公開されたんですが、
予想していなかったアキラさんの長髪ぶりにビックリしすぎて、
当時急いで数百字くらいのSSを書いたものを元にしています。
多分25歳以上くらいの二人。
大人のアキヒカかっこいいんだろうなあ!
久しぶりにアキヒカ書けて楽しかったです。またいつか!