鴫山(しぎやま)の姫塚・1/3
愛媛県西予市三瓶町鴫山
0894−33−2470(三瓶教育課)
身障者用トイレ・海の駅「潮彩館」約5キロ
八幡浜市と旧三瓶町の境近くの山の中に鴫山という集落があり、そこに姫塚という史跡があります。塚近くの案内板に書かれている姫塚にまつわる伝説を紹介します。
言い伝えによると、昔、京都の公家のお姫様がハンセン病にかかられ、手当てのしようもないままうつろ舟に乗せられ流されました。 陸地に着くと、その土地の人々に舟を押し出され、陸に上がることが出来ませんでした。ついに白石の浦に着きましたが、そこでも追い払われ、山を越えて、ここ鴫山へ来られました。
鴫山の人々は、姫に同情して、小屋を立て、「村養い」にしました。姫はたいそう喜んで、ここ鴫山から永久にこの病が出ないようにと、亡くなるまで毎日、法華経を青く平らな石に写経しました。
姫が亡くなった後、写経した石で祠を建てようということになりました。
そうして出来上がったのがこの塚です。
私は、この姫塚伝説に深い感銘を受けました。迫害に負けず生き抜いた姫の強さ。姫を受け入れた鴫山の人たちの勇気と優しさ。まるで別の国、別の世界の話のようです。今まで出かけた先に神社仏閣などがあると立ち寄ってお参りしてきましたが、姫塚ほど厳粛な気分になったことはありません。気がつくと手を合わせ深く頭を垂れていました。
県道から塚までは2キロ弱だけど狭くカーブの多い道です。2013年1月現在、道路工事が行われていて普通車がやっと通れるくらいの道幅しかありません。
写真左から県道八幡浜三瓶線と鴫山への分岐点・姫塚近くの車を止められるところ・姫塚入り口
姫塚の謎・2/3
その後、姫塚のことがずっと気になっていたので個人的に少し調べてみました。姫塚伝説には大きな謎が二つあります。一つはそもそもこの話はどこまでが事実でどこからがフィクションなのか、もう一つは姫は誰なのかです。最初は漠然と姫が誰かを調べることは可能だろうと思っていました。仮にも公家の娘。記録が残ってないはずは無いからです。
ですがすぐに壁にぶつかりました。姫の没年はおろか、およそいつの時代の話かすら分かってないのです。時代が分からなければ資料を当たって調べることもできません。三瓶文化会館の職員の方によると、現在、姫が経文を綴った石以外姫にまつわる物は何も残っていないそうで、また明治7年に塚を移設した時には石自体かなり数が減っていたらしく新しい石を使って積みなおしたとのことです。どうやら姫が流されたのはかなり古い時代のことのようです。
では姫塚伝説の信憑性はどうでしょう。畿内から、う つろ舟で流され現在の八幡浜市白石にたどり着いたというのは多分事実ではないでしょう。櫓を漕ぐどころか船に乗ったことすらないだろう公家の娘が瀬戸内海を数百キロ航海し、さらに九州へ向かっていたのを急に方向転換し佐田岬半島をぐるりと回りこんで白石の浦へ着いたというのは、ちょっと考えられません。
私は姫が流れ着いたという白石の浦へ行ってみることにしました。白石には姫を祀ったお宮があると聞いたからです。グーグルマップには姫宮大神宮と書かれていて、どんな立派なお社かと思ったら写真の通り可愛いらしい祠でした。国道378号と集落の中を走る旧道と、どちらからでも行けますが案内板などが無いので国道から下りた方が分かりやすいでしょう。白石バス停前から20メートルほど三瓶側に行くとコンクリート塀が切れていてお宮へと続く階段があります。
姫塚伝説によると、姫は、ここ白石でも追い払われたことになっているので彼女にとってはネガティブな印象の強い土地かもしれません。でも伝説の信憑性を考えるとき、非常に重要な場所となります。伝説が鴫山だけに伝わっていたのなら、遍路途中に行き倒れたハンセン病を患った女性を鴫山の人たちが助けたという事実に長年のうちに尾ひれがついて姫塚伝説となったとも考えられます。でも姫が流れ着いた場所が白石の浦だとはっきり分かっていて、しかも白石の人たちにとって伝説の内容は体裁の悪いものにもかかわらず、現在まで伝わり姫を祀ったお宮まで存在するというのは、少なくとも姫の存在と白石で上陸したことの二点は事実に基づいていると考えても良さそうです。
下左の写真は白石の浦と集落。後ろの山を越えるとすぐに鴫山集落があります。峠は標高300メートル弱で距離的にも近いのですが、みかん山の作業道として整備された道は狭いだけでなく迷路のようで慣れてなければきついでしょう。三瓶から海岸沿いを回る道も景色は良いけど悪路です。県道三瓶八幡浜線で八幡浜に出て白石へ行くコースをおすすめします。右は白石のバス停です。
姫塚の仮説・3/3
ここで残っている資料や伝わっている話を整理してみます。下の写真は三瓶文化会館のふるさと資料展示室で展示されている古い塚で使われていた石です。石には字が書かれていますが、これは時を経て薄くなった姫の字を後の時代に上からなぞった物だろうということです。
姫塚の中には五輪塔がありますが、五輪塔には再建立された年号と戒名が書かれています。三瓶町誌によると明治7年(1874年)2月16日に再建立され戒名は宝蓮院殿妙芳大禅定尼です。また町誌には姫の命日が6月28日、姫塚の場所が「鴫山せと丙三五〇、鴫山集落南端にある盆地」と記されています。五輪塔に刻まれている立派な戒名ですが、移設の際の法要に僧侶は参加せず、戒名をいつ誰がつけたかは不明だそうです。
三瓶文化会館ふるさと資料展示室
開館時間 8時30分〜17時15分
休館日 年末年始
展示室の入り口は普段閉まっていますが、文化会館の職員の方に言えば開けてくれ塚の石も見せてもらえます。また館内の図書室では町史などの閲覧ができます。
そういった諸々の情報を組み合わせると一つの仮説に行き当たります。
まず姫は白石の浦にたまたま流れ着いたのではなく、最初からここを目指して来たと考えます。では京の公家の姫を乗せた船が白石を目指す理由は何か。
三瓶町ふるさと写真集「想いの足跡」に「中世になっても三瓶の大部分は橘氏の支配下にあったが、鎌倉時代中期(1236年)に西園寺氏の支配下に入った。」とあります。この西園寺氏とは京都の公家である西園寺家の支流にあたります。
京都西園寺家の姫がハンセン病に罹ったが体面を考えると家に置いておく訳にも行かず、やむを得ず付き合いのあった伊予西園寺氏に預けることにした。預かる側の伊予西園寺氏は領地の中で海が近く目立たない場所、鴫山に姫のために庵を用意。姫を乗せた船は鴫山への最短ルートに当たる白石の浦を目指して航海し、無事到着。
数年後、姫は鴫山の人たちに看取られて穏やかに生涯を閉じ、西園寺家の菩提寺である西園寺が密かに弔い、宝蓮院殿妙芳大禅定尼という立派な戒名を与えた。西園寺家からハンセン病患者が出たことが公にならないよう、姫の素性が分かる品などは鴫山に残されず、戒名や没年なども秘密にされた。
その後伊予西園寺氏は長宗我部氏に滅ぼされ、鴫山の姫と西園寺家との関係を知る人はいなくなり年月が経過。明治になる頃には鴫山の人たちでさえ姫の没年も分からなくなっていた。
この説に従って西園寺家の家系図を見ると西園寺実材の娘など長じてからの消息が記録に残っていない姫がいます。そういう姫の一人が姫塚伝説の姫である。この仮説どうでしょう。
上の写真左は戒名が刻まれた五輪塔で、右は鴫山の集落です。下は左から文化会館近くにある、じゃこ天「開洋」。私ここのじゃこ天が大好きなんです。三瓶湾に面していて眺めが良い「ホテルみかめ本館」。そこのレストランで食べたアジの洗い定食1300円。天然物のアジを使っているそうで、さすがの美味しさでした。
姫塚について更に詳しく知りたい方はこちらをクリック、ただし長文
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