近年、十日町の火焔型土器を含む一連の土器群が、国宝に指定されたことは有名だが、その先駆けとなった火焔A式1号(通称火焔土器)が今から70年程前に一個人によって、既に発見されていたということは以外と知られていない。
 多分その当時、この土器がある系統を形作りながら新潟県内(一部県外)のあらゆる遺跡から次々に発見され、しまいには国宝にまで指定される物が現れるとは、発見者の近藤さんも想像だにしなかったのではないだろうか。
 発見されてから数十年、近藤氏の仕事を引き継いだ中村氏をはじめ幾多の人々が、この土器の魅力と謎に挑戦してきたが、未だに私を納得させる明確な答えを出した人はいない。中村氏は、その大きな特徴的な鶏頭冠を中国や中近東方面にまで答えを求めたが、明確な回答を得られぬままこの世を去られた。そこで私もこの場を借りて自説を交えながら、その謎解きを展開してみようと思う。
※ 火焔土器という名称は馬高遺跡で出土したA式1号だけに与えられた通称であるが、このHPでは、火焔型土器を含め一連の土器群を火焔土器と便宜上呼ばせていただく。

左の写真は中道遺跡で表採した火焔土器の一部(炭化物のこびりつきがかなり見られる)。
火焔土器考


特徴及び既に分かっていること
・4つの大きな取っ手(鶏頭冠)がある。
・取っ手の付け根の口縁部に波状(鋸歯状)の飾りがある。
・取っ手の大きさや派手さに比べて土器の下部は細く(小さく)、又、それがゆえに美しく雄大な印象を与える。 ただし口縁部から下部までが、ずん胴状のものや浅鉢状のものもある。
・鶏頭冠の向きは左右どちらもある。
・中間部から下部にかけては隆起線でS字状、渦巻き状、直線の模様が刻まれている。
・鶏頭冠は内側と外側で明らかに違う形態のものを張り合わせ空洞を形成している。
・明らかに煮炊きに使った形跡が見られる(炭化物のこびりつきが見られる)
・出土地点の分布が現代の新潟県の中に限定している。一部例外もあるが、それとて極端に大きく離れてはいない。
・中越地方(信濃川流域)から始まり、そこから広がって行ったと考えられている。※福島県会津地方が発祥という説もある。

各論
 鶏頭冠は何をイメージしているのか?前述したように多くの人が謎解きをしたが、明確な結論は出せなかった。しかし、特徴にあげているいくつかの中にヒントが有るような気がする。以下は筆者が色々な観点から火焔土器の謎に持論を展開してみた。


1.新潟県に限られるということに焦点を当てて考えてみよう
 伝播は川沿いに婚姻による人の交流がもたらしたものと思われる。嫁入りか婿入りかは分からないが、女性が一族の家紋(宗教か?)として嫁ぎ先に伝えたと思われる。なぜなら土器の製作は女性が携わっていたと考えられているからである。
 現在も新潟県の県境は山の尾根伝いに線が引かれている所が多く、当時の人々の行動範囲も高い山を越えて人の交流は少なかったものと思われる。よって現在の新潟県の形に出土地が重なるのではないかと思う。
 検証する上で5,000年前から現代まで変わらずに、新潟県に限定されたものを土台にし、考えてみよう。代表はやはり風景(地形)であろうか。それともう一つ大事なことは火焔土器の初期の形態はどんなものであったかということである。あの形が突然出現したのではなく、発端となった形が有るはずである。現在、これが初期の形だと言われているものに、長岡市の山下遺跡から出土した土器群がある。いわゆる火焔土器とはかけ離れているが、鋸歯状の飾りもあり、円形の飾りを二つ組み合わせた様な取っ手も付いていて、どこか似てなくもない。
 伝承や口頭で人から人に伝わっていくものには、時代を経るごとに当初の形や意味とは別のものに徐々に変化していくということも、検証するにあたり、ふまえておかねばならないと言うことである。神社の鳥居やのし袋ののしなどの様に、現在の形から当初の形を想像だに出来ないものがある。ただし初代と後代には何かしら、連綿とした面影や特徴が残っていることも見逃してはならない。
 以上のことをふまえて考えてみよう。

 
新潟県人なら誰でも知っていて、当時の人も見ることの出来た物は。?
 弥彦山はどうであろうか。この山は新潟県の大方の地域から見ることができ、その姿は越後平野に忽然とそびえ、さらには古い時代から越後一宮としてまつられてきた歴史がある。現代人の我々でもその姿にえもいえぬ神秘な霊力を感じる。
 もしかして鋸歯状紋は弥彦山を連続して表現したものではないだろうか。それとも鋸歯状紋が弥彦の周りの低い山で、鶏頭冠こそ弥彦山と霊(神?)を合体し現したものではないだろうか?
 いずれにせよ当初は鋸歯状紋に意味があったが、年代を経るうちに鶏頭冠の方に重要性を持たせるようになってきたのではないだろうか。

 
下の写真は、馬高遺跡後方の関原丘陵頂上部から弥彦山を写したものである。二つの連山が回りの低い山なみから突出して見えるのが分かる。当時の人も同じ風景を見たはずである。
 もう一枚は同地点から斜め後ろを振り向いて写したものである。越後三山が早春の陽を浴び、真っ白な威容を誇っているのが見える。この三山を鶏頭冠にたとえ、下の低い山並みを鋸歯状紋に見立てたとも考えられないだろうか。
 もう一つ早春の山で忘れてならないものは、雪渓(雪形)である。これは今でも方々の地域で、春を告げる代表として語り継がれている。もしかして縄文人も春の到来(山菜や獲物の収穫)を祝い、どこかの雪型から鶏頭冠の不思議な造形を見つけて来たのではないだろうか。

 
もう一つ新潟県に限定された風景としては、佐渡島も考えられる。晴れた日の波間に浮かぶ佐渡島も、何か神秘的な感がある。波立つ海原を歯状紋に島を鶏頭冠に。飛躍のし過ぎだろうか?



                     関原丘陵から見た弥彦山と越後三山(右下)


2.煮炊きにも使用したということは?

@ 魚案
 日常的に使用するには非常に使いづらいこの土器を、煮炊きに使用したということは、何かハレの日や特別な収穫があった時に使用したと考えられる。
 それは何か?
 前述した川の文化圏が発祥だとすると、魚が一番に考えられる。鮭か鮎かそれとも鮒か鯉か?鮭だとしたら、その年に初めて採れた鮭を祝い、神に捧げ煮たとは考えられないだろうか。鮭は秋になると大群で川を遡上する為、非常に漁がしやすい魚である。縄文人にとっても、長い冬を乗り切る為の貴重な蛋白源であったはずである。
 何かの資料で見たことがあるが、日本で一番鮭を食べるのは、なんと新潟県人であるらしい(北海道ではない)。
 新潟県人にとって鮭は年越しのお供えとしては欠かすことのできない、宗教的にも重要な魚であると同時に、村上の鮭に代表されるように、食生活の中でも代々大切にされて来た、いわば文化である。もしかして、縄文時代から脈々と続いて来たとは考えられないだろうか。
 あの鋸歯状紋は背びれなどの、ひれの突起をあらわしている様にも見えないだろうか。魚類学的にはよく分からないが、鮭の骨の中には、あの鶏頭冠に似た形が有るかもしれない。一度魚類図鑑などで鮭の骨格を調べてみる必要がある。
 その他、魚に結び付けて考えてみると、古典的な鮨の原形として今もつくられている馴鮨や鮒鮨の貯蔵がめの可能性も考えられる。
 火焔土器は一般住居址の中で普通に見つかる事が多く、見た目の派手さの割に日常生活の中では、普通に使用されていたのかも知れない。

A 動物案

 
鶏頭冠は表側と裏側では明らかに違う造形の物が意図的に張り合わされている。それは何を意味するかと言うと、2種類のものをどうしても背中合わせにする必要があったと思われる。S字状にくねった模様の裏側が前述した魚だとしたら、表側は動物か鳥ではないかと思われる。鶏頭冠の表側は2本の足と上向きの尻尾の様な造形になっているからだ。しかし、それが何であるかというと分からない。
 ただし特別な収穫ということを想定すると、鴨や兎などのような比較的安易に得られ、危険性をともなはない獲物ではなく、1年に1回獲れるか獲れないかというような動物だと思う。それは何か?
 個人的には熊か鹿だと思う。どちらも大型の動物で、特に熊は食料にも薬にもなる貴重な動物である。
 鹿は当時としては大型で肉も美味しく、やはり貴重な蛋白源であった筈だ。
 熊の牙や鹿の角が鋸歯状紋や鶏頭冠のモチーフになったとも考えられないだろうか。
 そして、それらの獲物が獲れた時、神に捧げる分を火焔土器で煮たのではないだろうか。

B 複合案
 
古代、弥生人の浸透や混血が北九州地方から始まり、現在の日本人が形成されていったということは周知の事である。
、しかし、津軽海峡で分断された北海道にはその浸透があまり及ばず、アイヌ文化という形で現代まで大切に伝えられてきたことは、奇跡的であり、縄文文化を研究する上で非常に役立つ点があると思う。
 そのアイヌ民族の生活の中で、万物に神を結びつける発想に注目したい(神道の八百万の神にもつながると思う)。
 あの火焔土器を見ながら思い当たるものを挙げてみた、熊の牙、鹿の角、猪、犬、魚、ニワトリ? 鳥の羽、蛇、ぜんまい、わらび等・・・・ いかがであろう。人により連想するものは、まだ色々あると思う。
 要するに、一つの物を現しているのではなく、幾種類かの神々の特徴だけを集めた複合体とも考えられないだろうか。
 そして、その年の初物が獲れた時などに、火焔土器で煮てみんなで食べたのではないだろうか。
 現代でも、初物が採れたときや人にいただき物をした時は、どんなに少なくても一人で食べず、家族みんなで食べたり、神棚や仏壇にあげてから食べる習慣は残っている。同じような使われ方をしていたのではないだろうか。

3.自然への畏敬の念か?
 縄文人も現代人も自然の脅威の前では、時として神の存在を信じたくなる場合があると思う。
 もし、脅威の対象となる物の具現化だとしたら何が考えられるか。
 雷の稲妻が描くギザギザや火焔土器と言うくらいだから火か。それとも水煙あげて流れる大水か。大風や大雪、月や太陽、流れ星などの天体現象も考えられる。
 個人的には雷を一番と考える。なぜなら雷は大きな音やまぶしい閃光と共に、季節の変わり目を知らせてくれる大事な合図であると同時に、雨を降らせる事により自然の恵みを与えてくれる重要な自然現象であるからである。
 その他、目に見えない脅威としてウイルスや細菌などによる病気も考えられる。
 現代でも近代医療が届かぬ地域や届いたとしても時にまじないや迷信等に頼る民族、人々がいる。縄文人もその様な時、薬草などを火焔土器で煎じ、治療に使ったのではないだろうか。あの飾りは病気を退治する神の具現化なのではないだろうか。ただし、それが上記で考察してきたモノ達であるかも知れない。

追記(中越地震後)+追追記(中越沖地震後) 
 筆者はこの度の中越地方を揺るがした大地震を経験し、大地が割れ、波打つ様子を目の当たりにし新たな考えをこの頃持つようになった。
 もしかしてあの火焔土器の激しい造形は、当時、縄文人が経験した大地震への恐怖と畏敬の念から作り出された地の神?的(弥彦山が怒ったと考え)な原始宗教から発生したのではないかと。
 なお火焔土器が作られた期間は数十年程(50年くらいと言う方もいる)と考えられている。これは当時も地震の記憶が薄れるにつれ、忘れ去られて(作られなくなった)いったのではないかと考えられる。
 なお王冠型と火焔型は二連山の弥彦山を各々現しており、住居の中に対に飾りお供えをしたのではないかと考えられる。




4.結論
 以上、筆者の勝手な考察を展開してみたがいかがであろうか?
 やはり難しい土器である。
 色々挙げてみたが、筆者の結論は歯状紋が弥彦山で鶏頭冠が鮭というのが答えである。将来、付着した炭化物をDNA鑑定することにより、煮炊きした物が分かる時が来るだろう。その時が楽しみである。
 又、実際にあの取っ手に紐を通してみたり、煮炊きしてみることにより思わぬ事実とヒントが見つかるかも知れない。次の課題である。
 尚、筆者が知らないだけで、既に誰かが考察済みのものもあったかも知れないが、それは筆者の勉強不足ということでご了承いただく。  

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